第五話 みずほの池にて、河童の影
札幌の東の霊域――百年記念塔とみずほの池。父に会えず怒りを募らせる真一郎の前に、異形の存在・河童が姿を現す。人と妖の境界に揺れる一夜が幕を開ける。
札幌の東の外れ。
百年記念塔は、夜空を切り裂くように聳えていた。鋭い三角錐のシルエットが月明かりを受けて輝き、その横に広がる鬱蒼たる森林は、風を孕みながらざわめいている。
その奥にひっそりと存在するのが、みずほの池。静謐な水面は鏡のように月影を映し出し、ただそこに佇むだけで背筋が伸びるほどの霊気を放っていた。
池のほとりには、異様なほど巨大な伽藍が建てられている。
大本山天地寺。真言宗天地派の本山。そして天地無明拳の総本山でもある。
荘厳な金堂と塔頭が並び、境内には修行僧や武芸者が絶え間なく行き交う。見上げれば、本堂の奥から天にまで届かんばかりの大屋根が覆い被さり、仏法と武の権威を象徴していた。
浦見真一郎――のちの浦見真観。
彼は今、その大伽藍の石畳を、猫又のクロと共に踏みしめていた。
目的はひとつ。
父・浦見天観に助力を仰ぐためである。
「管長猊下はご不在だ」
荘厳な応接間。
天井に掲げられた曼荼羅の下、威風堂々と座していたのは、管長の弟子にして天地寺のナンバー2――西村天信。
五十を越えるであろうその男は、袈裟姿でありながらも腕と脚は武芸者そのものに鍛え上げられ、眼光は鋭く氷のように冷たい。
「では、戻られるのはいつだ」真一郎は詰め寄る。
「知らぬ。そもそも、得度すらしていない身であろう。小僧に教えられることなどない」
「小僧……だと?」
血が頭に上った。
真一郎の拳は震え、今にもその襟首を掴みかかりそうになる。
だが、天信は一歩も退かぬ。
冷淡な声が室内に響いた。
「――こちらで対処する。余計な手出しは無用だ」
突き放すように言い放たれ、真一郎は唇を噛みしめた。
外に出たときには、拳の内側に爪が食い込み、血の匂いが漂っていた。
「……ちっ、ふざけやがって」
天地寺の石段を下りながら、真一郎は吐き捨てた。
背後の大伽藍は冷たく彼を見下ろしているようで、胸の内には屈辱と怒りが渦巻いていた。
猫又のクロは、いつものように肩の上で尻尾を揺らしながら、しれっと言葉を投げる。
「まあ、そう言うな。あの坊主も仕事柄、体裁ってやつがある」
「体裁だぁ? 怪物がうろついてんだぞ。それを知らん顔かよ」
「知らん顔ではなく、隠す顔。坊主たちの常套手段よ」
クロの声音は皮肉に満ちていたが、瞳の奥には別の光がちらついていた。
真一郎は、堪えきれぬ苛立ちをその毛並みにぶつけるように肩を揺すった。
怒りを鎮めるように、真一郎はみずほの池へ足を向けた。
境内の裏手に広がるその水辺は、昼でも人影がまばらで、夜ともなれば妖気が濃く漂う。
――ふと、風の音が止んだ。
ざわめくはずの森が静まり返り、池の水面に不気味な波紋が浮かび上がる。
ぴちゃり。
小石を投げ込んだような水音。
その直後、池の中央から泡立ちが広がり、何かがゆっくりと浮かび上がってきた。
鼻先を掠めるように漂うのは――藻と泥の生臭さ。
水の表面を割って現れたのは、緑色の肌に甲羅を背負った、異形の姿。
――河童。
ぬらりと濡れた腕を伸ばし、にやりと口を裂く。
その眼は人のようでありながら冷たく光り、闇に沈んでいく。
「おや……珍しいね」
低く湿った声が響く。
真一郎は思わず一歩身構えた。
「妖怪と人間の組み合わせなんて、めったに見られるもんじゃない」
河童の視線は、真一郎の足元を歩くクロへと注がれていた。
真一郎の背筋に冷たい汗が伝う。
先日の黒い怪物との死闘が脳裏をよぎる。喧嘩で通じた技が一切通じず、地面に叩き伏せられた無力感。妖木刀が応えず、クロの嘲りを浴びた屈辱。
拳を握りしめるも、池から漂う異様な気配に、足が一歩も前へ出ない。
クロはといえば、尻尾を揺らしながら涼しい顔をしている。
皮肉げな声が夜気に混じった。
「ほう……河童とは。久々に水臭い奴に会ったもんだ」
河童はにやりと笑い返す。
月明かりに濡れた皿の水が妖しく光り、森のざわめきが再び戻ってきた。
――静かな対峙。
真一郎は、拳に籠めた熱を抑えながら、その場に立ち尽くした。
池の水面には、月と河童と、少年と猫又の影が揺らめいていた。
天地寺の冷たい門前払いと、池に潜む河童の影。真一郎とクロの歩みは、新たな妖との邂逅を導きます。次回、池に蠢く真意がさらに明らかに――。