第二十話 武術、信仰、そして救済
山中で、風里偉から語られたのは、この世界の成り立ちと武術の極意。密教の「三密」になぞらえ、強さとは何か、そして信仰とは何かを説かれる真一郎。妖怪や神、人間、全ての存在の根源的な悩みに触れた真一郎は、自らの旅の真意を見出す。
山小屋を後にした真一郎は、冷たい山風を胸いっぱいに吸い込みながら、険しい道を登っていた。
後方には、人の姿を取った二妖怪――クロに一本ダタラ。
そして、先頭を軽やかに進むのは、巨躯を人間の大きさにまで縮めた風厘偉であった。
彼の背中は、薄明かりの中でも異様な存在感を放っている。肩にかかる黒髪は風に揺れ、その一歩一歩に山そのものの重みを感じさせる。
足取りはあまりにも軽快で、岩を踏むたびに音ひとつ立たず、まるで空気を滑るかのようであった。
その背に目を奪われながら、真一郎はふと気づく。
自分の心臓が、不思議と高鳴っていた。
「……俺は、強くなりたくてここに来たはずなのに」
つぶやきは、吐息に紛れて消えた。
ここまでの旅で、自分の目的を見失いかけていたのだ。黒い怪物との敗北、信仰と妖怪の真実、そして父の存在。押し寄せる現実の重さに、気づけばただ流されていた。
そんな心の迷いを見透かしたように、風厘偉が立ち止まり、振り返った。
その瞳は深淵のように暗く、同時に月明かりを反射して鋭く光る。
「お主が弱い理由……それが、ようやく見えてきたであろう」
声は低く、しかし山の空気を震わせるような響きがあった。
真一郎の胸に、鋭い衝撃が走る。
「……俺が、弱い理由」
風厘偉はしばし黙し、山の木々を見渡す。
彼の眼差しは、遠い過去を覗き込んでいるようだった。
やがて彼は、両手を胸の前で組み、静かに告げる。
「言葉、行い、そして心。密教において“三密”と呼ばれるものだ」
真一郎は眉をひそめた。
「三密……?」
「口に真言を唱える。手で印を結ぶ、あるいは金剛杵を持つ。そして心を三摩地に住まわせる。――これら三つが重なったとき、初めて神仏の力とひとつになる」
淡々と語られる言葉に、真一郎は息を呑んだ。
その説明はどこか祈りにも似て、聞くだけで胸の奥が熱を帯びていく。
「日常に置き換えるなら……」
風厘偉は、歩を再び進めながら続けた。
「真言は言葉。印や杵は仕草や動作。三摩地は、信じる心。人は皆、それを何気なく使っている」
その声は山の木々に溶け込み、霧のように真一郎の意識を包んでいく。
(言葉、動作、心……)
「――神仏を信じて疑わぬこと。それこそが肝要なのだ」
真一郎の足が止まった。
胸の奥に重石が落ちたように、呼吸が詰まる。
(信じて、疑わない……?)
彼は心の中で問いかけた。
これまで神仏を、妖怪を、どこまで信じていただろうか。黒い怪物に敗れた時でさえ、それを現実のものとして捉えきれていなかったのではないか。
風厘偉の声が、その迷いを断ち切るように響いた。
「友が隣にいて声をかける。お主は、その存在を疑うか?」
真一郎は思わず首を振った。
疑うまでもない。当たり前にそこにいる。
「神もまた同じこと。声も吐息も、肌のぬくもりも、匂いも――当たり前に感じられるもの。それが“信じる”ということなのだ」
その言葉に、少女化したクロがわずかに目を伏せる。
真一郎は彼女の横顔を見て、ふと心臓が跳ねた。
クロの存在感は、確かに彼にとって「疑う余地のない現実」だった。
「……俺は、目を逸らしていたんだな」
かすかな声は、夜風にさらわれた。
だが風厘偉の耳には届いたらしく、彼は静かに頷いた。
「人は、物陰に潜む我らを見ようとしない。覗こうともしない。だから信じることすらできぬ」
その声には、底知れぬ悲哀が滲んでいた。
妖怪や神でさえ、人を救いたいと願いながら、その存在を受け入れてもらえない苦しみを抱えているのだ。
真一郎の胸に熱が広がる。
(救いたい、救われたい……それが存在意義……)
彼の心に、初めて鮮やかな決意が芽生えた。
風厘偉は歩みを止め、ゆっくりと両手を広げた。
「武術もまた同じ。呼吸、型、そして意念。密教における三密を置き換えたものだ。呼吸は言葉、型は動作、意念は信じる心、この三つが揃わねば、真の武は生まれぬ」
「……意念」
真一郎は呟き、握った拳を見下ろした。
喧嘩で培った技、力任せの動き。だがそこには「意念」が欠けていたのだと悟る。
風厘偉は近づき、真一郎の肩に大きな手を置いた。
その手からは、温かさと同時に大地そのものの重みを感じる。
「天地無明拳――お主が学ぶその武は、ただの技ではない。この世界の理を映すものだ」
真一郎は、その言葉に胸を震わせた。
(俺は……必ず極める)
風厘偉の瞳は、深淵の底から光を射すように彼を見つめた。
「決して三密を忘れるな。これこそが、お主を守護者へ導く唯一の道だ」
真一郎は、深く頷いた。
そして、その胸に新しい炎を宿した。
(俺は――強くなる)
山の稜線に、わずかな黎明の光が差し込む。
その光を受けて、真一郎の瞳は迷いを捨て、ただひたすら前を見据えていた。
風厘偉は静かに微笑み、右手の人差し指を前方に向け。
「さあ、行こう。もうすぐ頂上だ」
真一郎の足取りは、もはや迷いを知らぬ。
彼の心は、救うために、そして強くなるために――一歩先を、確かに踏みしめていた。
風里偉の言葉は、真一郎が知っていた世界をひっくり返した。神も妖怪も、人間と同じように悩みを抱えている。ただ強いだけでは駄目なのだと彼は知る。信じる心、救いたいという思いこそが強さになる。ここからが本当の始まり。この旅は、真一郎自身を見つける修行となるだろう。




