いっつ・あ・すのーがーる
「決めた。わたし、クリスマスを倒す!」
とうとう九歳になってしまった、ある冬の日の事だった。同じく産まれてから九回目のクリスマスを前に、物心ついた時からの知り合いである『ちぃちゃん』が、突然、小さな拳を掲げて立ち上がったのだ。それはもう意気揚々と。どこかの大統領みたいに。弾みで、彼女がたった今まで食べていたぽたぽたが、手からすべり落ちる。
それを受け止めながら、
「えー」
僕はいつも通りちょっと困ったような顔をする。ぽたぽたを食べた。美味しかった。
「『えー』、じゃない! いい? 『しぃちゃん』。クリスマスは――ってそれわたしのじゃん! 何で食ってんだよー!」
「ああ、ごめんなさい」
素直に謝る。怒られたということは、悪いことをしたということなのだ。それぐらい、僕だって分かる。悪いことをしたら謝る、それが人として当たり前のことだとも。僕は、ちゃんと理解している。
だから謝った。
けれど、何故だろう。僕がこうして謝ると、先生や他の子達は皆、とても微妙な顔をするのだ。怒っていたはずなのに、どこか困っているような、変なものを見たかのような表情。僕は当たり前の事をしただけなのに、どうしてそんな目で見るのだろう。初めの頃はそんな疑問も素直に口に出していたのだけれど、誰しもが同じ反応をするので、今ではそれは訊いてはいけないことだと理解していた。そのことに気付くのに、七年かかった。
でも――
それでも――だ。
「むー……美味しかった?」
「うん、美味しかった」
「じゃあ許す!」
ちぃちゃんだけは、僕に怒ってみせた後、こうして笑うのだ。何だかんだで。とても、嬉しそうに――笑う。
それもまた、先生や他の子たちのあの目と同じくらい――いやそれ以上に――何故ちぃちゃんがそんな顔をするのか僕には分からなかったけれど、不思議と悪い気はしなかった。そう、不思議と。疑問ではなく、不思議として僕はちぃちゃんの笑顔を、そしてこの気持ちを捉えていた。 悪い気はしない、などとは言ったものの、別に先生や他の子たちが僕に向ける目を、僕は一度も疎ましいと思ったことは無かった。何故そんな目をするのか、そんな疑問があるだけで、特にその目をして欲しくないとも思わなかったし、また同じくらいして欲しいと思わなかった。この場合、疑問には思っているのだから『無関心』ではないのだろうけど、だったら何なのかと言われると、僕はまた首を傾げてしまう。
だからやっぱり、それは特別だったのだろう。
同じ分からなさでも、片や悪い気はせず、片や疑問に思うだけ。
僕にとって、ちぃちゃんの笑顔は特別だった。
それが何故かは分からないし、この気持ちの正体も、特別ではあっても大切ではあるのだろうかという疑問も、そもそも『ちぃちゃんが』なのかちぃちゃんの『笑顔が』なのか、不思議は枚挙に暇がないので、もちろん口には出さないけれども。
ちぃちゃんは。
「でさ――」
と、何でもないように話を戻しにかかった。
「しぃちゃんは、どうやったらクリスマスを倒せると思う?」
「うーん……」
僕はうなった。もちろん『クリスマスの倒し方』を考えようとしたから、ではない。そもそもな話――それはいつものことだけれども――ちぃちゃんの言っていることが、その脈絡が全く分からなかったからだ。
「えっと――ちぃちゃんは、何でクリスマスを倒したいの?」
「え?」
僕の疑問に対して、ちぃちゃんは、心外とばかりにその大きくてまん丸な目を更に見開いた。『何でそんなことを訊くの』ではなく、『そんなことを訊かれるとは思わなかった』という思いが、ありありと伝わってくる。
「だって、クリスマスだよ、しぃちゃん。しぃちゃんこの間言ってたじゃん。クリスマスって『子どもがサンタからプレゼントを貰う日』なんだよ、って。でもおかしいよね。わたしたちも子どもなのに、プレゼントなんて貰ったことないよ。サンタさんは、どうして他の子にはプレゼントを上げて、わたしたちにはくれないの? そんなのおかしいよね。わたし知ってる。そうゆうのは、差別っていうんだ。そんなことするクリスマスなら、わたしいらない。だから倒す!」
「ふうん、なるほどー。でもちぃちゃん。それなら倒すのはクリスマスじゃなくて、サンタじゃない? 差別しているのは、サンタの方だよ」
本当は。
僕は、クリスマスというものがどういうことで、サンタさんなんて僕達には存在しないことも、どうして僕達がプレゼントを貰えないのかも知っていたけれど、ちぃちゃんのそのやる気に満ち満ちた顔を見ていると、何となく言うのははばかられた。それはちぃちゃんのやる気を尊重してあげたいというよりは、ちぃちゃんのそんな表情をもっと見ていたいという、とても利己的な理由だった。
「あ、そっか。やっぱりしぃちゃん頭いいねー」
偉い偉いと、頭を撫でられる。同い年なのに一ヶ月歳上のちぃちゃんは、僕よりも背が高い。ほんの数センチ。その距離が数字以上に思えるのは、何でだろう。とか、また新たな不思議を認識したところで、ちぃちゃんが再び奮起した。
「よし! じゃあサンタを倒そう! わたし"たち"の敵はサンタだ!」
「わたしたち?」
「もちろん、しぃちゃんも一緒に行くんだよ! しぃちゃんは頭はいいけど運動はできないから、さんぼーたんとーね。わたしは……なんだろう。あんまり考えたりするのは苦手だから……」
「実戦担当?」
「そう! それ! わたしはじっせんたんとーね!」
「で、どうやってサンタを倒すの?」
「うーん……とりあえず頭突きしてみる」
「ちぃちゃんは頼りになるね」
「しぃちゃん頼りにしてるよ」
にぱっ。ちぃちゃんは笑う。僕は笑わなかった。でも、自然と拳を突き出していた。こつん、と。真っ白な雪に映し出された影の手が、重なる。
「でも……サンタってどこにいるんだろう?」
「それは――」
僕は少しだけ迷いながら「裏山じゃないかな。あそこなら、街も見渡せるし」そう言った。
「なるほどー。じゃあ今から行こう!」
「今から? こんな時間に外に出たら先生に怒られるよ」
「でも、明日になったらサンタがプレゼントを配り始めちゃうよ。その前に倒さないと」
「それもそっか。それなら、今から行こう」
「うん!」
そして僕達は歩きだす。
――――
裏山と言ってもたかが知れていて、小学校の遠足でも気軽に使われるくらいの標高と傾斜しかないその場所はしかし、この時期になるとその姿を豹変させる。雪。雪山である。北国程ではないにしろこの福井という土地は、日本海に面しているということもあって、結構な雪が積もる。中でも比較的山あいにあるこの街は、輪にかけてその傾向があった。一口に雪と言ってもその日の気候によって雪質は違うのだけれど、不幸なことにこの日はわた雪で、歩けば歩いたそばから足を取られた。子どもの足なら尚更だ。時には這って進まなければならないくらい。ちぃちゃんが言った通り運動のできない僕は、たぶん人一倍辛かったけれど、それでもちぃちゃんが「頑張れ」なんて、自分も辛いはずなのに言い続けてくるので、最後まで弱音は吐けなかった。
そして。
普段は一時間もあれば登れる裏山に、実に四倍もの時間を掛けて僕達はたどり着いた。
時刻は、23時57分。クリスマスの――ジャスト3分前。「間に合ったー!」と、ちぃちゃんがその場に仰向けに倒れたので、僕もそれに習った。実際、もう立っていられなかったし。四時間。その数値と冷たい積雪は、九歳という僕達の身体から確実に大切な何かを奪っていた。
「…………サンタ、いないね」
ちぃちゃんは言う。
「うん。でも、星は綺麗だよ」
いつの間にか雲は晴れ、夜空には満天の星屑が広がっていた。冬は空が低いらしいけど、なるほど、こうして裏山に登り、仰向けになってみるととても実感できた。
「うん、綺麗だね……本当に、綺麗だ」
息が遠い。心臓の音がゆっくりと流れていく。僕はポケットに手を入れ、ある物を取り出した。
「ちぃちゃんちぃちゃん」
「なんだい、しぃちゃん」
「実はね、サンタの正体は僕だったんだ」
言って。僕はちぃちゃんの方を振り向かず、彼女の手にそれを握らせた。手作りの小さなぬいぐるみ。失敗だらけでちぐはぐで不恰好で、まるで僕のような、この日の為に用意していたちぃちゃんへのプレゼントだった。
ぎゅっ、と。
握らせたプレゼントごと、ちぃちゃんが僕の手を握ってくる。
「そっかー……サンタはしぃちゃんだったのか。それじゃあ、倒せないなあ……」
「僕は倒せないの?」
「しぃちゃんは強敵だからねー。わたしにとっては」
「そっか、強敵か」
「うん、強敵」
「それは適わないね」
「そう、叶わない」
「あははははは」
「ははははは」
今、僕は笑っていたのだろうか。それは僕にも分からなかったけれど。何だかとても暖かい気がした。星が瞬く。流れ星は流れない。冬の雪のような沈黙が流れて、ちぃちゃんは、言った。
「しぃちゃん、そっち行ってもいい?」
「うん、いいよ」
「何だかねー、眠いんだ……」
「うん、僕も」
「そっかー、しぃちゃんも眠いのかー……」
「でも僕は、ちぃちゃんが眠るまで起きてるよ」
「…………うん。ありがとう」
「おやすみ、ちぃちゃん」
「おやすみ、しぃちゃん」
しばらくして。
聞こえてくる、小さな寝息。凍るように静かで。星のように価値がある。大切な、全て。ああ――そうか。今更になって分かる。僕は。僕にとって、ちぃちゃんは――。
隣でちぃちゃんがだんだんと冷たくなっていくのを感じながら、僕は目を閉じる。
本当は全然眠くは無かったけれど。
それでも眠りたかったから。
さよなら、クリスマス。
ばいばい、ちぃちゃん。
また明日、しぃちゃん。
いつまでも、一緒に。
どこまでも、一緒に。
そして僕達は、二人並んで眠りに落ちた。