第三十六話 名無しの終焉
烈掌と妖木刀――死闘の果てに残ったものは、名を持たぬ存在だった。
黒影田中の中から現れた“名無し”と、猫又クロの本来の使命。
その夜、浦見真一郎は「生」と「還り」の境界を垣間見る。
夜風が静かに吹き抜けていた。
夏の残暑を残したまま、一高のグラウンドには冷たい気配が漂う。
田中二郎は地面に横たわっていた。
息はある。だが、その身体は重い夢の底に沈んでいるように微動だにしない。
周囲には異様な光景が広がっていた。
虫、熊、猪、猿――その亡骸が、輪を描くように倒れている。
妖木刀が放った一閃で、全ての“闇”が一度に切り離されたのだ。
真一郎は息を整えながら、震える手で妖木刀を見つめた。
刀身の青白い光はすでに消えている。
代わりに、周囲の空気そのものが淡く光を帯びていた。
その光の中心――
黒く、どろりとした影が蠢いていた。
電柱ほどの太さを持ち、背丈は二メートルにも満たない。
だが、顔も手足もなく、ただ“形”だけがそこに在る。
何かが、そこに居るという事実だけが圧として伝わってくる。
真一郎は息を呑んだ。
「……これが、名無し?」
クロは神妙な顔で頷く。
「妖怪は皆、この形で生まれるんだよ。最初は私もこれだった。」
風が止み、世界が息を潜める。
影は静かに揺れていたが、確かに“何か”を訴えていた。
その時だった。
音も無く、真一郎の頭の中に声が響いた。
――口惜しや、口惜しや。
――ここまで来るのに千年掛かったというのに。
――口惜し…………
その声はしだいに遠のいていく。
泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。
やがて風が吹き、声は消えた。
クロは静かに前へ出た。
その姿が一瞬揺らいだかと思うと――
少女の姿から、九尾の猫又へと変化した。
尾がふわりと広がり、闇の光を吸い込むように蠢く。
次の瞬間、黒い影が吸い寄せられるようにクロの身体に飲み込まれていった。
音も光もなく、ただ“終わり”だけがそこにあった。
呆気にとられる真一郎。
クロは猫又の姿のまま、ゆっくりと振り返った。
「……本来の猫又は、悪鬼魔性の残滓や、行き場のない霊魂を食べて混沌に還す役目があるんだよ。」
真一郎は眉をひそめる。
「……混沌?」
クロは少しだけ目を細め、考えるように言った。
「……大日如来のことだ。深く考えるな。要は、成仏させるってことだ。」
「成仏……」
真一郎は小さく繰り返した。
クロは再び人の姿へと戻り、少し怒ったように言葉を続ける。
「成仏とは輪廻転生――またいつか、この世に現れるということだ。」
「忘れられても、還る。
名を失っても、何かの形でまた生きる。
……それが“還る”ということなんだ。」
真一郎は少し考え込み、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「わかった。考えないようにするというか……受け入れる。」
「そんなもんだって、そう思うよ。」
クロは微笑み、肩をすくめた。
「いい心がけだ。」
その時だった。
田中がわずかに身をよじり、目を開けた。
「……ここは? 俺は、何を……?」
真一郎はすぐに膝をついて覗き込んだ。
「田中。お前、覚えてるか?」
田中はぼんやりとした目で真一郎を見る。
「浦見……なのか……? 俺、なんでここに……?」
クロは一歩前に出て、優しく微笑んだ。
「もう大丈夫だ。黒影はお前から離れた。」
「黒影……?」
田中の目に、わずかな涙が滲んだ。
「俺、誰かを……傷つけたのか……?」
真一郎は短く答える。
「……誰も責めちゃいねぇ。もう終わったんだ。」
夏の夜風が、二人の間を吹き抜けた。
グラウンドの隅で、ひぐらしの鳴く声が響く。
戦いの熱も、怒りも、すべてが遠ざかっていくようだった。
クロが夜空を見上げて呟く。
「名を失ったものが還り、名を得たものが残る。
それがこの世の秩序ってやつだ。」
真一郎もその言葉に合わせて空を見上げた。
雲間から見える星が、いつもより少しだけ近く感じた。
名無しとの邂逅と、猫又としてのクロの本懐。
“名”の意味を学んだ真一郎に、新たな季節が訪れようとしていた。
だが――北帝都の影は、まだ完全には消えてはいなかった。




