表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/17

第四話 黒影、敗北の序曲

黒き怪物の圧に呑まれ、浦見の拳も技も通じない。初めて喧嘩ではない「戦い」に直面する彼の心は、恐怖と無力感に揺さぶられる。九尾の猫又・クロが見つめる中、闇に敗北を刻む夜が始まる。

 夜の北帝都学園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 廊下のガラス窓は月を映し、白銀の帯を床に投げかけている。冷気がじわじわと忍び寄り、肌の表面をざらつかせる。

 浦見真一郎――後に「真観」と呼ばれる少年は、制服の上着を肩に引っかけたまま、人気のない中庭を踏みしめていた。


 脇にひょいと並ぶ影。二つの耳をぴんと立てた猫又クロが、紫の瞳を細めてこちらを見上げる。


「おい、浦見。こんな夜更けに、わざわざ死に急ぐことはあるまい」

「うるせえ。てめえが『匂う』なんて言うから来たんだろうが」

「ふん、確かに《名無し》の臭気は強まっておる。……だが、まともにぶつかれば、お前では骨が折れるぞ」


 吐き捨てるように言う。クロの尾は普段は一つに束ねられているが、今は九つに分かれ揺れていた。まるで火の粉のようにきらりと光を散らすその尾は、月明かりに照らされるたび妖艶な影を描く。


 真一郎は鼻を鳴らし、拳をぐっと握る。

 彼の喧嘩はこれまで無敗に近かった。街の不良どもも、学園の武闘派も、その腕力と技の前に沈められてきた。

 ――だが、クロの放つ言葉が胸を刺す。

「お前では骨が折れる」――つまり勝てない、ということか。


 足音。

 遠くからじわりと迫る湿った音が聞こえた。水滴が落ちるような、粘ついた擦過音。

 中庭の中央。花壇の影がずるりと膨らみ、人の形をかろうじて保ちながら立ち上がった。


 黒い影――名無し。


 その輪郭は曖昧で、風に揺らぐ煙のよう。だが、一歩踏み出しただけで空気が重く圧し掛かり、真一郎の背中を冷や汗が伝う。

 臭気が鼻を突く。鉄錆と焦げた油の混ざった匂い。胃の奥を掴まれるような吐き気を覚える。


「……来やがったな」

 真一郎が構えを取る。肩を落とし、拳を顔の前に。

 喧嘩で磨いた勘が告げていた。――速い。人間離れしてやがる。


 次の瞬間。

 黒影が跳ねた。

 空気を裂く音。拳が、いや塊が飛んできた。


「ッ……!」


 真一郎は腕を掲げるより早く、身体をひねってかわす。だが、その風圧だけで頬の皮膚が裂け、血がにじむ。

 地面を抉った名無しの一撃で、土と石が飛び散った。


「クソ……! ただの影だろうが!」

「影ごときに、もう冷や汗か。まこと情けない」


 クロの声は皮肉たっぷりだ。

 だが真一郎には応える余裕などなかった。

 殴りかかる。喧嘩で叩き込んだジャブを二連。だが拳は煙のような肉体に吸い込まれ、骨を殴ったかのような硬質の反発だけが返る。


「ッ、効いてねえ……!?」


 撃。名無しの腕がしなる。速い。――世界記録保持者のスプリンターが全力で拳を振り抜いたような速度。

 真一郎は反射的に腕を伸ばし、軌道に触れる。流す、はずだった。

 が、重い。

 喧嘩で培った体捌きが通じない。

 身体ごと吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。肺から空気が全部抜け、呼吸ができない。


「がっ……は、ぁ……!」


 視界が暗く染まる。耳鳴りが骨を揺らす。

 名無しは音もなく歩み寄る。冷気が肌に張りつき、動けない。


 クロの尾がふわりと揺れた。

「……やれやれ。こんなものか、化物浦見」

「う、るせえ……!」

 真一郎は歯を食いしばり、腰に提げた一本の木刀を掴む。


 クロが目を細めた。

「それに頼るか」


 妖木刀。

 クロの家系に代々伝わる、妖怪が変じて生まれた意志ある武具。

 本来なら持ち主を選び、力を貸す。


「今こそ――ッ!」

 木刀を抜き払う。

 だが、ただの木の棒にすぎなかった。光らず、震えず。

 名無しの黒い腕が迫る。真一郎の斬撃は空を切り、手応えすらない。


「チッ……!」


 次の瞬間、黒い塊に胸を殴られた。骨が悲鳴をあげ、視界が白く弾ける。

 地面に転がり、血反吐を吐いた。木刀は手からこぼれ落ち、カランと冷たい音を立てる。


「……フン。やはり反応せずか」

 クロが冷笑した。


 名無しは止まらない。とどめを刺そうと腕を振りかぶる。

 そのとき。


 クロが前に躍り出た。

 九つの尾が一斉に広がり、白炎の結界が宙を走る。

 バチッと火花が散り、名無しの拳が阻まれた。煙のような肉体がのけぞり、呻き声をあげる。


 真一郎の朦朧とした視界に、クロの横顔が映る。

 ――初めて見た。あの化け猫が本気で牙を剥く姿を。


「クロ……お前……」

 呻きながら呼ぶと、クロはちらりとも振り返らなかった。


 名無しは呻きながら後退し、やがて影に溶けていった。

 残されたのは血に塗れた真一郎と、九尾をたなびかせるクロ。


「……やれやれ。この程度の輩にも遅れを取るとは。先が思いやられるは」


 月明かりに照らされ、九つの尾が揺れた。

 その姿を最後に、真一郎の意識は闇に落ちた。

喧嘩の常識が通じぬ相手に叩き潰される浦見。己の無力を知る彼を、クロは冷ややかに見守る。九尾が告げる未来は、試練か、それとも破滅か。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ