第四話 黒影、敗北の序曲
黒き怪物の圧に呑まれ、浦見の拳も技も通じない。初めて喧嘩ではない「戦い」に直面する彼の心は、恐怖と無力感に揺さぶられる。九尾の猫又・クロが見つめる中、闇に敗北を刻む夜が始まる。
夜の北帝都学園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
廊下のガラス窓は月を映し、白銀の帯を床に投げかけている。冷気がじわじわと忍び寄り、肌の表面をざらつかせる。
浦見真一郎――後に「真観」と呼ばれる少年は、制服の上着を肩に引っかけたまま、人気のない中庭を踏みしめていた。
脇にひょいと並ぶ影。二つの耳をぴんと立てた猫又クロが、紫の瞳を細めてこちらを見上げる。
「おい、浦見。こんな夜更けに、わざわざ死に急ぐことはあるまい」
「うるせえ。てめえが『匂う』なんて言うから来たんだろうが」
「ふん、確かに《名無し》の臭気は強まっておる。……だが、まともにぶつかれば、お前では骨が折れるぞ」
吐き捨てるように言う。クロの尾は普段は一つに束ねられているが、今は九つに分かれ揺れていた。まるで火の粉のようにきらりと光を散らすその尾は、月明かりに照らされるたび妖艶な影を描く。
真一郎は鼻を鳴らし、拳をぐっと握る。
彼の喧嘩はこれまで無敗に近かった。街の不良どもも、学園の武闘派も、その腕力と技の前に沈められてきた。
――だが、クロの放つ言葉が胸を刺す。
「お前では骨が折れる」――つまり勝てない、ということか。
足音。
遠くからじわりと迫る湿った音が聞こえた。水滴が落ちるような、粘ついた擦過音。
中庭の中央。花壇の影がずるりと膨らみ、人の形をかろうじて保ちながら立ち上がった。
黒い影――名無し。
その輪郭は曖昧で、風に揺らぐ煙のよう。だが、一歩踏み出しただけで空気が重く圧し掛かり、真一郎の背中を冷や汗が伝う。
臭気が鼻を突く。鉄錆と焦げた油の混ざった匂い。胃の奥を掴まれるような吐き気を覚える。
「……来やがったな」
真一郎が構えを取る。肩を落とし、拳を顔の前に。
喧嘩で磨いた勘が告げていた。――速い。人間離れしてやがる。
次の瞬間。
黒影が跳ねた。
空気を裂く音。拳が、いや塊が飛んできた。
「ッ……!」
真一郎は腕を掲げるより早く、身体をひねってかわす。だが、その風圧だけで頬の皮膚が裂け、血がにじむ。
地面を抉った名無しの一撃で、土と石が飛び散った。
「クソ……! ただの影だろうが!」
「影ごときに、もう冷や汗か。まこと情けない」
クロの声は皮肉たっぷりだ。
だが真一郎には応える余裕などなかった。
殴りかかる。喧嘩で叩き込んだジャブを二連。だが拳は煙のような肉体に吸い込まれ、骨を殴ったかのような硬質の反発だけが返る。
「ッ、効いてねえ……!?」
撃。名無しの腕がしなる。速い。――世界記録保持者のスプリンターが全力で拳を振り抜いたような速度。
真一郎は反射的に腕を伸ばし、軌道に触れる。流す、はずだった。
が、重い。
喧嘩で培った体捌きが通じない。
身体ごと吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。肺から空気が全部抜け、呼吸ができない。
「がっ……は、ぁ……!」
視界が暗く染まる。耳鳴りが骨を揺らす。
名無しは音もなく歩み寄る。冷気が肌に張りつき、動けない。
クロの尾がふわりと揺れた。
「……やれやれ。こんなものか、化物浦見」
「う、るせえ……!」
真一郎は歯を食いしばり、腰に提げた一本の木刀を掴む。
クロが目を細めた。
「それに頼るか」
妖木刀。
クロの家系に代々伝わる、妖怪が変じて生まれた意志ある武具。
本来なら持ち主を選び、力を貸す。
「今こそ――ッ!」
木刀を抜き払う。
だが、ただの木の棒にすぎなかった。光らず、震えず。
名無しの黒い腕が迫る。真一郎の斬撃は空を切り、手応えすらない。
「チッ……!」
次の瞬間、黒い塊に胸を殴られた。骨が悲鳴をあげ、視界が白く弾ける。
地面に転がり、血反吐を吐いた。木刀は手からこぼれ落ち、カランと冷たい音を立てる。
「……フン。やはり反応せずか」
クロが冷笑した。
名無しは止まらない。とどめを刺そうと腕を振りかぶる。
そのとき。
クロが前に躍り出た。
九つの尾が一斉に広がり、白炎の結界が宙を走る。
バチッと火花が散り、名無しの拳が阻まれた。煙のような肉体がのけぞり、呻き声をあげる。
真一郎の朦朧とした視界に、クロの横顔が映る。
――初めて見た。あの化け猫が本気で牙を剥く姿を。
「クロ……お前……」
呻きながら呼ぶと、クロはちらりとも振り返らなかった。
名無しは呻きながら後退し、やがて影に溶けていった。
残されたのは血に塗れた真一郎と、九尾をたなびかせるクロ。
「……やれやれ。この程度の輩にも遅れを取るとは。先が思いやられるは」
月明かりに照らされ、九つの尾が揺れた。
その姿を最後に、真一郎の意識は闇に落ちた。
喧嘩の常識が通じぬ相手に叩き潰される浦見。己の無力を知る彼を、クロは冷ややかに見守る。九尾が告げる未来は、試練か、それとも破滅か。