色彩ぼやけた視線の先Ⅶ
「私も一緒にしたい、ちぃくんと」
その言葉を聞いた瞬間、千尋の表情から笑顔が消えた。
千尋の手元にあったトングが音を立てて床に転がった。
「あ、ごめん」
そう言って千尋はトングを拾おうと下を向いた。
その時には先ほどと同じ表情に戻っていた。
「絢ちゃん、なんでいきなり千尋を名前で?」
ふざけた風にしゃべる敏樹だが、目は真剣そのものだった。
「え、えぇと・・・・みんながお兄ちゃんのことを名前で呼んでるから、私も呼んでみたいなぁ、と思って・・・ダメだった、お兄ちゃん?」
千尋はトングでケーキの取り分け作業に戻りつつ、にこりと笑った。
「べつに絢がそれでいいならかまわないよ」
千尋は笑顔でそう言った。だが、そこには冷たい何かを感じずにはいられないぐらい軽薄な言葉に聞こえた。
「それよりもケーキまだまだあるからどんどん食べて」
いつもの調子で千尋が周りに声をかける。
そこにいた女子はせっせとデザートタイムに戻ったが敏樹だけは真剣な眼差しで千尋を見ていた。
デザートタイムもすぐに終わり、千尋は弁当箱などを片づけはじまる。
「あ、私も手伝うよ。ち、ち、ちぃくん」
「・・・うん、たのむよ」
「どうしたの?なんか顔色悪いよ。あ、やっぱり名前で呼ばれるのが嫌だった?」
「そんなことないよ」
「おお、そう言えば千尋。次の授業当てられる日だ。予習しないと」
敏樹がわざとらしい大声で話す。
「鬼ヶ島ちゃんもだ。って事で、間宮家の女の子たち!?片づけ頼むよ」
「待て、なんで僕まで!?」
「いいから、いいから」
敏樹はそのまま渚と千尋の背中を押して屋上を離脱した。
「お、おい前園。いい加減に押すのをよせ」
「おお、ごめんごめんご」
敏樹はにやけながら渚から離れる。
「にしても早く戻らないと」
「・・・すまん。ちょっと顔洗ってくる」
「おう、行ってこい」
何の反応も見せず千尋は俯きながらその場を去った。
「お、おい千尋・・・」
「鬼ヶ島ちゃん・・・ちょっと話しようか」
千尋を追いかけようとした渚を敏樹が止める。
「な、なんだよ。話って・・・?」
「ちょっと場所変えよう」
敏樹は渚を連れ、人少ない渡り廊下に出た。
「ここならいいかな」
「おい、前園。いい加減にしろよ。話ってなんだ」
「まぁまぁ、怒るなよ。あとこれは大事な話だから」
にやにやしながら話す敏樹の雰囲気にとても大事な話には思えない渚だったが、敏樹はすぐに真剣な面持ちに変わった。
「二人の秘密ってやつについてだが・・・鬼ちゃんの方は分からないがきっと千尋の方はあいつの家族関係についてじゃないか?」
「な、なぜそれを?」
「はは、簡単だ。俺とあいつは小さいころからつるんでたからな。そんなすぐわかるさ」
おどけたように笑う敏樹だが、すぐに視線を下に落とす。
「なら分かるよな。あいつは…家族のことで悩みを抱えてる。しかも、かなり大きな問題だ」
淡々と話す敏樹の声に、渚は息をのむ。
「あいつは自分の生みの親を忘れないように必死で生きてきた」
「それで……あいつは妹さんの存在を認められてない」
「ん…それはちっとばかし違うな。あいつはそれでもあの子たちのお兄さんで居続けようとしたんだ」
「え?どういうこと」
「あいつは妹さん達にさみしい思いを・・・自分とは同じ思いをさせないように頼れる、最高の兄でいようと努力を続けた。それなのに・・・」
敏樹は言葉をくぎり、息をはいた。
「それなのに・・・妹さんに名前で呼ばれた。それは兄ではなくあいつ個人に対しての言葉だ。それはあいつの今までの努力を否定することだ。そしてあいつはあの子たちにとって兄以外の何にもなれない」
「そ、そんな」
渚は言葉を失った。
千尋の中での出来事は確かにマイナスな意味で大きなものだというのは知っていた。
だが、それをそこまでのものには感じられなかったのだ。
「鬼ちゃん。お願いしたいことがある」
敏樹が真剣な面持ちで頭を下げる。
「あいつを頼む。俺以外であいつが過去話したのは鬼ヶ島ちゃんが初めてなんだ。俺にはあいつを自由にしてやってくれ」
「お、おい、前園。頭をあげてくれ」
「頼む」
「分かったから!!僕に出来る限りやってみるから頭をあげろ」
「本当?」
渚が協力の意を示すと敏樹はにやけながら顔をあげた。
自分が乗せられたことにそこで気付いた渚は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「し、しねぇぇぇぇえええぇぇぇぇぇぇ」
「げふっ!!」
思いっきり蹴り飛ばされた敏樹は背中を壁にぶつけ倒れた。
「コヒューコヒュー・・・ひどい・・・じゃないかぁ・・・」
過呼吸の患者なみの呼吸でぴくぴくとひくつく敏樹。渚はそれを鼻で笑った。
「ふん。そのまま寝てろ。僕は教室に戻る」
渚は敏樹を転がしたまま教室に向かった。
渚が教室に着くころには千尋は先に戻ってきていた。
下をうつむいて数学の予習をしていた。
たとえ、あの場を切り抜けるための嘘だったとしてもそれを嘘にしないためにもやっているのだろう。
それは誰に対しての気遣いなのか・・・
渚にはその背中があまりにも小さく、その小さい背中いっぱいに悲しみの色が満ちているように見えた。
「おい、ち・・・」
「おっし、数学始めるぞ」
渚の声は教室に入ってきた教師とそれにあわてるクラスメートの声でかき消された。
その後、声をかけることはできずに時間はたち放課後となった。
「千尋」
「なんだよ、渚」
「大丈夫か?なんか無理してないか?」
「ああ、なんだ心配させたか?ごめん。でも全然大丈夫だから」
笑ってそういう千尋だが、その顔には気迫はなく、ただ謝罪の言葉をいう仮面のようだった。
「まぁなんでもいい。一緒に帰るぞ」
「へ?」
そういって渚は千尋の腕を手に取り、半ば無理やり教室を出た。
校庭に出ると部活をしている生徒たちの声でにぎわっていた。
「そうだ。きょうはゲーセンでも行くか」
「ん?そうだな。それもいい・・・くっ」
少しふらつき地面にしゃがみこんだ千尋。
「おい、大丈夫か!?」
心配して渚が千尋を覗き込むかのような体制をとる。千尋は「心配ないよ」と立ち上がろうとした時だった。
「・・・・・・・・・・・・・・」
千尋が渚を思いっきり突き飛ばした。
いきなりの行動に渚は反応することができず尻もちをついた。
「な、なにすんだ!ちひ・・・」
渚が怒鳴ろうとした次の瞬間、千尋の顔面をボールが激突した。
千尋はそのまま後ろに倒れた。
「千尋!!」
渚は倒れた千尋に駆け寄った。
渚は何が起きたか理解すことはできなかった。
そこには先ほど千尋を強襲したソフトボールが転がっていた。
渚を突き飛ばしたのはこのボールから渚を守るためだとそこでやっと気付いた。
「おい、千尋!!千尋!!」
その声に反応する声はなかった。
「千尋!!」
校庭には渚の声だけがこだまするかのように響いた。




