第九話 スネコスリ、股間に忍び寄る
河童の蓑を纏い、北海道を駆け抜ける真一郎。だが道中、足元に不思議な気配が忍び寄る。丸い影、そしてスネコスリとの邂逅が始まる――。
河童の蓑を纏った真一郎の脚は、もはや人のものではなかった。
江別市を後にしてから、まるで風に運ばれる落ち葉のように軽やかに駆け抜けていた。南幌町――今では温泉で知られるその町を横目に、長沼町ではジンギスカンの香りが鼻をかすめ、由仁町では花畑が夜の月光に揺れていた。
現実世界ならば車で走る距離。だが、今の真一郎とクロは、河童の蓑の加護を得て、三時間もかからずに夕張市まで辿り着いていた。
石炭の記憶と、映画の街――かつての賑わいを知る者なら、寂しさを覚えるだろう廃れた建物の群れが、月明かりに浮かび上がる。
占冠村へ向かう途中、道端の切り株を見つけて、ふたりは腰を下ろした。
「はあ……流石に疲れるな。速いのはいいが、心臓が追いつかねえ」
「慣れの問題だ。河童の蓑は、体力の消耗を抑えるが……お前の心はまだ凡人だ」
「ぐっ……その言い方は地味に刺さるんだよ」
額の汗を拭いながら、真一郎は足を伸ばした。
その時――ふと、足元に何かが触れた感触があった。草の擦れる音でも、風の悪戯でもない。柔らかく、しかし確かに「生き物」の気配がする。
ぞくり、と背筋が震えた。
「……おい、クロ。今、なんか……」
「ふむ。ついに気配を感じ取れるようになったか?」
「は? いや、ただ足になんか触っただけで――」
言い終わる前に、耳を掠めるように声が響いた。
「珍しいね。妖怪と人間の組み合わせなんて」
真一郎は思わず口を開いた。
「……また、デジャヴ」
その瞬間、クロの尻尾が九つ揺らめき、夜の空気を裂いた。
「スネコスリか」
「す……スネコスリ?」
名前だけは聞いたことがある。だが実物を見た者は少ないという。
真一郎は目を凝らし、股の間に意識を集中させた。
すると、じわじわと色を帯びるように、輪郭が浮かび上がってくる。
――丸い。
犬とも猫ともつかない丸い顔。真っ黒な瞳がこちらを見上げ、柔らかそうな毛並みが月光を反射していた。
その光景に、真一郎の胸が高鳴る。
恐怖ではない。むしろ、可愛らしさと、不思議な懐かしさが混じった感情だ。
「……なんだこれ。めっちゃ……可愛い」
「気を抜くな、真一郎」クロが釘を刺す。「あれは人の足にまとわりつき、転ばせる妖怪だ」
「いやいや、こんなぬいぐるみみたいな顔で? 嘘だろ」
スネコスリは、ころん、と真一郎の足に体を擦り付ける。
ふわふわとした毛の感触に、思わず笑みがこぼれた。
「お、おい! やめろって……くすぐったい!」
真一郎が身じろぎすると、スネコスリは「にへっ」とでも言いたげに口角を上げたように見えた。
心の中で真一郎は戸惑っていた。
(俺……これまで散々、妖怪=恐ろしい存在だと思ってた。化け物、怪異、禍の象徴……だけど、こいつは……なんなんだよ)
クロが低く言った。
「見かけに騙されるな。あれは、油断した者を足元から崩す存在。夜道を歩く人間を転ばせ、怪我をさせる――それが本来の姿だ」
「……でもさ。俺にはそうは見えねえ。なんかこう……」
真一郎は言葉を探した。
「可愛い」だけでは片付けられない。スネコスリの瞳には、どこか寂しげな色が宿っている気がした。
それは、夜の街に居場所を失ったものが纏う影のようで――
「なあ、クロ。こいつ、ほんとは寂しいんじゃないか?」
「……甘いな」
しかし、クロの声色もまた、どこか柔らかかった。
スネコスリは足にまとわりつきながら、まるで言葉を伝えようとしているかのように、小さく鳴いた。
「すり……すり……」
真一郎は思わず股の間に手を伸ばし、その小さな体を抱き上げた。
ふわふわの毛並みが腕に触れ、心臓の鼓動が一瞬だけ静まる。
「……あったかい」
クロがふっと息を吐いた。
「……まあ、いい。害意はないようだ。だが覚えておけ。妖怪は表と裏を持つ。いつも優しい顔をしているわけではない」
「分かってるよ。でも……」
真一郎はスネコスリを胸に抱いたまま、ぽつりと呟いた。
「……俺、妖怪ってやつを全部“敵”って思ってた。けど、違うんだな」
月明かりに照らされ、三人――いや、二人と一匹はしばし静かに佇んだ。
夜風が草を揺らし、遠くでフクロウが鳴いた。
その一瞬だけ、真一郎の心は、不思議なほど穏やかだった。
奇妙で愛らしいスネコスリとの出会い。だが可愛さの裏に潜むものは何か。真一郎はまた新たな妖怪の流儀に触れる。次回、旅はさらに深まる。