傷ついた魔物
リンゲルと別れてからしばし。そろそろ次の土地が近づいてくるだろうかと思う頃、あたしはぴたりと足を止めた。
「…どうした? 『腹減ったから何か食いに行こう』とか言うなら却下だぞ」
「あのね。あたしを食い意地はりまくってるバカみたいに言わないでくれる? そうじゃなくて…ダルド、聞こえないの?この声」
「声…?」
ダルドは、辺りに耳を澄ませる。
春から初夏に変わろうとする爽やかな風があたしたちの髪をとかし、木々の枝でくつろぐ若葉をさわさわと揺らす。日は高く、まだ1日は始まったばかりだ。魔鳥の群れが、太陽に向かって羽を伸ばして飛んでゆく。
「…別に、何も聞こえないが…」
言いかけたダルドの言葉が、途中で止まる。あたしは静かな声で尋ねた。
「聞こえた?」
「ああ…聞こえた。小さな魔物が鳴くような、弱々しい声」
ダルドは頷いた。
「だよね。…なんか、気になる」
「気になるったって…おまえ、それこそ日常茶飯事に魔物なんぞぶっ飛ばしてるじゃねぇか」
「あれは正当防衛」
あたしはきっぱり言い切って、近くの茂みに入り込んだ。
「待て、セイラ。…ったく…」
ぶつくさ言いながら、それでもダルドはついて来る。
そしてまた、あたしはぴたっと歩みを止めた。その頭に、ダルドがぶつかる。
「おい、急に止まるなよ」
「ダルド」
文句を言うダルドを無視して、あたしは呼びかけた。ダルドは訝しげな表情をして、後ろからあたしの前を覗き込んだ。
「…ウトチテレコか」
ウトチテレコ――――
人間界で例えるなら、外観は猫に近い魔物である。愛らしいその顔立ちと仕草で、女の子たちの母性本能をくすぐるような魔物だ。猫くらいの大きさから人が乗れるくらいの大きさに変化することができるが、その気性は荒く、プライドが高い。天魔が近づけば、その鋭い牙や爪で襲われる。
そのウトチテレコが、弱々しく鳴いていた。見れば、白と黒のまだら模様であるはずの毛皮が、わき腹の辺りを中心に赤く染まっている。
格闘家でしょっちゅう怪我をするあたしはある程度の傷なら手当できる。が、それでも治せそうにない。
「ダルド。あんた、この怪我治せる?」
ウトチテレコの前にしゃがみ込んで、あたしはダルドに問いかけた。
「あのな。何でオレが…」
「出来るの? 出来ないの?」
あたしがまったく耳を貸さないことに不満があったようだが、何を言っても無駄だと思ったのかダルドは隣にしゃがんで、ウトチテレコの怪我を覗き込む。
「…そこまで深くない切り傷ならいいが、ここまで深いのは無理だな。応急処置くらいなら出来るが、あくまでも応急処置だ」
「じゃ、お願い」
あたしが頼むと、ダルドはぶつぶつ言いながらもウトチテレコの傷を処置した。それが終わるとあたしはそのウトチテレコをタオルで優しく包み込み、腕に抱いて立ち上がった。
「おい、セイラ…」
「ありがとダルド。…早く、次の土地へ行こう」
立ち上がって踏み出そうとすると、ダルドに肩をつかまれた。振り向くと、いつも以上に不機嫌なダルドの赤い目があった。
「おまえ、何考えてんだ。それくらいの怪我をしている魔物も天魔も、今のこの時代、世界中にあふれかえってんだぞ。オレたちだって加害者側だ」
「わかってるよ、それくらい。あたしだって、魔物とか悪魔とか、容赦なしに倒してるもん。それくらい、十分わかってる。…でも、放っておけないんだ。あたしの勘が、こいつは絶対に助けなくちゃいけないっていってる。あたしは、自分の勘には自信があるよ」
はっきりと、あたしは言った。
ダルドはまっすぐ、あたしを睨みつけてくる。元々目つきが悪く怖いイメージがあるダルドの目が、さらに恐ろしくなる。
でも、あたしだって負けてはいない。このウトチテレコは、死なせちゃいけない。根拠なんて何もない。でも、あたしにはわかる。あたしは、自分の勘を信じている。
あたしとダルドは、しばらく無言のまま睨みあった。
…ふぅ…。
あたし小さく息を吐き、ダルドから目をそらして背を向けた。
「…どこに行く気だ?」
「次の土地。早くこの子、医者に見せなくちゃ。ごめんね、ダルド。わがままばっかり言って。愛想尽かしてもいいんだよ。もう付き合いきれないでしょ、あたしみたいな性格のやつには。ここでお別れ。…ありがとね、ここまで一緒に来てくれて」
「おいこら、ちょっと待てバカ星女」
…むかっ。
「だぁれがバカ星女だよっ! 人が珍しく素直に『ごめん』とか『ありがと』とか言ってんのに!! 赤髪怪力アホ剣士にバカと言われる筋合いはないっ!!」
あたしはダルドを振り返って怒鳴りつけた。するとダルドも勢い込んで踏み出すと、
「オレだって底なしのバカにアホと怒鳴られるいわれはないっ! 大体好きで赤い髪に生まれたわけじゃねぇんだ、ほっとけ単純脳細胞!!」
「誰が単純脳細胞だっ!!」
しばらく怒鳴り合いが続き、最後にダルドが疲れたようにため息をついて、
「…はぁ…わかったわかった。もう何も言わねぇよ」
「あっそ。じゃ、ここでお別れだね」
「誰と誰が別れるんだよ」
…は?
「誰って、あたしとダルドに決まってんじゃん」
「オレがいつおまえと別れるって言った?」
「はぁ?」
言ってる意味が理解不能だ。ダルドは面倒くさそうに頭を掻き、
「おまえがいないと、邪鬼の居場所がわからねぇんだよ。面倒だが、まだおまえについて行かせてもらうからな」
…あたしは正直、嬉しかった。
―――――第1章「ひとりぽっちの星天使」完―――――