伝説
500年ほど昔の話、邪鬼がこの世界を支配しようとしていた頃。もとはひとつの存在であった天使と悪魔は、完全に分裂してしまっていた。
悪魔は世界の破滅を呼ぶ邪鬼を頂点とし、天使は世界を未来へと導く星天使:留々を頂点とし、ふたつの種族は真正面からぶつかった。
天使も悪魔も、生きるために、未来を勝ち取るために、留々と共に戦った。自分のために、未来のために。何よりも、決して失いたくない大切な人たちのために。
だがそれも、結局、世界をどん底に叩き落しただけだった。
戦いは死を呼び、悪夢を呼び、怒りを、悲しみを、そして恐怖を…負の感情を呼んだだけだった。
そう、邪鬼の力の源を。
◆ 伝 説 ◆
空が青い。ところどころに浮かぶ薄い雲のカーテンに向かって枝葉を伸ばす木々は、これでもかと新緑を辺りに自慢しているかのようだ。花弁の大きな赤い花は、この地にしか咲かない森のアイドルである。
そんな中を、短く切った黄金色の髪が軽く風になびくのを感じながら、あたしは駆け抜けていた。
自然の森は複雑に入り組み、無作法に大きく太い木々が、争うように空へ向かって枝葉を伸ばしている。しかしそれも、慣れている身としては何でもない。あたしの目からは、木々がよけてくれているようにも見えるほどだ。
「待ちなさいっセイラ――!」
後ろから、あたしを呼ぶ声がする。
ちっ、もう来た!
あたしは地面を蹴り、太い枝の上に着地した。
「ちょっとセイラっ! いつまで逃げる気よ!」
茂みを掻き分け現れたのは、あたしの予想通り、芳紀の年頃の女性天使である。あたしを追ってきたのだ。
茶髪のセミロングに、カラフルな髪飾り。ピンクのショールに、白いロングスカートをはいた天使の女性。年は確か、あたしの両親と同じだと聞いたことがある。
「ククもしつこいよっ!」
あたしは枝の上から、彼女に言った。
あたしを追いかけてきた女の天使の名前は、クク。あたしがまだよちよち歩きの頃から両親に代わってずっと面倒を見ている、いわゆる育ての親というやつだ。
そんなククがなぜ今あたしを追いかけているのかというと、答えは簡単。勉強嫌いのあたしに、魔法の修行をしてほしいからである。だが、あたしにそんな気はみじんこ一匹程度にもありゃしない。魔法なんかより体を動かしていた方がよっぽど楽しい。
「だいたいねぇっ、あんたはいつもいつも人の話を聞かないで! 今だってせっかくわたしが500年前の戦いについて話していたのに、途中ですたこらさっさと逃げ出すんだから!」
だってそんなもん、聞いてたってつまんないんだもん。過去より未来だ、未来! はっはっは!!
「『はっはっは』じゃないでしょう! …あのね、セイラ。あなたももう13なのよ。いい加減、自分は星天使なんだっていう自覚を少しは持ったらどうなの」
あーあ、始まった。いつものククのお説教。
「だってミーノの谷は堅苦しいし、勉強なんてやっててもつまらないし」
「最初は誰だってつまらないわよ。わからないところはわかる誰かに聞いて、少しずつ学んでいけばそれでいいの」
「教えてもらったところでさっぱりぷーのぺっぺけぺーだもん」
「…また訳のわからないことを…」
ククは額に手を当てて、ため息をひとつついた。もう見慣れたリアクションだ。
「ともかくあたしは魔法の授業には絶対に出ない。以上!」
あたしはちょっとふざけ気味の敬礼をし、木々の枝を飛び移って森の奥へとその身を躍らせる。後ろから、ククの呼び止める声が降りかかったが、大人しく止まるいわれはない。あたしはさっさとククの前から逃げ出した。
ふぅ…やっとまいたか。
あたしが足を止めたのは、さっきいた森からだいぶ走った後だった。ここは地元で”森の入り口”と呼ばれる野原だ。まだ幼い天魔が元気に走り回り、女の子たちが花冠を作って母親を喜ばせる。そんな光景が、今もあたしの周りで繰り広げられている。微笑ましい光景に思わず口元が綻ぶが、何とはなしに寂しい気持ちにもなる。それは、育ての親ではあるが血のつながりはないククとあたしが、ふたりで暮らしていることに由来する。
あたしは、両親と暮らした記憶がほとんどない。物心ついてすぐくらいの幼かったあたしをククに預け、両親はふたりで旅立ってしまったからだ。旅の理由は…昔に聞いたことがあるような気はするが、幼かったせいか、はたまた単純に頭の構造のせいか、忘れてしまった。
両親とは一緒に遊んだ記憶も、叱られたり褒められたりした記憶も、どこかに出かけた記憶もない。でも、毎月必ず連絡が来る。旅の理由は今もう一度訊けば教えてくれるかもしれないが、訊く気にならなかった。毎月魔手紙を送ってきてくれたし、ククもいるから寂しくなかったからだ。
ただ、なぜ今あたしが母子を見て寂しさを感じるか。寂しさ、というよりこれは不安に近いのかもしれない。ここ数年、毎月欠かさず届いていた両親からの便りが、ぷっつり途切れてしまったからだ。ククは、あたしが不安にならないよう明るく努めて見せているが、影では必死になって行方を探していることを知っている。
「あ~っ、セイラ!」
突然名前を呼ばれ、あたしは飛び上がった。振り返るとククではなく、ここヤハマの地に住むあたしの友達、アイスだった。
白に近い薄い水色の髪をふたつに結い、グリーンのワンピースを着ている。年はあたしと同じくらいで、背中には天使の羽。言うまでもなく天使である。彼女はあたしに向かって歩きながら、
「も~こんな所で何やってんの。ククさんが探してたよ?」
アイスはぷんぷんしながら、あたしの前で歩みを止めた。アイスは昔からよく一緒に遊んでいる幼なじみのような姉妹のような存在だが、年々クク並みに小言がうるさくなってきたような気がする。
「ああ。ククならさっき森の中でまいた」
「まいたって…ククさんの言う通り、いい加減、魔法の授業に出たら? 今まで一度も出たことないじゃない」
ああ、やっぱりこの展開か。しかし耳の痛い話だ。確かにあたしは、一度も魔法の授業に出たことがない…。
だって魔法の授業って、わけわかんない本を読んで、複雑な話を聞いて、ぜんっぜん面白くないんだもん。そんなだから当然、魔法なんて使えるわけがない。
「セイラは星天使でしょー!? 魔法をひとつも使えない星天使なんて、木が1本も生えていない森と同じよ!」
「あーもー、うるさいなぁ、アイスまでっ。お説教はさっき散々ククにされたよっ! あたしは意地でも魔法の授業には出んからね!」
ぷいっとそっぽを向き、我ながら幼いと思うすね方をした。
「何言ってんのよっ。ここ数年、魔物が凶暴になってるから気をつけなさいって、ククさんいつも言ってるじゃない」
「魔物が何さ! そんなもん、あたしの拳でぺぺぺだよっ!!」
「確かにあんた、男とケンカしてもひとりで勝つし、魔物に襲われても返り討ちにするけど…あたしやククさんがあんたの弱点、知らないとでも思ってる?」
何だか含みのある言い方に、あたしは眉を顰めてアイスを振り返った。
「弱点?」
「アムジャーラ」
ぎく、と思わず肩が震えた。
それは、魔物の種類の名前だ。ちょうどあたしたちの住むヤハマの地には多く住み着いている。
「それは…また別問題、ってことで」
「ふぅん、ごまかすのね?」
逃げ腰で答えるあたしの背中に、とん、と何かが当たり、同時に頭上からとてもよく聞き慣れた声が降りてきた。さあっと顔から血の気が引くのを感じる。おそるおそる顔を上げると、
「…クク…」
「さっきぶりねぇ、セイラ。さあて、話の続きをしましょうか。我が家で。育ての親と子、水入らずで」
がしりとククの細腕が、あたしの首をホールドする。
「いっやあぁぁぁぁああ! 助けてアイスぅぅぅううう!!!」
にこやかにあたしとククを見送るアイスの笑顔が、とても憎らしかった。
「ミーノの谷?」
あたしは読んでいた魔手紙から顔を上げ、ククに訊き返した。
ククのお説教を散々うけて、時刻はすっかり夕飯時。所はあたしとククの住む家のリビングだ。まるっこいドームみたいな形の家で、あたしはけっこう気に入っている。
さっきからたびたび出てきているこの『魔手紙』というものは、文字の代わりに魔力で書く手紙のことだ。封を開けると送信者の姿が映像のように映り、内容を伝えてくれる。
受信者以外には決して見ることは出来ないというメリットに対し、受信者の居場所がわからないと届かないというデメリットはあるが、主にこれがこの世界の通信手段となっている。
で。あたしはリビングの椅子にだらりと崩れるように座り、魔手紙を広げていたのだが。
「そうよ。そろそろ礼拝会だもの。まさか、忘れていたわけないわよね?」
「あ…あはははは、まっさか~」
本当はきれいさっぱり忘れていたが、ククの笑顔が殺気を発していたから…覚えていたことにしよう。
礼拝会というのは、世界中が憧れる、魔力の強い巫女や僧侶たちが住む“ミーノの谷”で行われる。簡単に言えば、“運命の女神:湖鳴”に今年1年の平和を願うためのお祈り会だ。礼拝会のときは、天使たちが世界中から集まってくる。
そのミーノの谷、あたしたちが住んでいるヤハマの地からはかなりの道のりがある。そんなに大して広くもないこの世界でいちばん南、且つ一番ミーノの谷から遠いのがここヤハマの地なのである。そのためあたしたちヤハマの地の住人は、10日ほどかけてその道を進んでいかなければならないのだ。
あ~あ、めんどくさ。
「まぁそんなことより、出発っていつ?」
「そうね、3日後くらいかしら」
「3日後ね。了解。」
あたしは返事をし、再び魔手紙に目を通し始めた。
「うっふふ~」
ご機嫌な様子でキッチンに立つククに、あたしは魔手紙から顔を上げた。
「随分とご機嫌だね、クク」
嫌と言うほど説教されまくったあたしとしては、何だか面白くない。椅子の背にもたれかかり、あたしはククに向き直った。
「だって、礼拝会はあんたの星天使姿を見られる唯一の機会だもの。親代わりとしては嬉しいものよ?」
「…星天使、ねぇ…あたしとしては、ずるずるした服を着せられるし、チャラチャラとアクセサリーつけさせられるし、小難しい話の間ずっと大人しくしてなきゃいけないし、みんなにやたら見られるし…ぜんっぜん面白くないんだけどなぁ…」
『星天使』というのは、天から星の力を授かった特別な天使で、この世界を支える中心人物だ。もし星天使が死んだりするようなことがあれば、次の新しい星天使が生まれるまで世界は荒廃を続ける。そういう意味でも、星天使は絶対の存在なのだ。
あたしの名前は“星天使:星来”。留々…500年前、邪悪な物の怪“邪鬼”を封印した伝説の天使、星天使:留々と同じ力を持っている。彼女の名前は500年が経った今でも残っていて、邪鬼の封印という偉業によって、世界はこれまでたいそう平和だった。
同じ星天使の称号を持つあたしも、まわりからは「星天使:留々様の生まれ変わりだ」と言われている。でも当のあたしは、はっきり言って留々と正反対。留々は魔法が得意で魔力もずば抜けて強く、賢くて、女の中の女だった。ところがどっこい、あたしは魔法が嫌いで勉強もサボるし頭は悪く、おまけにがさつだ。自覚はしているもん。
「ま、固く考えなくていいのよ。あんたは、あんたらしくいなさい。天が選んだのは、この世界のほかの誰でもなく、セイラ、あんたなんだから」
ぽん、とククの暖かい手が、あたしの頭に置かれた。
むぅ…今更だが、ククってあたしの心が読めるのか? こういう時、ククは絶対といっていいほど、あたしが欲しい言葉をくれる。普段はお説教ばっかりだし、勉強しないから叱られてばっかりだし、生まれてこの方13年間、ククの怒った顔ばっかり見ている気がする。それでもこういう時だけは、必ず優しい顔をするんだ。そのククの顔を見ると、血はつながっていないけど、ククはあたしの親なんだなって思う。まあ、だからあたしもついつい甘えちゃうんだろうけど。
「それより、セイラ。それ、ウィルくんから?」
ククが指したのは、あたしの手元。ずっと眺めていた魔手紙だ。
前にも説明したが、魔手紙は宛先の者にしか中を見ることが出来ない。これは友だちからあたし宛に届いたものだから、ククは、内容はおろか差出人さえ分からないのである。
「ん? うん。ウィルのやつ、またやっかいごとを背負い込んだみたいだよ。しばらくそこを離れられそうにないから、今回の護衛は無理かもしれないって。礼拝会には来るらしいけど」
ぺら、と魔手紙の封筒をめくり、あたしはククに答えた。
彼女には見えないが、青い髪の男の子が映り、さっきと同じ事を一言一句たがえず話し出す。彼はいつも、礼拝会のときにあたしたちヤハマの地の天使たちを護衛しに来てくれるあたしの友人。道中は、襲ってきた魔物たちをククとふたりで片っ端から軽快に吹っ飛ばす、魔法が得意な天使である。
しかしどうやら今回、彼はこちらへ来られないようだ。どうしても戦力が落ちる。
「そう。魔物が襲ってきたとき、ウィルくんがいないとちょっとつらいわね」
「まぁ確かにあいつは強いけど。しょうがないじゃん、いないもんはいないんだもん。…ところでクク、夕飯まだ? キッチンから焦げ臭い匂いが漂ってくるのって、あたしの気のせいじゃないと思うんだけど」