第三十四話 残暑の夜、名を懸けた咆哮
夏の名残が夜気に纏わりつく一高のグラウンド。そこで向き合うのは、名を求める者と、名を拒まず生きる者。黒い影は姿を変え、真一郎の前に立つ。全てを賭けた、逃げられぬ一戦が始まる。
夜の校庭は、風もなく静まり返っていた。
残暑の熱だけが地面に貼りつき、空気は重く、息がまとわりつく。
真一郎はその中心に立っていた。
その数歩後ろ、女子制服姿のクロが腕組みをしたまま仁王立ちしている。
田中二郎がゆっくりと口角を吊り上げる。
「待っていたぞ……俺を邪魔する男よ。」
その肉体が、音を立てて膨れ上がる。
メキ……メリッ……バキバキバキッ。
骨が軋む音、皮膚が裂ける音、筋肉がねじれる音が、夜の静寂に不気味に響く。
やがてそこに立っていたのは、もう人間ではなかった。
黒々とした巨躯に、影のように揺れる四肢。
無数の目とも穴ともつかないものが蠢いている。
「後少しで俺は二つ名を手に入れ、この“田中二郎”ともオサラバよ。」
クロは腕組みのまま、興味深そうにその怪物を眺める。
「なるほど。考えたな。
二つ名を手に入れ、“田中”という名前から分離して、自分の本当の存在を確立する……か。」
「ある意味、良心的と言えるな。変成に失敗すれば、ただの怪異崩れになるだけだからの。」
田中二郎――いや、黒い怪物は低く唸った。
「化け物浦見を倒せば、必ず“名”が手に入る。」
その言葉が空気に定着した瞬間――
地面が弾けた。
ドンッ!!!
黒い巨体が真一郎へ一直線に突進した。
速い。
巨体に似合わぬ速度。
影が鋭い槍のように迫る。
真一郎は拳を握りしめ、右足を大地に沈めた。
山中修行の記憶が、体に刻んだ動きを思い起こさせる。
「ふっ……!」
真一郎は一歩踏み込む。
殴るのではない。
衝撃を受け流すように、拳を添え、力を逸らす。
だが。
黒い腕が横薙ぎに振り抜かれた。
ガァンッ!!
真一郎の体は弾き飛ばされ、地面を転がる。
砂埃が舞い、肺から息が漏れた。
「ぐっ……っ……!」
後方でクロが声を掛ける。
「真一郎!忘れるな!お主はもう、ただの不良ではない!」
真一郎は地面に拳を突き立て、体を起こす。
「わかってる……ッ!」
再び、黒い怪物が突っ込んでくる。
真一郎は後ろに飛び退き、距離をとる。
(力だけじゃ勝てない。こいつは“名”を求める怪物だ。生存の執念が違う。)
怪物の四肢が地面を引き裂きながら迫る。
ガガガッ!!
真一郎は拳を握りしめ、山中で叩き込まれた呼吸を整える。
“吸って、力を沈めろ。”
吸気。
二郎の腕が振り上がる。
真一郎の瞳が鋭く光る。
“吐いて、放て。”
「――おおおおおッ!!」
真一郎は突っ込んだ。
怪物の腕が振り下ろされる瞬間、その内側へ潜り込み――
拳が、田中の胸へめり込んだ。
ドゴォッ!!
黒い肉の波が波紋のように揺れる。
田中の巨体が揺らぎ、足元が崩れる。
だが――倒れない。
倒れられない。
「俺は……忘れられたくねぇんだよぉおおおお!!」
咆哮が夜を裂く。
それは恐怖ではなく、祈りだった。
消滅への恐れ。
存在を求める叫び。
真一郎は息を吐き、拳を引き抜く。
「だったら……!」
その目は、ただまっすぐだった。
「“俺を倒せ”。 その名、俺が受け止める。」
怪物は息を呑んだように動きを止めた。
クロの瞳が夜の闇の中で白く光る。
「――さて。ここからが本当の勝負よ。」
残暑の夜、戦いは続く。
田中は名を求め、真一郎は名を背負って立つ。互いの存在が互いを証明する戦い。次回、二人の拳は再びぶつかり合う。名とは、存在とは――その答えが、もうすぐ見える。




