第二話 猫又、夜を駆ける
屋根を駆ける黒い影を追った真一郎は、九尾を持つ猫又と対面する。人ならざる存在は、なぜ北帝都学園の周囲を嗅ぎまわるのか――。
夜の学園は、静寂の底にあった。
札幌の片隅――いや、もはや都市一つ分と言っても過言ではない巨大私立学園、「私立北帝都学園」。その中でも最も歴史があり、そして最も荒れていると言われる第一高等部、通称「一高」。
そこに、名を知らぬ者はいない男がいた。
「化物浦見」
かつて、喧嘩で並ぶ者がいなかった男。中学時代から札幌中の不良の頂点に立ち、己の腕っぷし一つで修羅場を潜り抜けてきた。
その名は、恐れと敬意を込めてささやかれていた。
しかし――現在。
その男は、夜の学園内で猫を追いかけていた。
「……なぁ。いくらなんでも多すぎるだろ……」
浦見真一郎は眉をひそめながら、校舎の屋根の上を見上げる。
そこには――まさに“猫の大行進”。
瓦屋根の端から端まで、ずらりと並んだ無数の猫、猫、猫。
「こりゃ噂になるわけだ……つーか、アイツら何してんだ?」
猫たちは、まるで何かに導かれるように、同じ方向を見ていた。
目線の先――北帝都学園内の、古い廃棄校舎。
三高の敷地に佇む、かつての講堂。今は使用禁止となって久しい“旧聖堂”だ。
「……ま、悪さしてるわけでもないし、可愛いからいいか」
と、自分に言い聞かせながら、浦見は踵を返す。
その背中を、猫たちの何匹かが――見つめていた。
◆ ◆ ◆
数日前に広まった噂は三つ。
一つ、学園内に猫が急増していること。
二つ、「三高」を牛耳っていた不良連中が、突如転校してきた一人の男によって一掃されたこと。
三つ、深夜の学園内に現れるという、"怪物"の目撃談。
怪物。しかも黒い影で、言葉は喋らず、近付く者の精神を崩すという。
浦見はその手の話を信じる方ではないが、なにせ今は暇だ。腕を震わせる相手もいない、久々の無風状態。
「よし、今夜あたり、ちょいと見に行くか」
そう呟いたのが、すべての始まりだった。
◆ ◆ ◆
夜中の学園は広すぎて静かすぎる。
街灯に照らされたアスファルトの校内通路を、ひとり浦見は歩いていた。
ふと、何かが視界の端に写った。
黒い塊――否、“影”。
「ん?」
立ち止まった浦見の足元を、一匹の猫が走り抜けた。
「……猫?」
いや、違う。今のは――“重かった”。
猫にしては、明らかに“重い足音”。
ぞわり、と背筋を冷たい風が撫でた。
気付けば、視界の中に――"それ"がいた。
闇より黒い“なにか”。
輪郭が溶けたように曖昧で、そこだけ空間がねじれているようにも見える。
浦見の心臓が、ドクンと鳴った。
足が動かない。
金縛り。いや――これは“見られている”という感覚。
全身を押し潰すような圧。
そのとき――
「おい、逃げるぞ人間」
足元から声がした。
「……え?」
黒猫がいた。
いや――それは猫の“形”をした“何か”。
ぐっと視線を上げると、漆黒の目が浦見を見上げていた。
「……喋った、よな?」
「今更かよ」
猫は溜息を吐くように言った。
次の瞬間、浦見の体がふっと軽くなった。
金縛りが解けたのだ。
猫を抱き上げ、浦見は駆け出す。
◆ ◆ ◆
寮の自室まで逃げ帰った浦見は、ドアを乱暴に閉めて鍵をかけ、ベッドに猫を放り投げた。
「な、な、なんだお前……」
「ふむ」
黒猫は尻尾をゆらりと揺らす。
尻尾――それが、目の前で九つに分かれた。
「……九尾……」
「我は猫又。……名はまだ無い」
浦見は思わず、床に手をついて正座した。
「師匠ッ!!」
「いや、拝まなくていい。やめい」
猫――猫又は、器用に首をかしげた。
「お前、人間にしては面白い。気に入った」
「ありがたき幸せ!」
「ついて来い」
「どこへ?」
「お前が“見る”覚悟を決めたのなら、世界の裏側を見せてやる」
「ちょ、俺明日一限から現国が――」
「知らん」
猫の目が、月明かりを反射して光った。
◆ ◆ ◆
後日。
「三高」の噂の転校生の調査へ向かった浦見は、あっさりとその男を見つけた。
「……普通の不良じゃねえか……」
体格はいいが、特別覇気があるわけでもない。
拍子抜けした浦見は、そのまま帰ろうとした。
だが――その帰り道。
猫又がぽつりと呟いた。
「“違和感”を感じたか」
「ああ、何かが引っかかってる」
「アイツは“人”ではない。“入れ替わっている”のだ」
「……は?」
「“ヒトの形”をしているが、中身はもう違う。あれは“器”だ」
浦見は息を飲んだ。
「それって……まさか……あの怪物の正体って――」
「それはまだ分からん」
猫又はしっぽをふわりと立てて言った。
「けれど――お前はもう、引き返せない」
◆ ◆ ◆
夜、再び現れる“黒”。
猫又とともに、それを見つめる浦見。
胸の奥が――熱くなる。
「恐怖」とは違う。
「怒り」とも違う。
名付けようのない感情が、彼の胸を満たしていく。
九尾の猫が、ゆっくりと口を開いた。
「さあ、浦見よ。名を捨てし者達の声を、聞くがいい」
猫又との出会いは偶然か、必然か。真一郎は未だ知らない。学園の静けさの裏で、ゆっくりと牙を研ぐ影が忍び寄っていた。