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前編

 百舌鳥(もず)が鳴きました。それは、うっすらと横たわる夕闇を、鋭く渡っていきます。高い(lこずえ)をふり仰ぎ、ふうこは小さく息を吐きました。宵闇に繋がれた冷たさが、ひたひたと頬を叩いています。もうすぐ辺りは闇に覆われてしまうでしょう。月光の輝きと共に、氷の空気が舞い降りてくるのです。


 ふうこは淡い小袖を引き寄せました。思わず指先に力がこもります。恐ろしいのは暗闇でも夜でもありません。次第に勢力を増してきた寒さでもありません。幼い少女の瞳に映るのは、紛れも泣く孤独への恐怖でした。


 風が西から東へと過ぎてゆきました。つられたように、射干玉(ぬばたま)の振分髪がさらさらと乱れます。


微かな草の音色に誘われて、ふうこはゆっくりと視線を降ろしました。瞼の裏に灯ったのは、赤く小さな幾つかの袋です。ぼんやりと浮かび上がったそれは、ふうこの胸の辺りに揺れていました。


「知っているわ、これ」


 ふうこは声に出して云いました。聞きなれた幼い声が、緑の間を流れていきます。(たもと)をそっと胸に当て、ふうこは背筋を伸ばしました。顎を上げて、精一杯大きな声で云い放つためにです。


「ほおずきっていうのよ。萌葱色のお花のあとを、赤い灯火で照らすのだわ」


 言葉は、跡も残さず消えてゆきます。けれど、ふうこは微笑むことに成功しました。寒さで固まっていた頬は、思うようには動かなかったけれど。


 その時、背後の空気が変わったのです。



 ――― くすくすくす


 小さな耳に渡ってきたのは、低く軽やかな笑い声。

 驚いて振り返ったふうこは、そこに信じられないものを見つけました。


 ――― 小さく哀れな人の子よ

 ――― なにを恐れておるのじゃ


 心に直接響く声で、そのひとは云いました。鮮やかな朱色の着物は、ゆるく着崩れた衣冠姿。そして指貫さえも赤く闇に浮き上がっています。姿形はやんごとなき貴族の男のよう。けれど、処女雪のように純白の肌以外は、髪も目も唇も、輝くばかりの鮮紅色でした。


 ふうこは息を忘れました。余りにも鮮やかなそのひとに、何もかもを奪い去られていたのです。夜も闇も寒さも、孤独さえ、ふうこの周りには存在していませんでした。


 ――― くすくすくす


 そのひとは、再び笑い声を上げました。気怠げに腰掛けていた楓の幹に軽く触れ、紅葉の雨を降らせます。何千何万もの朱色の宝石が、ひらひら、ひらひら闇を染め上げました。けれど唐突に、そのひとは、戯れの遊びをやめました。そして、身を乗り出すようにふうこを見つめ、頬杖をついたのです。袖口が大きく割れて、真っ白な腕が朱に映えました。


 ――― いかがいたした 人の子よ

 ――― もっと (さえず)るがよいぞ


 退屈そうなその様子に、ふうこは漸く息を吐き出しました。ゆっくりと、肩の力が抜けていきます。そうして、代わりにむくむくと盛り上がってきたのは、とても純粋な感情でした。


「あなたはだあれ? なぜ笑っているの」


 好奇心で輝く瞳は、まっすぐに赤いひとを捉えていました。


もとは高価だったはずの小袖も、草木で掠れています。白く華奢な手足は、汚れて頼りない風情です。けれど少女は、幼く小さな体で、大地に凛と立っていました。


 そのひとは、白い手のひらを一振りし、舞い散る楓を消しました。そうして音も立てずに立ち上がり、ふわりと地に降り立ちます。草も分けずに歩くその姿は、明らかに人外のものでした。闇と共にあるようでいながら闇よりも秀でているのです。


 ――― なんと つよき人の子じゃ

 ――― そなたは 私が怖くはないのか


 感情の感じられないその声に、ふうこは微笑をもらしました。


「こわくはないわ。あなたはとてもきれいだもの」


 幼い声は、光を放っているようでした。赤く色づく唇から言の葉が飛び出すと、それがきらきらと燐粉を撒き散らしているのです。微かなその残差に目を留め、そのひとは切れ長の瞳を細めました。


 ――― ふしぎなことを申すものじゃ

 ――― 私がうつくしいとな


 そのひとは、淡々と言葉を紡ぎます。その口調は穏やかな大河の流れのようで、底知れない水圧を含んでいました。遠くで生まれた清らかな水も、多くが集まり地響くような迫力が満ちているのです。


 ゆらゆらと、その姿は大きさを増していきます。囚われてゆく闇の下僕達は、背後に陽炎を彩ります。優雅な動作で少女に近づき、そのひとは黙ってふうこを見つめました。



 風がとまりました。

 ゆるゆると、闇が発光します。

 そうして、時が、一瞬だけ、眠りました。




 消え去ったはずの紅葉が、ふうこの肩に舞い降りました。その感覚に、ふうこは瞬きを思い出します。睫毛で闇の帳を押し上げ、自分を見下ろすそのひとの視線に応えました。


 真紅の虹彩に、稚い少女が映っていました。それが真実ふうこであるかどうかは、誰にも解りません。けれど、強く優しい視線が全身を満たしていることだけは、ふうこは全霊を持って理解できたのです。


 ――― ふうこ


 そのひとは云いました。


 ――― ふうこという名か そなたは


 突然言い当てられたことに、ふうこは驚きませんでした。そんなこと、時が眠った時点で解っていたのです。そのひとにとっては、森羅万象を動かすことよりも簡単なことであると。ただ、その綺麗な声で呼ばれたことに、はにかんだ笑みを浮かべるだけでした。


 ――― ふうこ


 そのひとは、もう一度云いました。


 ――― そなたは 私が何者であるかと訊いたな

 ――― 何者であると思うか


 それは、とても静かな問いかけでした。余りに静かであるので、その奥に何が隠れているのか透かし見ることも出来ません。しばらく逡巡した後、ふうこは心を決めました。赤い瞳から目をそらさずに、はっきりと答えたのです。


「・・・・・・あかい神さま」


 途端に、そのひとは笑い出しました。


 それは、今までの梢をそよ風が渡るようなものではなく、都全体を揺るがす暴風のようなものでした。地響きと共に、笑い声が辺りを支配しました。かぜがひゅるひゅると渦を巻き、落ち葉や小石さえも舞い上げます。低振動でどす黒い煙が空を覆いつくそうとした時、ふいにそのひとは笑いを納めました。


 ――― そうか


 そのひとはふうこを見下ろし、云いました。落ち着いた、今までで一番静かな声音でした。そして、赤い唇の端を、丁寧に持ち上げました。


 ――― ならば私は 神になろう

 ――― そなただけの 神になろう


 不思議な言葉でした。

 強い響きでした。

 そして、とても温かい眼差しでした。



 ――― その代わり


 そのひとは、白く輝く腕を伸ばしました。闇を切り開き、腕はふうこへと近づきます。さらり動いた広いそ袖が、微かに風を起こしました。その時、わずかに何かが匂い立ちます。


 ――― その代わり そなたは私のものになれ

 ――― 私だけの ものになれ


 慎重に空気を掻き分け、そのひとはふうこに身を寄せました。


 幼い少女が緊張する間もなく、白い指先が、柔らかく頬を包みます。触れ合った肌は冷たく、あっという間に溶けてゆきました。信じられないその触れ合いに、ふうこの心も溶けてゆきます。何処からともなく流れ込んでくるのは、胸の鼓動なのでしょうか。全身を満たすその痺れは、紛れもなく甘い芳香がしました。苦しくなるほどの、甘い、甘い薫りでした。


 ――― ふうこ


 そのひとは、何も云いませんでした。ただ、ふうこの名を呼んだだけです。けれど、それだけで、ふうこには全てが解りました。その人が何を望んでいるのか。


 だから、応えました。ゆっくりと自分の手を持ち上げ、そのひとの手に添えて


「はい」


 ふうこのすべてを許したのです。




 赤い嵐が来ました。刹那の強い風と、鋭い減の音。そして、赤く紅く朱い力に覆われ、消えました。

 一瞬。その一瞬だけでした。それだけで、そのひとは消えてしまいました。薫りも風も残像さえ、残しませんでした。


 かのひとはその容姿と同じように、鮮やかに姿を消しました。


 ふうこは驚く間もなく、惜しむ間もなく、それを静かに受け入れるしかありませんでした。



 目の端に、紅い何かが動きました。微かに首を廻すと、小さなそれが、軽やかに風に揺れているところでした。薄緑色の細枝に重なり、互いに反するように、小さく紅く揺れていました。


 ほおずきです。


 ふうこは、思わず一歩を踏み出しました。胸いっぱいに広がる何かが、ふうこの身体を押し出していました。冷たい草木を掻き分け、発光する紅い灯火へと近寄ります。一歩進むごとに、それは誘うように震えました。一歩進むごとに、それはだんだんぼやけていきます。そして、ふうこは気がつきました。


 頬をながれているものが、何であるのか。


 気がつくと、もう止められませんでした。後から後から、それは流れてゆきます。溢れてゆきます。きらきら光る哀しみの結晶は、闇を溶かして飛んでいきました。しまいにふうこは、大声で泣き出してしまいました。


 幼い泣き声が、夜の闇を渡りました。それはふうこがそこに来て初めて、心から上げた悲鳴でした。幼く純粋な、哀しみに満ちた叫びでした。


 ――― ふうこ


細波のように、どこからか声が聞こえてきました。


 ――― ふうこ


やわらかな香りが、周囲の闇を包みます。


 ――― ふうこ 泣くのはおやめ

 ――― 私は 待とう


鮮やかな赤い風に、ゆるやかに額を撫でられます。


 ――― ふうこ

 ――― 私は 十年 待とうよ


圧倒的な強さと、限りない優しさで、その風は少女を守っていました。


 ――― ふうこ

 ――― 十年経ったら 迎えに行くぞ


幼い頬を伝った涙を、闇の袖でぬぐってゆきます。


 ――― 十年 経ったら

 ――― 迎えに 行くぞ


ふうこの周りの闇が、淡く赤く立ち上がりました。そして、優しい甘さをこぼしてゆきます。



 ――― そのとき 私のものになれ

 ――― 私だけの ものになれ




 ――― わたしだけの ものになれ




若かりし頃、大学の同人誌に書いた作品。加筆投稿でリハビリです。

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