第十一話 べとべとさん、ヒタヒタと
スネコスリと別れ、河童の蓑に助けられつつ進む真一郎とクロ。だが妖怪の旅路は一筋縄ではいかない。奇妙な足音に怯える真一郎が見たものは――。
スネコスリと別れた後、真一郎は占冠村へと向かおうとしていた。
軽快な足取りでここまで来られたのは、ひとえに黄河童・樹一が譲ってくれた道具のおかげだ。
だが、同時に胸の奥には不安が巣食っていた。妖怪と共に行動し、妖怪の道具を借り、妖怪の知恵を頼りに旅をしている――そんな現実が、自分という存在をどこか違うものに変えてしまうのではないか、という不安だ。
足元が急に重くなったのは、そんな考えが頭をもたげた時だった。
「……おかしいな、足が」
ぐっと下へ引っ張られるような感覚。膝から下に鉛を仕込まれたようなだるさ。
クロがすぐに反応した。
「どうした真一郎? ……ふむ、スネコスリの仕業だな」
「スネコスリが……?」
クロはふわりと尻尾を広げた。一本、二本と開いた尾はやがて九つへと分かれ、その毛先が真一郎の足元に触れた瞬間――ぱちん、と見えない糸が切れたように足が軽くなる。
「な、なんだ今のは……!」
クロが苛立ちと呆れを交ぜ合わせながら呟く。
「心遣いが聞いて呆れるぜ。舐めなめられたもんだな」
「……進行阻止の一環ってことか……」
真一郎はうめいた。妖怪の存在はどれも理不尽で、人間の尺度で測れない。だがクロにとっては、こうした出来事は「日常」のようだった。
「アヤツめ、余計なことを。まあ仕方ない。今日はこの辺りで火を起こして休もう」
クロは周囲を見回し、茂みを顎で示す。
「森も深いし、人間の目も届かん。ここでビバークだ」
「……ビバークって、お前な……」
真一郎は呆れながらも、その言葉の響きに妙な安心感を覚えた。野宿などしたことがない自分にとって、クロの軽口は緊張を和らげる薬でもあったのだ。
だが、その安心は長く続かなかった。
――ヒタ、ヒタ。
背後から、湿った地面を踏みしめるような足音が聞こえてきたのだ。
「……なんだ?」
真一郎が振り返ろうとした瞬間、クロの鋭い声が飛ぶ。
「振り向くな、真一郎!」
その声音には、普段の飄々さが欠片もなかった。
真一郎の全身が凍りつく。背筋を冷たい刃でなぞられるような感覚。振り返りたい衝動を必死に抑える。
「……お先にどうぞ」
クロが低く、しかしどこか丁寧に声をかける。
すると真一郎の横を――半透明の巨大な影が通り過ぎていった。
丸い胴体に太い手足。重たげな足取りが、確かにヒタヒタと音を立てている。だが顔は見えない。いや、目が拒んでいるのだ。
真一郎は息を殺し、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
足音はやがて遠ざかり、森の闇に吸い込まれていった。
「な、なんだ……今のは……」
真一郎は声を震わせて問う。
「べとべとさん、だ」
クロはあっさりと言う。
「……べとべとさん?」
「道に迷った者の背後についてくる妖怪だ。無害だが、構うと面倒なことになる。だから“どうぞお先に”と道を譲ってやるのが礼儀だ」
「面倒って……」
「聞かない方がいいぞ」
クロはそれ以上説明をしなかった。
真一郎は唇を噛み、深く息を吐く。理不尽、不可解、得体の知れない恐怖。だが同時に、そこには確かに「筋」があることも理解し始めていた。妖怪たちには彼らなりの理があるのだ。
「……わかった。何もなかったことにするよ」
真一郎は小さく呟き、記憶から「べとべとさん」を追い出すように心を整えた。
その夜、焚き火の明かりの下で、真一郎は初めて自分が「人間」と「妖怪」のあいだに立たされていることを強く自覚した。どちらにも属せず、しかし両方を受け入れねばならない存在――。
(俺は……どこへ向かっているんだろうな)
そんな問いを抱えながら、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
占冠への道中、真一郎は不可解な「べとべとさん」と遭遇する。妖怪の理を知るほどに、人と妖の境界が揺らいでいく。次なる地で彼らを待つものは――。




