第二十七話 投地法 ― 大地を踏み鳴らす力
夜の山頂で始まった新たな修行。
クロが教えるのは「投地法」――大地を踏み鳴らし、瞬間的に発勁を倍増させる術。
真一郎は重い一歩の意味を、その身に刻もうとする。
山頂の空はすでに漆黒に染まり、星々のきらめきが真一郎たちを見下ろしていた。虫の声はなお勢いを失わず、湿った夏の風が耳元を掠める。汗が肌を流れ落ちるのに、夜気は冷ますどころか纏いついて重さを増していた。
岩の上に腰を下ろしたクロは、すっかり少女の姿に落ち着いている。細い脚をぶらぶらと揺らし、涼しげな声で告げた。
「次は発勁をさらに倍増させる方法だ」
真一郎はその言葉に目を細め、息を呑んだ。
「……まだ、あるのか」
クロは小さく頷き、星明かりを浴びていた瞳が真剣に光った。
「それが投地法だ。地面を強く踏み、大地を揺さ振ることで、発勁力を高めるんだよ」
一本ダタラが無骨な体を人の姿に変え、ゆっくりと立ち上がる。その影は岩壁に濃く落ち、山の静寂を押し分けるように存在感を示す。
「水の入った器を地面に落としたら、どうなると思う?」
真一郎は眉をひそめた。
「水が……跳ね上がる」
「そうだ」クロが指を鳴らす。
「ものすごい勢いで飛び出すだろ? あれと同じ原理さ」
一本ダタラは巨体を沈め、土を踏み鳴らした。
「相撲の四股や拳法の震脚がそれに当たる」
大地がごくわずかに震え、真一郎の足裏まで波のような衝撃が伝わる。
「一見地味に見えるが、足の裏を垂直に地面へ落とすことが重要だ。斜めでは力は散ってしまう。真っ直ぐでなければならん」
クロが両手を合わせ、ぱんと乾いた音を立てる。
「手を叩いた時、手の平がまっすぐ密着すると、いい音がするだろ? それと同じ。足の裏と地面をぴったりと平らに合わせて踏み落とすんだ」
その言葉に、真一郎は土の上に立ち、慎重に足を上げた。汗で湿った草の匂い、土のぬかるみの感触が足裏に広がる。
(……真っ直ぐ、か)
重心を丹田に沈め、足を落とす。だが――
「べちゃっ」
鈍い音とともに、泥が跳ねただけだった。
クロが肩を揺らして笑う。
「おいおい、器を斜めに落としたのと同じだな」
一本ダタラが顎を撫でる。
「真っ直ぐに落とす、とは簡単そうに聞こえるが……人の体は思いのほか歪んでいる。腰、膝、足首、どれかが狂えば力は逃げる」
真一郎は歯を食いしばった。
「もう一回だ」
夜の山頂で、何度も足を上げ、落とす。だが、地を揺らすどころか、足裏にじんと痺れる感覚しか残らなかった。
「焦るな」クロが口を尖らせた。
「水の入った器の話、覚えてるだろ。真っ直ぐ落ちたときと、少し横になって落ちたときじゃ、飛び出す水の量が格段に違う。お前の足は、まだ横に傾いてんだよ」
真一郎は拳を握り、夜空を仰ぐ。満天の星の下で、自分の足跡だけが土に並んでいく。
「……これだけ、でいいのか?」
問いかけると、クロはにやりと笑った。
「そう。これだけだ。型ってのは体への擦り込みだ。一朝一夕で身に付くもんじゃない。だから『これだけ』を教えてるんだ」
一本ダタラが低くうなずく。
「観の目、三密、身口意、そして投地法。この四つを刻めば、十分だ」
クロが腕組みしながら困り顔で俯く。
「…後、歩法も少々かな…」
「四つ以上あるじゃんか!」
真一郎は胸を上下させ、腹に熱を感じた。
(……俺は、今、どこまで近づけたんだろうか)
夏の夜の虫の声が強まる。土に刻まれた足跡のひとつひとつが、真一郎の葛藤と試行錯誤を物語っていた。
足裏が地を打つたび、体内に水柱のような衝撃が走る。
ぎこちなさの中にも、確かな手応えが芽生える真一郎。
投地法の核心はまだ、その先にあった。




