2、出会い
放課後、僕はまだ陽が落ちていない時間帯に校舎を出た。いつもなら教室で勉強しているのだけれど、今日はあいにく国語辞典を家に置いて来てしまった。明日は国語の授業があるため、予習をするつもりだったのだが、辞書がないのではどうしようもない。図書館でやるという選択肢もあるが、放課後の図書館はわりと人が多い。僕が放課後いつも教室で勉強するのはそのためだ。それに使い慣れた辞書でやる方が、効率もいい。家は幼い兄弟が何かと邪魔してくるし、テレビの音もうるさいので、あまり集中できないのだが、たまにはいいか。
今日は僕が早く帰るので、机に落書きする奴らは明日わざわざ早く来なくともいい。もしかしたら喜んでいるかもしれない。あくまでまだ教室に残ってだべっていた奴の中に犯人がいるのならだが。誰が犯人かなんて、興味はないから知らないしわざわざ調べないけれど。
ラグビー部がすでに活動を始めていたので、僕はグランドを迂回して校門へ向かう。ゴツイ体つきで日に焼けた人々(本当に高校生だろうか。でかいし、オッサンくさい。ひげは生やさない方がいいと思うなぁ)の後ろから小さくてひょろっとした人たちが必死に掛け声をあげながら走っていた。僕と同じ一年生だろう。大変だなぁ。2年もすればあの子たちも先を走る先輩たちのようになるのだ。頑張れ。
グランドを迂回すると、ちょうど部室棟の前を通る。いつもは時間が遅いので、部活動が終わって整備されたグランドを突っ切るため、間近で見るのはこれが最初かもしれない。
建物の隣には大きな木がある。教室で見たときも、何の木かわからなかったけれど、近くで見てもやっぱりわからない。まぁ、植物の知識がないため近くだろうが遠くだろうが関係ないのだが、学校や公園の木って、近くに名前の書いた札が立っていることが多いけど、それらしいものは見当たらなかった。
その木は部室棟の一番端の部屋にだけ影を落としていた。建物は2階建てなのだが、部室棟と木の距離と、太陽の方角のせいで、一階だけが日陰だ。朝見たときも陰っていたので、どうやらこの部屋だけ一日中日陰らしい。
それだけ見るとなんだかその部屋だけじめっとしてカビっぽいイメージだが、実際にこの場所に来ると、意外と悪くない。
春の日差しはそんなに強くないものの、今年は気温が高めなのでずっと日に当たっているのはさすがに暑い。しかし、この場所はただ陰になっているのではなく、ちょうど良い具合に木漏れ日がさし、うっそうとした感じは全くない。逆に木の葉の隙間から差し込む、チロチロとゆれる光が心地いい。僕は思わずそこで立ち止まった。
木の下なので緑のにおいもつよい。ここならきっと夏でもすごしやすいに違いない。
そのとき、ふと、視線を感じた僕は振り返った。
その部屋の窓辺に、さっきまではいなかったのに、いつの間にか女生徒が一人立っていた。長いつややかな黒髪。
――――朝の人だ。
そう思って何か声をかけようとしたけれど、僕が一方的に目撃しただけで、相手は僕のことを知らないし、第一、いったい何を話せばいいのか。むしろ話しかけるほうが不自然ではないか。僕は何を言おうとしたのだろう。
視線を感じたのは一瞬だったので、彼女はもうすでに別方向を向いていた。木漏れ日を、目を細めて眩しそうに見上げている。僕はそのまま何も言わずに立ち去ろうと、くるりと校門の方を向いた。しかし、
「ちょっと待って」
きれいなソプラノの声が僕の背にかかる。いや、僕に向けてじゃないのかもしれない。
「そこの黒髪、メガネの子!」
あぁ、僕ですね。
僕は振り返った。そこで今度こそ僕へ向けられた視線をとらえた。女生徒はわずかに色っぽさすら感じる大人びた微笑を浮かべ、僕を見ていた。彼女を初めてしっかり見たが、なかなかの美人だ。セーラー服に止められたバッジが赤色なので、2年生か。しかし、それ以上に彼女は大人びて見えた。それはきれいな顔の造作のせいかもしれないし、彼女のまとう不思議な空気、もしくは木と光が生み出すこの空間のせいかもしれない。
「何か御用ですか?」
しかし、それに見とれたのも数秒、僕は彼女に問いかけた。たぶん無表情だったと思う。声も事務的だ。
「もう、つれないわね。女の先輩に声をかけられたんだから、ちょっとは緊張とか、頬を赤らめるとかないの?」
そう言ってぷうと少しだけ膨れて見せる。美人のわりに、なかなか可愛らしい仕草だった。
「えっと・・・その、すみません。で、何か僕に用ですか?」
突然そんなことを言われても困る。僕に表情があまりないのは事実だが、それを指摘されても。しかも初対面で。
「君、いつも昼休みに屋上にいる子じゃない?」
「え、何でそれを・・・」
彼女の言葉に驚く。なんで知ってるんだろう。屋上は僕以外誰も来ないはずだ。だって鍵を壊して付け替えたのはほかならぬ僕だったからだ。もしかして彼女は生徒会とかその辺の人なのかもしれない。僕に注意をしようとしているのか。
僕のわずかな動揺を感じ取ったわけではないだろうが、彼女は続ける。
「別に咎めてるわけじゃないの。君、たまに屋上から景色を眺めているでしょう?私、とっても目がいいから、ここから君の顔が見えたのよ。ただそれだけ」
「なるほど」
・・・で?
きょとんとする僕を見てあきれたようにその女生徒は言う。
「君、友達いないでしょう」
「はぁ、まぁ・・・」
毎日屋上で一人で飯を食べていればそう思うのも無理はない。事実だし。
「いや、屋上に一人でいるのは別に関係なくて、なんとなく・・・会話がつながらない」
僕のコミュニケーション能力が劣るから?でも、いきなり話しかけてきてこんな話されてもわけがわからないのは普通だと思うが。それとも男子と女子の違いか?
「あの、用がないのなら失礼させてもらってもいいですか?」
僕が再び背を向けようとするのを彼女は慌てて止めた。
「ちょっと、本当につれないわね。・・・用ならあるわ」
何でしょう?という目で僕は見返す。
「君、うちの部に入らない?」
・・・は?
「今の会話からどこをどう考えたらそんな考えに行きつくんですか?」
「いやね、どこをどうなんて、そんな理屈っぽいこと言ってるから友達できないのよ。肝心なのは理屈じゃなくて直感よ。自分が感じたままに行動するのがいいの。いいから建物を回ってこっちにいらっしゃい」
そう言って彼女は部屋の奥に引っ込んだ。きっと僕を迎えるためにドアの方に行ったのだろう。
何でこうなったんだろう・・・。
そう思いながらも、文句を言う相手がすでに目の前からいなくなってしまったので、仕方がなく、僕は部室の入口の方へ足を向けた。そもそも、この部は一体何部なのだろう?




