婚約者の胸の内
……何を言っているの、この人?
「あのね。前世を思い出す前の俺は、噂に踊らされて、殿下と君が恋仲に違いないって思い込んでいたんだ。俺は君より身分も低いし、能力でも劣っているし、本当は俺なんかより殿下と婚約したかったんだろうって。でも君は跡継ぎだから、仕方なく婿に入れる俺と婚約したんだって」
初めて聞いたベルダ様の心の内に、驚いて言葉が出ない。殿下の婚約者候補だったのは事実だが、まとまることなく話はすぐに流れたのに、どうしてそんなふうに思うのだろうか。
「違います! 私は殿下と婚約したいと思ったことなんてありません。私は当時、ベルダ様となら共にやっていけるだろうと思ったから、婚約したのです」
「……そっか。良かった」
私の言葉に、ベルダ様はくしゃりと顔を歪めた。嬉しくて泣きそうだと言わんばかりだ。
「どうして、そんなふうに思ったのですか?」
「……自信がなかったんだよ。可愛くて綺麗で優秀な君には殿下のような人が似合うと、色々な人から遠巻きに言われて、否定できない自分が悔しかった。君が俺の誘いをだんだん断るようになったのも、君に見捨てられたような気がして、なんて冷たい奴なんだって君を責めることで、自分を慰めていたんだ。バカだよね」
さらに肩を落とす彼の体が、なんだかとても小さく見えた。慰めてあげたい衝動にかられるが、まだ彼に近づくことを躊躇してしまう。
「今は前世の記憶があるから、こうして客観的に自分の行動を省みることができるけど、本当に子供だったなと思う。君が俺と仕方なく結婚しようとしているなら、婚約は破棄した方がいいと思ったし、それならいっそ嫌われればいいんだと思った。あんな態度だったから信じられないかもしれないけど、俺なりに君のことを大切に思っていたんだよ。君に罪悪感を与えることなく婚約をなかったことにするには、俺の有責にした方がいいと思ったし……」
「えっ? じゃあまさか、他に好きな方ができたというのは……?」
あの日以来、ベルダ様が例の女性に近づいている様子はないと聞いてはいたが、まさか、そんな事実は元々なかったということなのだろうか。
「うん、それはほとんど間違いだよ。本当に他の女性とそういう関係になれば手っ取り早いと思ったことは事実だから完全に否定できないのが辛いところだけど、実際は俺なんか全く相手にされてなかったから」
でも、それであれほど噂が広まるものだろうか。
訝しげな表情をしていたのだろうか、ベルダ様が苦笑した。
「実はね。彼女は、ルナリアや俺が出てくると言った乙女ゲームのヒロインなんだ。だから、彼女と知り合ったのは強制力というものが働いたのかもしれない」
「ヒロイン……?」
つまり、彼女が主人公として動く物語の中で、私たちは存在していたというのだろうか。
「うん。ちなみに、メイン攻略対象はアルトゥール殿下だよ。俺も一応攻略対象だったんだけど、脳筋枠だったしそれほど人気はなかったんだよね」
全く気にしていなさそうに、あはは、と自嘲するベルダ様。
「まぁとにかく、彼女は俺を攻略対象に選ばなかったみたいで、元々それほど親しくはなかったんだよ。ルナリアとの婚約破棄にあたって都合が良かったから俺から話しかけていただけで、特に何も接点はないから、これからは会うことさえないんじゃないかな」
「そう、なのですか……?」
本当なのだろうか。
正直、彼の言葉は突飛すぎて、どうしても素直に受け入れることができない。
攻略対象とか、脳筋枠とか、彼が意味の分からない言葉ばかり話すのも原因かもしれない。
「もちろんだよ! 前世の記憶を取り戻した今は、ルナリアのことで頭がいっぱいだからね。他の女性のことなんて、考える隙間も時間もないから安心して!」
「ベルダ様……」
それでも、未だに慣れない彼の人懐っこい笑顔は、嘘をついているようには全く見えない。そして困ったことに、彼の態度に心地良さを感じてしまっている自分のことも否定できない。
私は、彼に絆されてきているのだろうか。
なんだか気恥ずかしくて少し視線を下へ逸らすと、ベルダ様は突然おかしなことを言い始めた。
「はぁ~、ルナリアが可愛い。すっごく抱きしめたい……!」
「はいっ!?」
……いきなり何を言っているの!?
「だってルナリアが可愛すぎるから! 照れて目を逸らす仕草さえ上品で解釈一致しすぎてて辛い。目の前で手の届く距離にこんな可愛い婚約者がいたら、抱きしめたくなるのは当然でしょ?」
「な、なっ。こんなところで何を言い出すのですか!?」
「こんなところじゃなければいいんだ? じゃあまた今度、二人きりの時に言うね」
「……!」
ニコニコと楽しそうに話すベルダ様に、開いた口が塞がらない。彼は本当に以前の彼と同一人物なのだろうか。前世を思い出したからといって、これほど変わるものなのだろうかと疑わしい気持ちになる。
「以前のベルダ様は、私をこんなふうにからかったりなさいませんでした。あなたは、本当にベルダ様なのですか?」
「もちろんだよ。ただ、まだ十七歳なのにしっかりしている君とは違って、以前の俺の中身がまだ子供っぽかっただけ。今は前世で生きた年齢ぶん中身が成長したようなものだから、人が変わったように思えても仕方ないかもね」
確かにそうだ。ベルダ様は前世を思い出してからというもの、外見は同じなのにどこか落ち着いたような、まるで年上のような雰囲気を纏うようになった。たまに意味のわからない言動をするので、逆に子供っぽく感じる時もあるけれど。
私はどうしても気になって、ベルダ様を見上げながら質問した。
「……前世のベルダ様は、一体おいくつだったのですか?」
「おっとぉ、ヤブヘビだった。ルナリアの上目遣いは破壊的に可愛いし俺に興味を持ってくれるのはすごく嬉しいけど、引かれたくないから、できればそれは言いたくないなぁ……」
引かれるほど年上だということだろうか。仕事ばかりしていたと言っていたので、恐らく年下ではないはずだ。一体何歳だったのだろう。気になる。
でも、冷や汗をかきながら気まずそうに目を逸らす彼が何となく可愛く思えてしまったので、これ以上訊くのはやめておいてあげようかなと思う。
「わかりました。でも、いつか教えてくれたら嬉しいです」
「えっ、いつか?」
「はい。もっとお互いに歳を取ったら、前世の年齢なんて気にならなくなるかもしれないでしょう?」
「……うん。わかった」
なぜか少し驚いたような顔で返事をした彼に若干首を傾げつつも、私は身を翻した。
「では、もう戻りましょう。授業中にあまり長く離れるのは良くありません」
「う、うん……」
「……なんですか?」
やっぱりなんだか様子がおかしいベルダ様を訝しげに見つめると、彼はへにゃっとしただらしない笑みを浮かべながらこう言った。
「いや、そんなに歳を取るまでルナリアが一緒にいてくれるのかなぁと思ったら、嬉しくて」
「……!」
完全に無意識だった。確かにあれでは、いつまでも共にいますと言っているのに等しい。
恥ずかしくて、じわじわと頬に熱が集まってきてしまう。
「そ、そんな意味で言ったのではありません!」
「うん、そうだよね。わかってるわかってる」
とてもわかっているとは思えないほどにやけた表情で言われても、まるで説得力がない。
「~~っ」
ジロリと睨んでみても、ベルダ様は「うわ、ルナリアに睨まれた。可愛い。ご褒美でしかない」とまた意味のわからないことを言って嬉しそうにしている。なぜ睨むとご褒美になるのか。感性が歪んでしまっているのではないだろうか。
「もういいです。先に戻ります!」
「あっ、待って待って。一緒に戻るから!」
慌てた様子でベルダ様が追いかけてきたけれど、私は振り向かずに同級生たちのもとへと歩いていった。
まだ熱を持っている私の頬には、誰も気づきませんようにと願いながら。




