婚約者の様子がおかしい
私は驚きで動けなくなり、数秒してから何度か瞬きを繰り返し、ようやく振り下ろされた拳の主がベルダ様の父であるラングストン伯爵だと気がついた。
「ラ、ラングストン伯爵様。いらしていたのですか?」
「ああ、ルナリア。本当にすまない。うちのバカ息子が君にとんでもないことをしでかしたようで、なんと詫びればいいかわからないよ」
伯爵は申し訳なさそうに眉を下げてそう言った。
……今まさに婚約破棄を切り出された瞬間だったので、悲しむ暇もありませんでした。
そう思いながらも、私は違う言葉を伯爵へ返す。
「いいえ。彼の気持ちを繋ぎ止められなかった私にも、責任はございます。私は、彼との婚約破棄を受け入れるつもりでした」
「あぁ、ルナリア! そんなことは言わないでくれ。私は君が娘になる日を、ずっと前から楽しみに待っているというのに!」
「伯爵様……。ありがたいお言葉ですが、こうなってしまっては、もう……」
当人に私と結婚する意思がないのだとすれば、もはやどうにもならないだろうとベルダ様へ視線を向ける。そこで、彼がまだテーブルに突っ伏したまま動かないことに、私はようやく気がついた。
「ま、まぁ。ベルダ様!? ど、どうしましょう。打ちどころが悪かったのでは……」
「大丈夫さ、コイツは元来頑丈なんだ。ここ数年は鍛錬をサボっているから腕は大したことないが、体は私譲りのものを持っているから、これくらいどうということはないはずだ」
フン、と息を巻きながら苦いものを見るように息子へ視線を向ける伯爵。
伯爵は昔、騎士団の副団長を務めていた方だ。
その当時に当主を務めていた兄夫婦が事故で亡くなり、急遽伯爵家の当主となったらしい。
騎士団を引退してしばらく経つが、まだ現役だと言われてもおかしくないほど立派な体格をしている。
その血を受け継いでいるベルダ様も体格がいい方ではあるが、父親に比べると普通であると言える。伯爵の拳骨は、かなり効いたのではないだろうか。
「……ぐ、いって……」
「ほら、起きた」
心配になっていたが、痛がりながらもベルダ様はゆっくりと体を起こした。紅茶まみれになった頭から、ポタポタと雫が落ちる。
「ベルダ様。大丈夫ですか?」
伯爵は大丈夫だと言うけれど、少しの間とはいえ気を失っていたのだ。私は心配で、彼の顔を覗き込むようにしてそう声をかけた。
「え……っ?」
「はい?」
ベルダ様が、私の顔を見るなり目を見開いて固まってしまった。彼の緑色の瞳が、私をしっかり捉えたまま動かない。
ものすごく驚いているような様子に、私は首を傾げる。
うまくいっていなかったとはいえ一応五年間も婚約していた相手なのだから、気を失った時に心配するくらいは当然だと思うのだが、それほど驚くことだろうか。
私が困惑していると、彼はもっと困惑するようなことを話しはじめた。
「えっ、誰、この超絶美少女? めちゃくちゃタイプなんですけど」
「…………はい?」
私だけでなく、その場の空気が凍りついたように固まった。彼はいきなり何を言っているのだろうか。
見たこともないほど目を輝かせながら、ベルダ様が私を見ている。うっすらと頬を染め、まるで恋に落ちた相手を見つめるような甘い眼差しを、この私に向けているのだ。意味がわからない。つい先ほどまで、彼は私との婚約を破棄しようとしていたはずなのに、一体どうしたというのだろう。
……それに、誰、って言った? ベルダ様は、私のことがわからなくなっているということ……?
「ベルダ様……?」
「え、ベルダ? ベルダって誰……うっ!? な、なんだこれ、すげぇ頭痛い!」
ベルダ様が、頭を押さえて苦しみ出した。やはり打ちどころが悪かったのだろうか。だって、先ほどから彼が見せる姿は、気を失う前とはまるで別人のように変わっている。口調や雰囲気、顔つきに至るまで、何もかもが違いすぎるのだ。
「ベルダ様! 大変、すぐにお医者様を……」
思わず彼に近づいて支えるように手を触れると、ベルダ様はぎょっとしたように私を見た。
「え、やばい。超絶好みの美少女が至近距離にいる。しかも俺を心配して背中に手を添えてくれてる。なにこれ夢? 俺今死ぬのかな……」
早口でほとんど何を言っているのかわからなかったが、最後の言葉は聞き取ることができた。真っ青な顔で脂汗を流しながら「死ぬのかな」などと言われれば、さすがに私も焦ってしまう。
「は、伯爵様。ベルダ様が……!」
「う、うむ。どうやら様子がおかしいのは間違いないようだ。医者に見せるべきかもしれん。おい、誰か!」
伯爵が呼んだ従僕たちに支えられながら、ベルダ様は医者に診てもらうため部屋へ向かうことになった。
「ぐうう、頭割れそう。ああっ、ちょっと待って! ねえ待って! どうせ死ぬなら、あの美少女のそばで死なせてくれぇー!」と叫びながらずるずると引きずるようにして連れて行かれる彼の様子は、伯爵に頭を殴られておかしくなってしまったとしか思えないほど異様だった。
「すまん、ルナリア。また連絡するから、今日のところは解散ということにしてくれ」
伯爵がそう言って頭を下げる。
「もちろんです。あの、ベルダ様にお大事にとお伝えくださいませ」
◇
帰りの馬車の中で、私はようやくひと息つくことができた。それでも、様子のおかしなベルダ様のことが心配で、思わず呟く。
「大丈夫かしら。ベルダ様……」
「大丈夫じゃなくてもいいんじゃないですかね?」
ずっと訝しげな表情でおかしな様子のベルダ様を見ていたリリーが、冷たくそう言い放った。彼女は忠誠心が高いのでいつもとても助かっているのだが、私を大切にしようとしないベルダ様には、かなり辛辣なところがある。
「リリーったら、そんなふうに言ってはダメよ。彼が婚約を破棄しようとしたのは、私の責任でもあるのだし……」
「いいえ。お嬢様が次期当主としてお忙しいことは少し考えれば理解できるはずなのですから、構ってもらえなかったからといって冷たい態度を取るのは明らかに彼が幼稚なのです。あまつさえお嬢様という素晴らしい婚約者がいながら他の女性にうつつを抜かすなど、万死に値します。それなのに先ほどの手の返しようといったら、ちゃんちゃらおかしいとはこのことですね。やはり今すぐ婚約破棄すべきでは? もちろん向こうの有責で」
よほど鬱憤が溜まっていたのか、リリーの口が止まらない。それに、リリーの言葉は完全に否定することもできかねる。
「本当に、何だったのかしら? 先ほどのベルダ様の様子は……」
「何だっていいですよ。本当に今さらですが、お嬢様の美しさと素晴らしさに気づいたのではないでしょうか?」
「う、うーん……」
そんなことがあるのだろうか。でも彼は、私を冷たい女だと言って嫌っていたはずだ。頭を殴られたからといって、好みが正反対になるものだろうか?
……ちょっと考えにくいわよね。それに、顔つきや口調まで、いつもの彼とは違っていたのが気になるわ。まるで、違う人がベルダ様の中に入ってしまったかのような……。
まさかね、と自嘲しながら、私はそんな考えを頭から追い出した。
ーー後日、私はその考えはほぼ間違っていなかったのだと、知ることになる。




