第十話 「観測の残響」
Rainの窓際席は、今日も静かだった。
ーーー
五月。
雨。
灰色の空。
コーヒーの匂い。
店内BGM。
どこにでもある、ありふれた午後。
誰も空を見上げない。
誰も世界の崩壊を語らない。
人々は普通に笑い、
普通に働き、
普通に生きていた。
世界は、元に戻った。
ーーー
大学帰りの女子高生がRainへ入ってくる。
眠そうな顔。
イヤホン。
スマホ。
彼女は何気なく窓際席を見る。
空席。
誰もいない。
……はずだった。
でも。
なぜか視線を逸らせなかった。
「……なんだろ」
理由は分からない。
ただ。
そこを“空席”だと思えなかった。
次の瞬間には感覚は薄れていく。
「……疲れてんのかな」
女子高生は苦笑して席へ座る。
店員が水を置く。
日常。
普通。
平和。
それが今の世界だった。
ーーー
ニュース。
『認識災害事件から一年』
キャスターが話している。
『現在も一部記録消失問題は続いていますが、世界情勢は安定を――』
その時。
キャスターが一瞬だけ言葉を止める。
『……失礼しました』
何かを忘れたような顔。
でも。
思い出せない。
放送続行。
誰も気にしない。
ーーー
小野寺はRainへ来ていた。
理由は分からない。
ただ。
“来なければいけない気がした”。
窓際席を見る。
空席。
なのに。
胸の奥が少し痛む。
「……なんだろうな」
彼は苦笑する。
最近時々ある。
説明できない喪失感。
大切なものを忘れている感覚。
でも。
何を失ったのかは分からない。
ーーー
小野寺はコーヒーを飲む。
雨を見る。
静かな時間。
その時。
店員が話しかける。
「こちら、お忘れ物です」
「……え?」
渡されたのは、
古いスマホ。
電源は切れている。
黒いケース。
見覚えはない。
だが。
なぜか捨てられなかった。
ーーー
その夜。
小野寺は自宅でスマホを充電した。
電源が入る。
ロックなし。
ホーム画面。
アプリはほとんど消えている。
SNSも空白。
写真フォルダ。
そこには。
雨の写真ばかり入っていた。
Rain。
窓。
コーヒー。
灰色の空。
そして。
最後の一枚。
窓際席。
赤い傘。
ぼやけた人影。
小野寺は息を止める。
「……誰だ」
顔が認識できない。
なのに。
涙が出そうになる。
ーーー
スマホメモ。
最後の文章。
『誰にも見られなくなったら、俺は消えるらしい』
その下。
『でも最後に、ちゃんと見てくれる人がいたから』
さらに。
『多分、前より少しだけ、生きててよかった』
小野寺の呼吸が乱れる。
知らない文章。
知らないはずなのに。
声だけが、頭の奥に残っている。
ぶっきらぼうで。
少し自嘲気味で。
でも。
どこか寂しそうな声。
知らないはずなのに。
胸が苦しい。
まるで。
大切な友人の遺書を読んでいるみたいに。
ーーー
その瞬間。
窓の外で雷が鳴る。
雨。
灰色の空。
そして一瞬だけ。
窓ガラスへ、青年の姿が映った。
黒髪。
眠そうな目。
どこか不器用そうな顔。
小野寺は反射的に振り返る。
誰もいない。
でも。
胸の奥に、
“確かにそこにいた”
感覚だけが残る。
ーーー
翌日。
Rain。
窓際席。
女子高生がスマホを見ながら呟く。
「……なんかここ」
一拍。
「誰かいた気がするんだよな」
友人が笑う。
「なにそれ」
「分かんないけど」
女子高生は窓の外を見る。
雨。
灰色の街。
静かな午後。
その時。
ほんの一瞬だけ。
誰かが笑った気がした。
ーーー
世界はもう、真壁透を知らない。
記録もない。
記憶もない。
存在証明もない。
でも。
Rainの窓際席には時々、
“誰かがいた気配”
だけが残る。
観測されなくなった存在。
誰にも認識されない人間。
それでも。
完全には消えなかった。
なぜなら。
人は忘れても、
感情だけは世界に残るから。
ーーー
人は、
観測されなくなれば消える。
けれど。
誰かを想った記憶だけは、
完全には消えない。
だから今日も。
Rainの窓際席には、
誰かがいた気配だけが残り続ける。
ーーー
雨が降っている。
静かな街。
窓際席。
コーヒー。
灰色の空。
窓ガラスへ。
一瞬だけ。
雨粒が文字みたいに流れた気がした。
『まぁ、悪くなかったです』
次の瞬間。
雨は静かに溶けていった。




