第五章 五山と相対す、ヨシオ
数日後、僕が学校から帰ると、家のなかにゴリラがいた。
玄関のドアを開けると、家のなかに小さなゴリラが走り回っていたので、驚いてドアを閉めてしまった。
改めて家に入ると、それの正体は、妹のカヨがゴリラの被りものを、かぶって遊んでいた。
それは、頭が人間、体はライオンの、エジプトの砂漠にいるスフィンクスならぬ、頭はゴリラで、体は人間だった。
妹のカヨが、ゴリラになりきっていたのだ。
「ウホウホ、ウホウホ」
と、胸をたたいて踊っている。
「ウホホ、ウホホ、ウホウホウホ」
と、リズムにのって、お道化ている。
ゴリラのマスクを被ったまま、僕にその動きを見せてきた。
マスクを被っていて顔こそ見えないものの、とっても楽しそうにゴリラを演じて、遊んでいる。
僕にゴリラになった姿を見せるという、カヨの目的はすでに果たされており、僕は十分観賞してもう見たくなかったので、階段をあがって、二階にある自分の部屋に行こうとすると、カヨはまだ満足していないのか、僕のあとをゴリラのままで付いて来た。
「ウホウホ、お兄ちゃん。ウホウホウホウホ」
僕は、無視をした。
「ウホホー、ウホホー。お兄ちゃん? ウホウホ?」
マスクの中からの景色は、どんな風に見えるんだろう?
「お兄ちゃん! ウホウホッ」
いつまで、やる気だ?
「ゴリラだウホー」
言わなくても、わかってるよ。
「もー!」
カヨは、無視しつづける僕に、ゴリラをやめて、怒った。
「一緒にやってよ!」
やるかっ!
「一人でやっとけよ」
と僕は、ゴリラの奥の顔に言った。
「えー、なんでー。一緒にやろうよー」
と、ゴリラ(のマスクを被ったカヨ)が言う。
「やらない」
「やろぉー、やろぉー、やろぉー」
と、ゴリラ(の顔で、体はカヨ)が駄々をこねる。
「これ貸してあげるからぁー」
と言って、カヨは、マスクを脱いで、僕に渡してきた。
僕は、ゴリラのマスクを持って、感触を確かめたり、匂いを嗅いだり、光に透かしたり、裏返したりして、よく観察した。
「被らないのぉ?」
「だれが被るかっ」
カヨは、さみしげな顔をした。
「このゴリラ、どうしたんだ?」
と、訊くと、カヨは、
「お母さんに、買ってもらったの」
と、元気よく返事した。
どうして、これを買おうと思った。欲しいものならほかにいくらでもあるだろう? ゴリラ以外に、アニメのキャラのお面とかでは、だめだったのか?
「学校で、流行っているのか?」
「ううん、ちがうよ。カヨが欲しかっただけー」
どうして、こんなもの欲しがるのだ。
「ねー、一緒にゴリラごっこやろうよー。ウホウホウホッ」
と、カヨは、マスクも被らず、ゴリラの動きを真似しはじめた。
「ウホッ、ウホッ、ウホッ、ウホッ」
右へ左へと、リズムをとって、飛びはねる。
「ねー、ゴリラのマスク返して?」
「だめだ」
「えー、返してよー、お兄ちゃん」
「もう、こんなもの被るな」
こんな、気味悪いゴリラ。
「ゴリラ返してー」
「返さない」
僕は、大人気なかった。
「やだー、ゴリラ返してー」
「いやだ」
「ゴリラー。私のゴリラー、返してー。ゴリラー、ゴリラー」
「カヨ、うるさい!」
うるさいんだよ。ゴリラ、ゴリラって。
*
翌日、天気は雨だった。
まだ梅雨入りしていないのに、最近は雨や曇りばかりがつづいている。
こんな天気だと、学校へ行くのも嫌になってしまう。
窓から外を見ると、木がびしょびしょになっていって、葉っぱから落ちる水の粒が止まることなく落ちつづける。気温は下がったけど、かわりに湿気がべたりと粘りつく。
僕が話題の中心になっているあの奇怪な噂も、女子たちの間でますます勢力を増し、いよいよ大事になり果ててしまっていた。
クラス内のことだけではなくなり、学年中の女子が僕の噂をしていた。へたすれば、学校全体で言われていたかもしれない。
決して目立つことのない僕の言った一言が、ここまで大々的に広まってしまうとは思ってもいなかった。きっと五山凛子の影響力がこうさせたのだろう。
そして、今も、僕の左後ろにいる女子たちが、この話題でひそひそ、ひそひそと、僕に指をさしている声が聞こえてくる。
――あいつが五山さんのこと、ゴリラって言ったんだって。
――えー、信じなれない。
――よく言うよね。
――本当っ、凛子かわいそう。
――ひどい奴だよね。
ああそうさ、僕はひどい奴だよ。何せ、ひとりの人間がゴリラに見えてしまうんだからね。
初めて噂がたった日以来、ずっとこんな調子だった。しかし、広まった噂も、さすがに噂で、話しの内容にずれが生じていた。
広まった話しというのは、僕が「五山凛子のことが、ゴリラに見えてしまう」という内容ではなく、僕が「五山凛子のことを、ゴリラに似ていると言った」という、内容にすり替わっていた。
「まあまあ、そんなに落ち込むなよ。もう、噂され慣れただろう?」
角田が弁当片手に、そんなことを僕に言う。
「こんなことに、慣れたくないよ」
僕は、最近あまり食欲がなく、今日もなかなか弁当に箸がすすまない。
「おまえが、女子の悪口を言うからだぞ」
と、新田が言った。
「僕は、悪口なんていってないぞ」
あれは悪口じゃない、真実を言っただけだ。
「まあ、そう、カリカリするなよ」
…………。
「真殿に話しをバラされたんだろう? どうして、真殿にしゃべっちまったんだ?」
と言って、角田はぱくりと箸を舐めた。
「あれ? どうして角田が、それを知っているんだ?」
「まあな、これだけ噂になれば、その発端が気になるだろ。でも、おまえに訊くのも悪いと思ってな、花一に訊いたんだ」
「おいっ、花一!」
「んん?」
と、花一は、いったん箸を置いてから言った。
「こいつらだったら、べつに言ってもいいだろう?」
角田は、うんうんと頷いている。
「なあヨシオ、真殿若菜ってどんな奴なんだ? 可愛くて性格もよさそうだと思っていたけど、違うのか?」
と新田が、興味深そうに訊いてきた。
「さあな。知らない」
僕も、実際どんな人なのかわかっていない。ただ、秘密を簡単に暴露してしまうということだけは知っていた。
「真殿若菜ってのはな――」
と、角田が語りだした。
「――ヨシオとの約束を、簡単にやぶるような奴なんだ。だから、あんまり信用できない、そういう奴だ。ただ、顔はいい。顔もいいし、胸もでかい。きっとあの胸は、そうとうやわらかいはずだ。俺はそう分析した」
と言い終わると、それをじっと聞いていた新田は、感心して頷いていたので、僕は、
「ああ、やわらかかったぞ」
と言った。
「なに!」
角田と新田は、声がきれいにそろっていた。
「なぜ知っている!」
「夢のなかで、揉みまくったからな」
「なんだ、ヨシオの妄想かよ」
「夢の話なんて、どうでもいいんだよ」
二人同時に驚いたのは、おもしろかった。
「でも、夢でもヨシオが、真殿の胸を揉みまくっていたなんて知れたら、それこそ女子からの非難が殺到して、やばいんじゃねえか?」
「そうだな。あっ、俺は言わないぜ」
「あたりまえだ、新田」
と、花一は叱った。
僕がキョロキョロと、まわりを確認していると、
「大丈夫だ、俺たちがついている」
と花一が言って、角田も、
「そうだ、俺たちがいるじゃねえか。なんでも協力してやるぞ」
と、力強く言ってくれた。
「……じゃあ、僕に付き合ってくれるか?」
放課後になり、僕たち四人は、本格的に五山凛子の生態を探るため、下校する五山凛子を尾行していた。
「なあ、わざわざ雨の日にやらなくてもいいんじゃねえか。なあ、新田」
「そうだよ、ヨシオ。次晴れた日にしようぜ」
「二人とも、なんでも協力するって言ったよな?」
「言ったけど……なあ新田?」
「おう……」
角田と新田は、傘の中から顔を出して、お互いを確認しあっていた。
「なるべく早いほうがいいんだ……女子たちに、ずっと言われつづけるのも、さすがに辛いしさ」
僕はもっと五山を知ることで、今の現状からなにかが変わかもしれないと考えたのだ。
「ああ、どこまでも追いつづけようぜ」
と花一は言った。
まだこの辺りは高校の近くで下校する奴が多く、そのなかに混じっていたのでまずバレる心配はなかった。こんなところでバレているようじゃ、尾行する資格ないけどね。
「ヨシオ、あいつらには期待するなよ」
と、花一は、角田らに向かって、顎をしゃくった。
「おい、新田。傘が邪魔なんだよ」
「ええっ、あ、悪い」
「新田、角田。バレないようにしろよ」
花一が言う。
「あっ、行ったぞ」
五山が、角をまがった。
僕らは小走りで、いま五山がまがった角まで行った。そこから、のぞき込むようにして先を行く五山を探した。
五山は歩くのが遅く、すぐそこにいた。体が小さい分、人より一歩の歩幅がせまく、進むのに時間がかかった。
こうして、うしろから五山の歩いている姿を眺めていると、ゴリラが傘をさして歩いているようで、実に可愛らしく思えてきた。
五山が行く道に隠れられそうな、陰になった場所がないかを探す。見つかれば、五山の動きをうかがいながら、そこを通過するまでじっと待つ。
五山はひとりで、歩道の真ん中を歩いている。
僕らの通う高校は、国道に面した場所にあって近くには住宅地や、小さなお店も数件ならんでおり、公園なんかもあったりして、隠れるための陰になるような場所はたくさんあった。
五山の自宅の場所がどこか、わからないけど、帰宅するまでの行動を観察することができれば、今回のミッションは成功となる。
「なかなか前に進まないなー。もっと速く歩けよ」
と角田は、歩くのが遅い五山を見て、イライラしていた。
「今回の僕たちの目的は、五山の自宅までついて行くことじゃなくて、五山の下校時の行動を観察するためなんだ。だから、こうやって見ていることが、本来やろうとしていたことなん
だよ」
「ちぇっ、なんだよ。尾行するって聞いたから、ちょっとおもしろそうだなと思ったのによお。これじゃあ、退屈でなにもおもしろくねえよ」
と、角田は、不満をぶつけてきた。
「角田、静かにしろ! 大きな声出すな」
と花一は言った。
一定の距離を保ちながら近づいて、ある民家の塀を陰にして隠れた。
五山は、ずっと前を向いたまま、てくてくと歩いている。
雨のおかげで、僕らの気配がまぎれて、多少尾行しやすくなっているかもしれない。
僕らのうしろから自転車がやって来て、そのまま五山もおい抜いていった。
「おい、新田。おまえの傘の水がかかって、さっきから冷たいんだよ」
「そんなの、知るかよ。うるせえな」
「なんだとー」
「そっちこそ、なんだよ」
「おい、ケンカするな。五山さんに見つかってしまうだろ」
と花一は、二人を仲裁する。
五山は、横断歩道をわたって、薬局の前を通りすぎ、道を変えた。
僕らもそのあとを追って陰を見つけ、そこに隠れて身を潜めた。
傘がはみ出さないように気をつけながら、少し頭を出して、五山の動きを確認する。そのまま注意ぶかく観察をする。
五山はなんの警戒心もなくただ歩いているだけだ。まさか僕らに跡をつけられているとは思わないだろうな。
僕は、五山が行く先に、次の身を潜められそうな場所を見つけ出した。民家を区画する細い道だ。そこを五山が通り過ぎるのを待った。五山がその道を離れていったら、僕らはそこへ移動する。
「よしっ」
歩行速度の遅い五山がやっと、僕が望む位置まで進んだ。
僕らは、すばやく移動しはじめた。
僕が先頭で、そのうしろに花一、そのあとを角田と新田がついてくる。
身を屈めながら、なるべく気配を消して、物音を立てないように走り、五山から見えない場所まで急ぐ。
その途中で僕は、最後尾の新田が遅れずついて来ているか確認した、ふり返った首を戻し、前方を向いて五山を確認した。
すると、五山はぴたりとして動かず、前を向いたまま立ち止まっていた。
――やばい。突然こっち向くなよ。
身を隠せる場所まで、あと数歩。しかし新田からは、数メートルあった。
僕は、なんとか陰に入った。残りの角田らを、大きな身ぶりで手招ねいて、声を出さずに「早く!」と言った。
最後の新田が陰に入った。五山はどうだ? 尾行に気づいたか?
「大丈夫だ。気づいてない」
花一は、五山を確認して、言った。
「ただ立ち止まっただけみたいだ。どうしたんだろう?」
五山は一度立ち止まっただけで、しばらくすると、また今まで通り、短い足でてくてく歩き出した。
「なぜ止まったのかはわからないけど、気づかれなくてよかった」
僕は、胸を撫で下ろした。
「もし五山さんが、あそこでうしろ向いていたら危なかったな」
「ああ、でも見られてないからよかったよ」
と僕は言った。
「痛てえな。押してくるんじゃねえよ」
と角田が、新田に向かって言っている。
「もう少しで見つかりそうだったんだぞ。仕方ないだろ」
と、新田は言った。
「おまえがもっと速く走っていたら、余裕でここまで来られたんだよ」
「なんだと!」
「もし、さっき見つかっていたら、おまえのせいだからな」
「角田、おまえ!」
「やめろ!」
と花一は、一喝した。
「二人とも、ケンカするなら帰れ」
花一は、髪や肩がびしょびしょに濡れていた。僕たち四人のなかでも、もっとも濡れていたのが花一だった。
危うく見つかりそうになるところを逃れられたことで、僕をふくめて全員が興奮していた。見つからないかという不安と、それに加えて雨が降っているという条件が苛立ちを生み、緊張させ、気持ちを高ぶらせ鋭敏にさせている。
「わかったよ、静かにするよ」
と角田は言った。新田も、
「わかったよ」
と言ったものの、お互い睨み合っていた。
僕自身、集中力が欠けていた。うしろから五山凛子を追いかけて観察する楽しさを覚えて、見つかるという危機感を忘れてしまっていた。もっと用心しないといけないぞ。
バレたら大変なことになる。明日から登校できなくなってしまうぞ。
そうしている間にも、五山は歩きつづけていた。
もうすぐ、十字路をまがってしまう。見失いそうだ。しかし、僕たちから五山までは、幾分距離があった。全力で走らないといけない。――そら、曲がった。
「走るぞ!」
僕たちは雨のなかを、傘をさしながら全力で走った。
ほぼ傘の意味はなしてなかった。すでに足元には水分がしみ込んでいたが、制服のシャツや、ズボンにまで雨に濡れた。
五山がまがった十字路まで行き、その手前で身を潜めて、五山の行方を探った。
「あれ? どこだ?」
と僕は言った。僕は五山を見失ってしまった。
「いないぞ」
「なに?」
と言って、花一もあせって、探しはじめた。
「どこだ、どこにいる」
「おい、見失ったら、今までの苦労が台無しだぞ」
と、角田が言った。
「待て、あれだ」
と、花一は言って、遠くを指さした。
今までの歩くペースを考慮して僕が探していた場所とは、大きくかけ離れた場所に五山は歩いていた。
「もう、あんなところまで?」
と僕は、花一が指さすほうを見た。
「歩くペースが速くなっていないか?」
「ああ、明らかに速くなっている」
と、花一が言った。
いま五山が歩いている道は大通りで、僕らがいる場所からは一直線で、信号を二つはさんだ先にある、見通しのいい交差点にいた。そこまで行くには、障害物が多いわりにはあまり隠れる場所がなかった。
「どうやって、あそこまで近づく?」
「今は、うかつに動けないな」
と花一が言った。角田は、
「早くしないと、本当に見失っちまうぞ」
「わかっている……あっ、隠れろ!」
と花一が、言って、反射的に体をよじって隠れた。
僕も、瞬時に顔を引っ込めた。
「どうした?」
と角田が訊いた。
「はあ……今、こっち見てたぞ」
「……うん」
と僕は、頷いた。
「えっ、気づかれたのか?」
と角田は言った。
「わからん。でも、今こっちを見ていた。遠くにいてよくわからないけど、顔がこっちを向いていた」
「うん」
「もう一度、確認しよう」
と、花一が、言って、壁を背にして、ゆっくりと顔を出し、覗いた。
「キョロキョロしているぞ。なにか気にしている様子だ」
「俺たちか?」
「いや、そうじゃないみたいだ。気にはなっているみたいだが、まだ俺たちには気づいてない」
「そうか、助かったな」
「ヨシオ、どう思う?」
僕も、花一に言われて、五山を覗いた。
五山は、四方八方を見まわして、なにかを気にしていた。僕らが跡をつけている、なんらかの気配を感じとったのかもしれない。なかなか勘が鋭い。
「うん、まだこっちには気づいてないみたいだね」
「そうだな。じゃあ、五山さんがあそこからいなくなったら走ろう」
「えー、また走るのかよ」
と角田が言った。
「さあ、行くぞ!」
花一の掛け声で、僕らはいっせいに走り出した。
「いるか?」
花一が、建物の陰に隠れて、どこかにいる五山を探している角田に、言った。
「あそこだ。信号を待っている」
と角田が言った。
僕は、横断歩道のまえで、赤信号が変わるのを待つ五山凛子の姿を見つけた。
五山は、わりとすぐ近くにいて、そわそわして落ち着かない様子で、信号機に目をやっていて、片手には携帯電話を持っていた。
「おい、携帯電話で誰かとしゃべっているぞ」
と角田が言った。
「なにを話しているんだろう?」
と新田が、久しぶりに声を出した。
「ここからでは聴き取れないな」
と、花一が言う。
「ヨシオ、聞こえるか?」
「いや、僕も聞こえない」
そもそも僕には、五山の声が聞こえても、それがなんと言っているのか理解できないから、聞こえなくても同じなのである。
――信号が、青になった。
ほかの通行者たちの間をすり抜けるようにして、五山はちょこちょこと小走りに、横断歩道を渡りきった。
渡ったところで、また辺りを見まわして、周囲を気にしているそぶりを見せた。
「すごく警戒しているぞ、気をつけろ」
と、花一が、僕らに注意を促した。
五山は歩き出した。ずっと携帯電話を耳に当てたまま、地下鉄の駅があったがそれを素通りし、すぐ近くにあるコンビニへ入っていった。
ゴリラがコンビニへ入った。と、僕は思った。
「ヨシオ、近くまで行くぞ」
と花一が言った。
ちょうど変わった青信号を確認して、道を渡った。
僕たちは、コンビニの入り口がよく見える建物の陰に陣取り、五山の出てくるまで、身を隠しながら、そこでずっと見張っていた。
ほかの客は出入りするのだが、五山はいつまで経っても出てこなかった。
実際の時間はそこまで長くはないかもしれないが、体感ではものすごい長時間を待たされているように感じた。
「まだ、出てこないな」
と僕がなげくと、待ちくたびれたのだろうか、角田は、
「なあヨシオ。俺たち、もう帰ってもいいか?」
と、新田の肩に手を置いて、言った。新田も、
「俺たち、もう帰るわ」
と言った。すると、花一は、
「もうちょっと、待とうぜ」
と引き止めたものの、角田の意思は固いらしく、
「もういいだろ。これ以上待てねえよ。あとは二人でがんばってくれ」
と言い、僕も、その気持ちはわかったので、
「ああ。あとは僕たちだけで大丈夫だ」
と言った。
「じゃあな、明日、このあとの結果報告してくれよ」
と、角田と新田は、手をふって帰っていった。
僕と花一は、二人を行くのを見ながら、五山が出てくるのを待った。それでもまだ、五山に動きはない。
「様子を見てこようか?」
と、花一は言った。
「大丈夫か? もうすぐ出て来るかもしれないぞ」
「ああ、まかせろ」
と、花一は、こそこそとコンビニへ近づいて行き、外からガラス越しに店内を窺っている。
実に、あやしい動きだ。
花一は、「いる、いる」と声を出さずに、大きく口をひらいて言って、ガラスを指さす動きをして見せた。
僕は、親指を立てて、「おーけー」と言う、口の動きをした。
そのとき、こっちを見ている花一の背後で自動ドアが開いた。花一も気づいた。
開いたドアから、人が出てきた。いや、人ではなくゴリラが出てきた。五山凛子だった。
僕は感情がなかった。ただ、その場で見ているだけだった。
花一は、体を変な形にねじまげた状態で、動きが停止していた。五山凛子は、自動ドアのまえから一歩も動かず、花一と向き合っていた。
そのまま、沈黙がつづいた。傘が雨をはじく音だけが聞こえていた。しばらくして、
――ウホォォォォォ!
――うわぁぁぁぁぁ!
と絶叫する、五山と花一の声が、辺り一面にこだました。
*
見つからないようにしていたのに、まさかこうして、鉢合わせてしまうとは思ってもみなかった。これじゃあ、もう誤魔化すこともできない。
僕は、花一のもとに駆け寄り、声をかけた。
「花一!」
花一は、今まで隠れて観察していた五山を目の前にして、狼狽していた。
僕は恐ろしくて、すぐ側にいる五山のほうを見れなかった。
「花一、行くぞ」
と僕が言うと、花一は、
「や、やあ」
と、五山に向かって、話しかけた。
どうしたんだ花一? おかしくなっちゃったのか?
花一は、ぎこちない微笑を作って、
「こんにちは、五山さん。こんなとこで会うなんて、奇遇だなあ」
と、軽く会釈した。
しかし五山は、そんなことされてもなにも言わず、いっさい反応を見せなかった。
それでも、花一は、まだ話しをつづける。
「どうしたのかな、五山さん? 今コンビニでなにを買ったの?」
話し方も、白々しく、不自然だ。
そう思っていたら、五山が、なにかを言った。
「ウホホホ、ゥホゥゥゥ……来ルナ」
「え?」
「ツイテ来ルナ」
ん? あれ?
「五山さん、いつもひとりで帰っているの?」
と花一は訊いた。
「わたしに、ついて来るな」
と五山は言った。
はっ! 五山凛子の言ってることがわかる。ついに、ゴリラ語がわかるようになった……いや、そうじゃない。五山凛子が、日本語を話しているのだ。
こんなに透きとおった美しい声をしていたのか。これで、これからは五山凛子と会話することが出来るぞ。やったー。
しかし、今は喜んでいる場合ではない。この場をなんとか脱しないと。
「花一。帰ろう」
と僕は言った。が、花一は、この場から離れようとしない。そして、
「五山さん、話があるんだ。聞いてくれないか?」
と言った。
花一、どうした?
「こいつの……ヨシオの噂のこと、知ってるだろ?」
なにを言うつもりだ?
「花一、帰るぞ」
「女子たちの間で、ずっと噂されている、あれだよ」
花一、そんなことを言って、どうする気だ。
「もういい、帰ろう」
「もう、ヨシオの悪口言うのやめてくれないか?」
「……」
「なあ、五山さん。お願いだ!」
「……花一、もう……帰ろう」
と僕は言った。
五山は無言のまま、僕らに背を向けた。そして、歩き出した。
三メートルぐらい離れたとき、
「ちょっと、待てよ。五山さん!」
と花一が言うと、五山は、ぴたりと足を止めた。
花一が近づこうと、一歩ふみ出すと、
「これ以上、近寄らないで!」
と、五山が叫んだ。
花一は前傾姿勢になったまま、次の一歩を踏みとどまった。
「そこから、一歩でも近づいたら、あなたの顔がふき飛ぶわよ」
と五山が、注意を勧告する。
「五山さん、話を――」
と、言って、花一が、五山を呼び止めようとした、次の瞬間――五山凛子のうしろ回し蹴りが、ぶぅんと空を切り、花一の鼻の先を掠めた。
「…………」
花一の鼻孔からたらりと、一すじの赤い血が垂れた。花一は体を硬直させて、恐怖でぶるぶるとおののかせていた。
そして、五山はそのまま歩いて行こうとした。
「ま、待てよ!」
花一は、まだ諦めていなかった。
「次は本気でやるわよ?」
五山のあまりの迫力により、僕は止めに行ったほうがいいと判断した。
「花一、もう帰ろう」
「ヨシオ、止めるんじゃねえ。やってやろうじゃねえか!」
「なに言っているんだよ」
「ここまでやられて、男として黙ってられるかよ!」
と、花一は、いきり立っている。
「おい、相手は五山だぞ。わかって言ってるのか?」
「大丈夫だ。今まで言わなかったけどな、実は俺は小学生のころに、街の空手道場に通っていたことがあるんだ」
そうだったのか。知らなかった。
花一は、さしていた傘とカバンと、濡れた地面に置き、空手らしい構えをとった。
「なに? わたしと、やる気?」
「おう、勝負だ!」
と花一が、言い終わる前に、五山がすごい勢いで向かって来た。そして、真空とび膝げり。
花一は「わあっ」と上半身をそらして、五山の空中を舞う膝をかわした。
流れるような動きで、五山は持っていた傘をたたんで、振りかぶった。
花一は、「ちょっ、ちょっ」と言っている。
おい、空手はどうした。
凶器と化した五山の傘は、花一の足に当たって、折れまがった。
苦悶の表情を見せる、花一。
そこに、五山のくり出したブラジリアンキックが、花一の側頭部を直撃した。花一はそのまま、ばたりと倒れてしまった。
言葉どおり、花一は、見事に一蹴されてしまったのだ。
*
「花一! 大丈夫か!」
「うぅぅ……」
息をしている。よかった、意識を失っているだけだ。
僕は、五山のほうを見た。
五山は、顔をそらして、この場から去ろうとした。
「ちょっと、待って!」
僕は引きとめた。
「なに? きみも、わたしとやる気なの?」
「やらない。でも、話しがある」
と、僕は言った。
どうしても、五山に伝えたいことがあった。
「話し? なによ、あの噂のこと?」
と、五山は、冷静に淡々と言う。
「ちがう。そんなことじゃない」
そんな五山とは対照的に、僕は冷静でなかった。冷静でいられなかったのだ。
「じゃあ、なに? 用があるなら早く言って」
花一を殴った傘が壊れてしまってもう使えない。五山に直接、雨が降りかかっている。すごく冷たそうだ。
「傘、貸すよ」
「いらない」
五山は、きっぱり断った。濡れたままで大丈夫だろうか?
「話しってそんなこと? だったらもう行くから」
ちがう。聞いてくれ。
「そうじゃないんだ。僕は……」
言おう。勇気を出して言おう。
「僕は……」
「なんなの?」
「ぼ、僕は……きみのことが……」
ああ、だめだ。言い出せない。
五山は、早くして欲しそうに僕を見ている。
「ぼ、ぼ、僕は……」
「なによ? 早く言って!」
「き、きみのことが……」
うぅぅ、言わなきゃ。言え、言え、言えよ、僕っ!
「わたしのことが、なに?」
「ぅぅ……僕は……」
くぅ、だめだ、緊張して声にならない。でも、言わないと……
「もしかして……わたしのことが好きとか、言うんじゃないよね?」
と五山は言った。――あっ。
「そうだっ、好きです!」
「……えっ……うそでしょ?」
「僕は、きみのことが好きなんだ」
「えっ、なに言ってるのよ?」
「だから、付き合ってください」
「は? なんでよ?」
「お願いします」
「なに? これ?」
僕は頭を垂れて、こころに祈った。お願いします。
少し間があいた。
「……わたし、きみみたいな変態、興味ないから」
と、はっきり聞こえた。え?
どういうこと? 変態? 僕が? どうして?
「どうして、どうして、僕が変態なんだ! ちがう。僕は、変態じゃない。誤解だ!」
「ううん。きみは変態だよ。わたし知っているもん! きみ、いつも学校でわたしのこと見ているでしょう。それに、いろんな人にわたしのこと訊いてまわっていたんでしょう。気持ちわるいよ! 今日だって、学校からわたしのことずっと跡をつけてきたじゃない。ねえ、変態。この、ストーカー! そんなの、変態のすることだよ!」
……全部、知っていたのか。
「やるんなら、もっと上手くやりなよ! それに、告白もね!」
「ああ……」
「どうして、こんなときに言うの? 告白するならもっとシチュエーションとか考えてよ! ムードが大事なのよ! こんなの全然ロマンチックじゃない!」
「でも……今言わないと、もう二度と言えないと思ったんだ……」
「そうだとしても、こんなところで言わないでよ!」
「……ごめん」
「だから、わたし……だから……」
「……知ってるよ。このまえ、バイクに二人乗りしていたとき、運転していた人だろ? あの人が、彼氏……なのか?」
「ちがう、あの人はちがう。付き合ってない」
「でも、その人が好きなんだね」
「…………」
降る雨を遮るものは何もなく、空は、五山に雨を浴びせつづけていた。
「きみ……わたしを好きとか言うけど、わたしのことを……ゴリラだとか、言いふらしているじゃない」
五山の目つきが、一変した。
「ち、ちがうんだ。あれは……」
「もういい。わたし、あなたを倒す」
と言い、五山はたたかう構えをとった。
え?
「な、なんで、どうして?」
しかし、五山はそれ以上なにも言わなかった。
五山の構えは、以前、樹貴男とたたかったときに見せたのとはちがっていた。深く腰をおとして、どっしりとして、押してもびくとも動かなさそうだった。
五山とたたかうのか? この僕が? いま好きだと告白したばかりなのに?
こうなったら……仕方ない。もう、やるしかない!
僕は、傘を捨て、カバンを放り投げ、たたかう構えをとった。
こんな感じだったか? ちがう、そうじゃない。いつも読んでいる『バキ』を思い出せ。
五山と向かい合い、その距離は五メートル。その間を二人の殺気が渦まいている、ような気がした。
実際に相対さないとわからない、五山から放たれる殺気と威圧感が、波のように押しよせて来る。
目に雨が入った。
痛いけど、ぐっとこらえて、五山からは目を離さなかった。
五山と対峙してみて、改めて五山の強さを思い知らされた。こうしているだけで、五山の強さがひしひしと伝わってくる。僕はこんな強い相手を前にして、なにをやっているんだ。
五山は、一向に動く気配がない。まさに山のごとし。
どうすればいいんだ。まさか、今告白したばかりの人を殴るわけにもいかないし。なにかいい手はあるのか? それ以前に、五山に攻撃されたらどう防げばいいんだ。
僕は、生まれてこの方、ケンカなんて一度もしたことがないのだ。
そんな僕が、今、最強と称される五山を相手に、お互いが動きをうかがっている。
すごい緊張感だ。ケンカというのは、こんなに緊張するものなのか。
でも、さっきの告白にくらべたら、こんな緊張感は、たいしたことない。
さきに動いたのは、僕だった。――
五山は、僕をなめて油断していたのだろうか、または僕の告白で心が動揺していたのだろうか、それとも僕の動きがすぐれていたのだろうか、いずれにせよわからないが、僕のタックルがきれいに、五山に入った。
五山は「きゃっ」と声を漏らし、うしろに倒れ、僕はその上にのしかかった。
のしかかったところから見下ろした五山の表情は、頬を赤らめ、しかめっ面で、とても怯えているように思えた。
――きゃあぁぁぁぁ! ケンカよー! 誰か、警察を呼んでー!
と、突然、悲鳴が聞こえた。
その声の主は、コンビニから出てきた、おばさんだった。
傘もささずに、男が女に馬乗りになり、その傍ら男がひとり気絶して倒れているのだから、そう見られてもおかしくない。いや、現にそうだった。
僕がおばさんの悲鳴に気をとられていると、すかさず五山の拳が、下から僕の顔面をとらえた。
「痛つ! 五山、こんなことしている場合じゃない。逃げないと!」
「わかってるわよ。だから早く退いてよっ」
僕は、五山凛子を下敷きにしていた体を起こし、立ち上がった。そして、雨に晒されていた花一の下に駆け寄り、抱きおこした。
「立てるか、花一? 逃げるぞ」
「んん?」
「いいから立て。走るんだ」
「は、し、る?」
「ああ、そうだ。さあ、立って。逃げるぞ」
五山は、すでに駆け出していた。そのあとを追いかけるようにして僕は、まだ意識が朦朧とする花一に肩を貸しながら、走って逃げた。
しばらく走って、五山が止まった。
ここまで来れば、もう安心だ。
「ついて来ないでよ」
と、五山は言った。
「ついて来たんじゃない、逃げてきたんだよ」
と僕は言った。