第二十一話 拳法、意念、そして丹田
更に山中にて、風里偉が語る「意念」と「丹田」。真一郎は初めて自らの気の存在を感じ取り、武術の核心に触れ始める。
夏の夜風が、汗に濡れた真一郎の頬を撫でていた。
険しい道を抜け、一行は山頂へと続く細い山道を登っていた。
遠くに灯る街の明かりが、夜空の星々と溶け合う。虫の声と葉擦れの音だけが、静寂を揺らす伴奏となっていた。
真一郎は額に汗をにじませ、背を伸ばして歩く風里偉を見上げる。
「なぁ、風里偉さん。俺は、いつから修行を始められるんだ?」
風里偉は足を止め、闇を切り裂くような眼差しを真一郎へ向ける。
「本来なら型から学ぶべきだが、時間が限られている。――伝えるのはひとつ。意念だ」
その言葉に、真一郎の胸がどくりと高鳴る。
(意念……!)
山頂に吹き抜ける風を吸い込み、風里偉は静かに告げた。
「天地無明拳は、弘法大師空海が唐より持ち帰った拳法に、我ら妖怪や神が交わって生まれたものだ」
真一郎は思わず拳を握り締める。
(空海と……妖怪が?)
風里偉の声は、夜の闇を切り裂くように響いた。
「意念とは、術のこと。そして――術とは到達の証だ。武道の『道』は未だ到らぬ者が歩む過程。練習であり、旅路そのもの。だが『術』とは熟したもの、前提を超え、到達した姿を指す」
その言葉が、真一郎の胸に重くのしかかる。
(道は歩むもの……術は極まった先にある……)
風里偉は続ける。
「近年で言えばイメージトレーニングに近い。ただし違うのは、丹田と気の流れを用いることだ」
真一郎はごくりと喉を鳴らす。
「丹田……気……」
「臍下に宿る下丹田、胸に在る上丹田。ふたつに見えて、実はひとつの気が上下を巡る。そこから四肢へと広がり、壁をも突き破る――それを発勁と呼ぶ」
炎の代わりに、夏の星々が瞬いていた。真一郎の胸には、熱が宿っていく。
(発勁……! 俺に欠けていたのは……それか!)
風里偉の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「難しいと思うから出来ぬのだ」
その時、クロが肩をすくめて割って入った。
「ったく、説明が堅苦しいんだよ。アタシが小学生でも分かるように言ってやる」
少女の姿のまま、真一郎の腹を突き指す。
「今までのお前の喧嘩はな、水鉄砲だ。腕や脚にただの水を流してるだけ。丹田は水瓶。その中の水を揺らし、押し出す。それが発勁。水が上下に移動すれば、流れも圧力も増す。だから強いんだよ」
その瞬間、真一郎の腹に熱が走った。
(……水瓶の水が、確かに揺れている……!)
可愛らしいドヤ顔のクロが相撲の四股を真似しながら二マッと微笑む。
「古来、武術には必ず発勁が伴っていたが、今はその殆どが失伝した。相撲にその名残りが残っている」
「ハッケヨイ。行司が発勁はしてるかって聞いてるだよ」
風里偉は再び歩き出し、山頂を指さした。
「続きはあそこで語ろう。道を歩む者が、いつ術へ至るのか――お前自身で確かめるのだ」
夜風が吹き抜ける。
虫の声とともに、山頂の影がすぐそこに迫っていた。
真一郎の胸の内にもまた、未熟な水瓶が、術へと至るための波を生み始めていた。
丹田を水瓶にたとえ、気を水とするクロの説明。真一郎の胸に温かな流れが芽生える。旅は新たな修行の段階へ進む。




