第二十二話 夏の山頂、丹田に揺れる水瓶
夏の山道を進みながら、風里偉は丹田の真意を語る。水瓶の水が揺れ、上下に流れることで、発勁の威力が増すのだと。
ついに山頂が見える位置へと辿り着いた一行。
夜気はむっとするほど濃く、湿り気を帯びた空気が肌にじっとりと貼りつく。
遠くでヒグラシが細い声を震わせ、足元の草むらからはジージーと虫の合唱が響き渡っていた。
「……蒸し暑いな」
真一郎が額の汗をぬぐうと、クロが鼻で笑った。
「修行にゃちょうどいい。寒さで震えるよりはマシだろ」
そのやり取りを背に、風里偉は黙々と先を行く。
草いきれと夜の闇に沈んでいながら、その背筋は不思議と輪郭を保ち、消えずに立ち続けているように見えた。
湿った土を踏みしめるたび、真一郎の肩が上下に揺れる。
その隣で、クロは軽快に歩きながら手振りを交えた。
「さっき言ったろ。水瓶の中身は、ただ溜めてるだけじゃもったいねぇんだ」
両手を器のように組み、ゆらりと揺らす。
「水瓶の水が動けば流れも生まれる。上下に動けば圧がかかる。……止まった水はただの重みだが、揺れれば力になる」
真一郎は無意識に腹へ手を当てた。
掌の下で、歩みのたびにかすかな温もりが揺れる。
(……水流、圧力……)
瞼を閉じると、頭の奥で水瓶が波立ち、溢れた水が四肢へと奔り出す光景が浮かんだ。
「力むな」
前を向いたまま、風里偉が低く言う。
「呼吸が乱れれば水も濁る。夏の池を思え。風が通れば澄み、淀めば腐る」
その声に、真一郎は深く息を吐いた。
この蒸し暑さの中でも、風が抜ければ一瞬だけ涼が訪れる。まるで肺の中を洗われるような感覚が広がる。
一本ダタラが、どっしりとした歩調で言葉を添える。
「我らが祈祷や力を振るうときも同じだ。気を揺らし、巡らせる。静と動の移ろいを見極めねばならん」
クロが夜空を仰ぎ、星を指差した。
「ほら、夏の大三角。じっとしてるように見えるけど、あれも流れてるんだ。止まってるようで動いてる――気も同じさ」
真一郎も空を仰ぐ。
汗に濡れた頬を夜風が撫で、星々の光がかすかに震える。
(……揺らし、流し、圧を生む……俺は……まだ届いてない)
その時、風里偉がふと立ち止まった。
背を向けたまま、ひと呼吸置いて言う。
「真一郎」
夜の闇に溶けるような声だった。
「おまえの父、天観もまた、この道を歩んだ」
胸の奥が跳ねる。
「……親父が?」
風里偉は振り返らず、ただ夜空を仰いだ。
「不動明王の御前で、何度も気を沈め、火焔のごとく吐き出そうとしていた」
真一郎の耳に、ヒグラシの声が澄んで重なった。
拳を握ると、胸の奥の熱が脈を打ち、丹田から響いてくる。
山頂は、目前だ。
けれど星と虫の声に包まれながら、少年の内なる“水瓶”は確かに揺れ始めていた。
父・天観の影、不動明王の名が差し込む中、真一郎は己の道を歩む決意を固める。夏の陽光の下、新たな一歩を踏み出す。




