たぬき、ピュアすぎ注意報
あの頃の私は、
誰かを本気で好きになるなんて、もう二度とないと思ってた。
男は道具。感情はいらない。そう割り切って生きてきた。
でも――
酔っぱらいで、ピザ柄Tシャツの、ふにゃふにゃした男が、
私の人生を、くすっと笑える優しさで塗り替えていくなんて。
誰が想像しただろう。
私、えりこは自宅にて仕事中だった。
仕事の接客の合間にスマホを見れば、着信履歴に友人・亜衣の名前。何度も連絡がきている。
「なに?」と折り返すと、亜衣のテンション高めな声が返ってきた。
『ねえ!今日、うちの店きてよ〜!今ひま?』
「えー……仕事中だし」
『知ってる!でも来れないわけじゃないでしょ?お願い、お願い!』
私の仕事は自由が利く。だけど、自由だからこそ自分で線引きしないと、生活がだらけてしまうことも知っている。
正直、気が進まなかった。亜衣は明るくて美人で、どこへ行っても周りの視線を集めるタイプ。その隣に立つと、えりこはどうしても「地味で冴えない自分」を意識してしまうのだった。
「……わかった、ちょっとだけなら」
しぶしぶ承諾し、支度を整えて亜衣の働くカラオケ居酒屋へと向かう。
着いた店内は明るく、すでにテンションの高い客たちでにぎわっていた。亜衣はキラキラした笑顔で迎えてくれたが、えりこは心のどこかで居心地の悪さを感じていた。
この後仕事も控えていることから、そう思ってしまったのだろう。
私には、恋愛に対してひねくれた感情があった。真剣な気持ちになることが怖くて、現在も複数の“関係”を持っている。物をくれる男性、ご飯に連れて行ってくれる男性、ドライブに付き合ってくれる男性、体だけの関係の男性。そうやって距離を取ることで、自分の心を守っていた。
恋なんて、信じていなかった。
店では適当に飲み物を頼み、軽く会話に混じる。
気づけば時刻はもうすぐ23時。そろそろ帰らないと、仕事が待っている。
「ねえ、もう帰るね」と亜衣に声をかけると、彼女は「え〜、もうちょっといてよ」と子どもみたいにねだってきた。
そして、こんなことを言った。
『もうすぐラーメン屋さんが来るから!』
「……ラーメン屋?」
頭にハテナが浮かぶ。ここはカラオケ居酒屋、出前でも頼んだのか? と思っていたところに、入り口のドアがガチャと開いた。
現れたのは、酔っ払ってふにゃふにゃになった、たぬきのような顔の男。ふっくらモチモチのボディ。酔いで顔は赤らんでいて、立っているのもやっとという様子。
「にょい〜っす……」
その男こそが、“ラーメン屋”こと――ゆうちゃんとの、出会いだった。
「えりこ、ちょっとあっち座って〜」
突然、亜衣が私の肩を軽く押しながら言ってきた。指差す先には、さっき来たばかりの“ラーメン屋”――あの、たぬき顔の泥酔モチモチ男。
「え?私、店員じゃないけど…?」と心の中で小さく反発。だけど、亜衣のこういう時の押しの強さには勝てない。
「お願いっ♡」なんて上目遣いされた日にはもう、はいはい、行きますよ、ってなるのが常だ。
私はグラス片手にゆっくりと席を移動する。ほんの2メートルが、やたら遠く感じた。
酔っ払いの相手なんて面倒だし、何より今日は帰るつもりだったんだから。
「こんばんは…」と、とりあえず挨拶をすると、彼はニコッと笑った。
その笑顔が、妙にゆるくて、妙に安心感があって、
なんというか――ふにゃん、としてた。
「えりこちゃん、って言うんだって?かわいい名前だねぇ〜」
声も柔らかくて、語尾がちょっと抜けてる。まるで空気より軽い。
どこまでもポワポワしていて、変な男だけど、
なぜかすぐに「嫌な感じ」はしなかった。
私のその日の服装は、ラフなTシャツにショーパン。
服装を選ぶのは面倒くさいし、気合いなんてまったく入ってなかった。
なのに、ゆうちゃんはそんな私の足に――泥酔のまま、迷いなく手を伸ばしたのだ。
「わっ…ちょっと」
咄嗟に言葉が出たけど、怒るタイミングを一瞬見失った。
普通なら、そこで「何この人、最低」とか「触んじゃねーよ」ってなるはずなのに、
なぜかその時の私は――ほんの少し、くすぐったいような、くすぐられたような感覚で、
(…え、なんで?なんで私に?)って、妙な戸惑いと、
ほんの少しの嬉しさがあった。
だって、隣には亜衣がいるのだ。
完璧な美人で、男なんて自動的に釘付けになるような存在。
なのに、その男――モチモチたぬきフェイスの酔っ払いは、
まっすぐ私にロックオンしてきた。
あの時の私は、男を信用してなかったし、
優しくされるとすぐ裏を探すような、擦れた心でいっぱいだったのに。
それでも、触れ方と目線は、
「この人、私を見てる?」っていう、小さな自尊心をくすぐった。
「ゆうちゃん、酔いすぎぃ〜!」
亜衣が半ば呆れたように言ったその瞬間、
私は正直ホッとした。
だってあの足タッチ事件、普通に考えればアウトじゃん?
でも亜衣がそれを咎めるでもなく、冗談めかして受け流したことで、
なんとなくその場の空気もやわらいだ気がした。
しかし、ゆうちゃんの返事は予想をはるかに超えていた。
「……え?あれ?誰だっけ?会ったことある?」
ふにゃっとした笑顔で、
目の前の“あの亜衣”に、まさかの“初対面”反応。
私は一瞬、耳を疑った。
(……え?今なんて?)
私の頭の中に、過去の飲み会や街コン、紹介された男たちがズラッと蘇る。
誰もが第一声で言うのは「あの子、モデル?」「めっちゃ美人」
その度に私は脇役だったし、いてもいなくてもいい存在だった。
それが、いま。
この泥酔たぬき男は、
あの絶世の美女を――「誰?」で流した。
え、なにそれ?
そんな人類、存在した?
……すごく、すごく、興味が湧いた。
自分の足に触ってきたくせに、何の悪びれもないし、
美人を前にしても、ピクリとも動じない。
それでいて、ふにゃふにゃしてて、なんだか憎めない。
私の中の「警戒心」や「どうせまた」みたいな拗らせフィルターが、
この人にはあんまり効かない。
ちょっと気を抜いたら、笑ってしまいそうだった。
私はふとタバコが吸いたくなって、バッグからタバコのケースを取り出した。
「吸ってもいい?」と軽く聞くと、ゆうちゃんはポワポワ顔でにっこり。
「ぜんぜんいいよぉ~。てか、吸うんだぁ!?カッコイイー!」
となりでふにゃっと笑いながら、嬉しそうに言ってくる。
お世辞とかじゃない、たぶん本当に思ったままをそのまま口に出してるだけ。
私が火を点けて煙を吸い込むと、ゆうちゃんは真横で目をキラキラさせて私を見ていた。
「タバコってさ、なんか大人って感じするよね~。えりこちゃん、似合うわぁ〜」
そう言いながら、彼は自分のグラスをふにゃっと持ち上げて、ごくり。
こんなにまっすぐに褒められるなんて…ちょっと照れる。
でも、悪い気はしなかった。
すると今度は、私の足に目がいったらしく――
「あっ!それって、タトゥー? すげぇぇ!えりこちゃん、足に入ってんの??」
またもテンション高く驚いている。
指を指しそうになって、慌てて自分で止めてるあたりが妙にかわいい。
「うん、足。めっちゃ痛かったよ」
そう言うと、ゆうちゃんは目をまんまるにして、
「えええぇえ〜!?そりゃ痛いよぉお…ひえぇ、無理ぃ僕…えりこちゃん、強すぎなぃい??」
と、まるで戦隊ヒーローでも見てるような目でこっちを見てくる。
いや、何それ。
笑うしかないじゃん。
タバコを吸う私を“かっこいい”って言って、
タトゥーを見て“すげぇ”って褒めてくる。
普通の男だったら引くか、変な詮索をしてくるところなのに――
この人、ただただ純粋に、好奇心とリスペクトで反応してる。
ふにゃふにゃで、アホっぽくて、まっすぐで。
……なんか、いいな。そう思ってしまった。
ゆうちゃんは、ラーメン屋のくせに(失礼)
「実は前、居酒屋でも働いてたんだよ〜」なんて言い出した。
「へぇ、意外。居酒屋って、どんなことしてたの?」
「魚とか捌いてたよ〜。刺身とか盛ったり!」
「えっ!?魚捌けるの? それって、めっちゃすごくない?」
私がちょっとテンション上がってそう言うと、
「え、普通じゃない? サーモンとかもぜんぜん捌けるし〜」と、ふにゃっと笑ってた。
サーモン。
その言葉を聞いた瞬間、反射的に口が動いた。
「……じゃあ、私にサーモン捌いて?」
言ったあと、あっヤバ。って思った。
わりと図々しいこと言ったかも、って。
けど、ゆうちゃんはぜんぜん気にした様子もなく、
「いいよ〜!めっちゃ綺麗に捌いてあげる!」って満面の笑顔で言ってきた。
それが、ほんとに、なんていうか――
裏表がまったくない顔だった。
つくってる感じがない。
媚びてないし、見返りも求めてない。
ただ、喜んでくれたら嬉しいから、って顔。
あぁ、こんな人いるんだな、って思った。
今まで私が見てきた男たち。
何かをしたら、見返りを求める。
優しくされたら、そのあとに重たい期待がついてくる。
だけど、ゆうちゃんは――ただ笑ってた。
「捌いてあげるよ〜」って。
その言葉が、すごく自然で、嘘じゃないってわかった。
酔ってるくせに、
ポワポワしてるくせに、
こんなにも真っ直ぐな人、はじめてだった。
気づけば時間はもう、日付が変わりそうだった。
そろそろ行かなきゃ。
頭のどこかで、ずっとそう思ってた。
仕事だってあるし、
なんだかんだで疲れてるし、
なのに――
この時間が終わるのが、ちょっとだけ寂しい。
そんな私の気持ちを察したのか、
亜衣が急に声を上げた。
「えりこ、ゆうちゃんと連絡先交換しなよ〜!」
「えっ!?な、なに急に……」
焦ってる私をよそに、
ゆうちゃんは全然慌てることもなく、のんびりスマホを取り出して、
「LINEでいいのぉ?どうやって交換するの??」って、首をかしげていた。
なんだその反応。
あまりに素朴で、あまりに無防備で、
え、ほんとに今まで女性と連絡先交換したことないの?ってレベルのぎこちなさ。
でも、それが――
なんだか、すごく好感が持てた。
下心を隠そうとする素振りもない。
馴れた様子もない。
ただ「言われたからそうするね〜」みたいな、マイペースな感じ。
私はつい笑ってしまいながら、
スマホを出してQRコードを見せた。
「これ、読み取って。」
「お〜!すごい〜!できた〜!」
そんな風に喜ぶゆうちゃんに、ちょっとだけ、胸の奥があったかくなった。
そして、私は立ち上がる。
「じゃ、私そろそろ帰るね。」
ゆうちゃんは手を振ってくれて、
「気をつけてね〜」ってふにゃふにゃ言ってた。
カラオケ居酒屋を出た私は、
夜風に吹かれながら思ってた。
なんだったんだろ、あの時間。
なんか、変な人だったな。
でも……また会いたい、かも。
そんなふうに思ってしまったことに、
自分でも少し、驚いていた。
家に帰って、シャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。
なんだったんだろう、あのふにゃふにゃラーメン男。
気づいたらスマホを手に取ってて、
迷いながらも、勢いでLINEを打った。
「今日はありがとうございました。サーモン捌いてくださいね笑」
――送信。
うわ、私、何やってんの。
自分で送っておいて、ちょっと恥ずかしくなる。
そのままバタバタと仕事をこなして、気づけば朝。
布団に入った瞬間、眠りに落ちてしまった。
そして夕方――
LINEを開くと、返信が来ていた。
読む前から、なんかドキドキしてる私。
でも、その内容を見て……固まった。
「昨日は酔っていてほぼ記憶がありません。
申し訳ありません。連絡先交換していたのですね。これからよろしくお願いします。」
……は????
記憶、ないんかーーーい!!!
足に触れてきたのも、タトゥー見てはしゃいだのも、全部消えてるってこと!?
私のTシャツショーパン、無意味だったの!?(いや意味はあった。たぶん)
ちょっとだけ、いや、けっこう呆れた。
でも、返信の文面は礼儀正しくて、妙にかっちりしてて。
まるで別人。
やりとりを続けるうちに、
ふにゃふにゃじゃなくて、しっかり者の一面が垣間見えるようになった。
「今日もお仕事お疲れさまです。」
「朝早いので無理しないでくださいね。」
え、だれ??
あの夜、“タトゥーすご〜い!”ってはしゃいでた子どもみたいな人、どこいった?
でも……悪くないな、こういうギャップ。
“ふにゃふにゃ+誠実”という新種の男に、
私は少しずつ、興味を持たれ始めていた。
LINEでのやり取りは、続いていた。
でも、何度やっても……誘ってこない。
世間話は続く。仕事の話も、趣味の話も。
でも、決して「会おう」って言わない。
私、女としての価値がないのかな。
あの時のTシャツ&ショーパン、やっぱり記憶にないから無意味だったんだよな……。
モヤモヤが限界になって、
私は夜中に亜衣へ電話をかけた。
「ねぇ……あの人、やっぱ私に興味ないのかな?」
開口一番、ため息まじりに相談する私に、
亜衣は一瞬沈黙してから、あっけらかんと答えた。
「え?……あー、それね、聞いたことあるけど……あの人、恋愛経験ゼロなんだって!」
「……は?」
「だからね、誘い方とか、そういうの全然わかんないの!えりこが押さなきゃ無理!!もうグイグイいっちゃいなよ!!」
まさかの情報に、思わず絶句。
あの年齢で? あの人当たりの良さで?
嘘でしょ……。
でも、腑に落ちた。
LINEの妙なぎこちなさも、変な真面目さも、全部つながった。
「……そっか。じゃあ、押して……みるか」
私は震える指でLINEを打った。
「二人で飲みに行きませんか?」
送ったあと、スマホを放り投げた。怖すぎる。
5分後、通知が鳴った。
『飲みに行きましょう』
……え??いいの??
ちょっと信じられなかった。
でも、ほんの少し、嬉しいと思ってしまった自分がいた。
けどその反面、
「……でもまぁ、最悪、利用すればいいし」
という、いつもの自分の声も、心の中に残っていた。
私には、他にも“キープ”がいた。
ご飯に連れて行ってくれる人、欲しい物を買ってくれる人、ドライブ要員、体だけの関係の人――
ゆうちゃんが増えても、別に不自然じゃない。
その時の私は、まだ、
恋なんてしないと思ってた。
誰かに“本気”になることなんて、絶対にないって――そう、思ってたの。
そして、京成船橋駅で待ち合わせをした。
遠くから手を振って現れたゆうちゃんは――
白いTシャツに、ピザの絵がドーンと描かれていた。
「いや、それデートで着てくるぅ?!」
って心の中でツッコんだけど、なぜかそれが逆に好感だった。
力入りすぎてない、むしろ“らしい”って感じで。
私が笑いをこらえてるのに気づいてないゆうちゃんは、
「おつかれさまですぅ~。今日は、ありがとうございますぅ〜」ってふにゃふにゃした声で言ってきた。
私「全然、こちらこそ」
ゆうちゃん「えっと……博多料理のお店、予約してあるんですぅ」
少しだけ緊張してるような、でも自然体で話してくれるその感じが、なんか嬉しかった。
歩きながらお店に向かう道中――
私はつい、クセでゆうちゃんの手を握ろうとしたの。
男の人って、大体それで喜ぶから。
何も考えずに反射的に出た行動だった。
でも。
ゆうちゃんは、ピタッと動きを止めて、目を丸くした。
「え!?ぼ、僕たち……付き合ってないのに、そんな、お手手とかぁ……!」
顔を真っ赤にして、テンパりながらブンブン手を振るゆうちゃん。
私は思わず笑ってしまった。
だって、こんなリアクションする人、今まで出会ったことなかった。
純粋すぎて、素直すぎて、
「何それ、守りたくなるんだけど」
って気持ちになった。
そしてそのまま、お店へと入った――。
向かったのは、ゆうちゃんが「男友達とよく行く」って言ってた居酒屋。
店内はわいわい賑やかで、結構なスペースがあり、活気があって美味しそうな香りが漂ってる。
席に着くと、ゆうちゃんはすぐにメニューを手に取って、
「僕、ここの鉄板餃子!好きなんですよぉ〜!これもおすすめですぅ!あと、これ絶対頼んでくださいぃ」
と、ひたすら優しい語尾でゴリ押ししてくる。
え、ちょっと待って、可愛すぎない??
私の口角が自然に上がってた。
乾杯は、ゆうちゃんがビール、私はパインサワー。
「女子っぽいの飲みますねぇええ」
「だって甘いのが好きなんだもん」
テーブルにはどんどん料理が運ばれてくる。
明太子の卵焼きに、手羽先の唐揚げ、博多名物のもつ鍋……。
味は本当に美味しくて、ゆうちゃんの言う通りの“当たり店”。
ゆうちゃんの「これ、うまっ!」っていう無邪気なリアクションに、
つられて私も「うまっ!」って返してた。
そして話題は自然と、アニメの話に。
「僕、○○好きなんですぅ〜」
「あ、それ観た!○○がヤバくなかった?」
「そうなんですよぉ〜あそこマジ泣きましたぁ……!」
笑って、共感して、また笑って。
時間が経つのが、本当にあっという間だった。
気づけば、私は完全に“利用”だとか“キープ”だとか、そういう思考から離れていた。
なんだろう、ただ「また会いたい」って。
そう、純粋に思っていた。
美味しい料理を楽しんだ後、ゆうちゃんが「このまま帰るのも寂しいですねぇ」なんて言いながら、カラオケに誘ってくれた。
(そこは誘えるんかい!)と思いつつ、もちろん私はうなずいた。
カラオケの個室に入ると、ゆうちゃんはすっかり酔っていた。
ソファにふにゃっと座り込んで、マイクも取らずにひたすら喋るモード。
「僕……女性とこんなふうにデートしたの、初めてなんですよぉ」
「しかも、こんなに話が弾んで……すごく楽しくて……」
「でも、僕なんかが……なんかもう、嬉しくて……」
突然、話してた声が震えてきたと思ったら――
「……うっ、うぅっ……」
え、泣いてる。
まさかの正座で、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
顔を真っ赤にして、涙ぐみながら、続けてくる。
「僕……自分に自信がないんです。自分が好きになれなくて……こんな僕と一緒にいてくれて……楽しいって思ってもらえたのが……なんかもう、すごく嬉しくて……」
おいおい、なんだこの展開は。
コントか?って思ったけど、目の前のゆうちゃんは本気で泣いていた。
酔ってるからってのもあるんだろうけど、それ以上に、きっと彼の中の大きな何かが溢れたんだろうなって、感じた。
そして私は不意に思った。
「この人、私と一緒だ」
自分に自信がなくて、愛される価値があるなんて思ってなくて、
だからこそ、誰かの優しさがまっすぐ刺さって、どうしたらいいか分からなくなる。
今までの私は、誰かを利用して、都合よく関係を保ってきた。
本気になることが怖かった。
でも今この瞬間、泣いてるこの人を前にして、私は自分の心が変わっていくのを感じた。
何も言わずに、私はそっとゆうちゃんの頬に触れた。
そして、ふいにキスをした。
言葉じゃなかった。
ただ、あたたかいものを、あたたかいまま渡したかった。
自信のなさと、嬉しさと、全部が重なったそのキスは、
騙し合いや打算じゃない、私にとって――はじめての「まっすぐ」だった。
キスをされたゆうちゃんは、びっくりしたように目を丸くしていた。
一瞬、何が起きたのか分からないという顔で私を見つめて、
でもその表情はすぐに崩れて、まるで子どもみたいに照れたように笑った。
泣き笑いって、こういう顔のことを言うんだなって思った。
「えへへ……なんか、夢みたいだ……」
そんなふうに呟く彼を見て、私も思わず笑ってしまった。
でも、その時間も長くはなかった。
時計を見れば、終電の時間がすぐそこに迫っていた。
「やば……もう行かなきゃ」
私は立ち上がりながら、名残惜しさに振り返った。
すると、ゆうちゃんも慌てて「そうだよね!」と立ち上がってくれて、
なぜか肩にかけてたバッグを床に落として「うわぁ!」なんてドジをしてた。
ドタバタと荷物を拾いながら、「送る送る!駅、駅!」と慌てる姿が、
なんだかもう、愛しかった。
酔ってふにゃふにゃなまま、でも私を気遣ってくれるその不器用な優しさ。
カラオケを出て、駅までの道。
ふたりとも無言になって、でもその沈黙が嫌じゃなかった。
ホームに着いて、電車が入ってくるアナウンスが鳴り響く。
乗り込む直前、私はもう一度だけゆうちゃんの顔を見た。
「あのさ……今日はありがとう」
そう言うと、ゆうちゃんはいつものふにゃふにゃした笑顔で、
「こっちこそ……ありがとう、えりこちゃん」
電車の扉が閉まる瞬間、彼が小さく手を振ってくれて、
私はそれを見ながら――心の中で、確信してた。
この人だ。
不安もあった。
まだ何も知らないこの人に、自分の裏の顔を見せたら、きっと嫌われるかもしれない。
でもそれでも、あたたかい。
この人となら、ちゃんと恋ができるかもしれない。
そんな夜だった。
電車の中。窓の外を流れていく街の明かりをぼんやりと見ながら、
私は胸の奥で、あたたかい何かがじんわり広がっていくのを感じていた。
ゆうちゃんだけでいい。
その気持ちが、ただただ、自然に心に降りてきた。
私はスマホを取り出した。
登録された男性たちの名前。
ご飯に連れて行ってくれる人、物を買ってくれる人、ドライブだけの人、体だけの人。
今まで「使い分けること」が強さだと思ってた。
「どうせ誰も本気になんてならない」って、自分に言い聞かせてた。
でも、ゆうちゃんといると――そんな鎧は必要ないんだって、初めて思った。
震える指で、それぞれに短くメッセージを打つ。
「ありがとう。でも、もう会うことはできません」
「お世話になりました。元気でいてね」
そして、ブロック。
それがとても、静かで穏やかな作業に感じた。
心がすうっと軽くなっていくのを感じながら、私は最後にスマホの画面を閉じた。
心の中で、ひとつ呟く。
この、ひだまりみたいなきもち。
ゆうちゃんだけで、いいんだ。
冷たい風が頬をかすめる夜。
でも、心はずっとあたたかかった。
それから、ゆうちゃんとのLINEのやりとりは、どんどん増えていった。
最初は私から送ることが多かったけど、
最近は、朝起きたらゆうちゃんからのメッセージが届いてる。
夜遅くなっても、「今日も一日おつかれさま」って、やさしい一言がある。
それだけで、心がふっと軽くなる。
誰かにちゃんと気にかけてもらってる、って思えるだけで、こんなに救われるんだって知った。
ある日、いつものようにLINEを開くと、ふわっとした一文が届いていた。
「回転寿司行きませんか?」
唐突で、だけど、なんともゆうちゃんらしい誘い方。
私は即座に「行きたい!」と返信した。
そして当日。
また白Tにピザ柄のちょっと笑っちゃうシャツで、ゆうちゃんは車で迎えに来てくれた。
ドアを開けて、助手席に乗り込むと、ふわっとした優しい空気が流れ込んできた。
運転中のゆうちゃんは、あいかわらずふにゃふにゃ喋るし、
でも私のことを気にかけて、道に段差があるたびに「ごめんね、大丈夫?」なんて言ってくる。
そのやりとりが、なんだかとっても心地よかった。
お寿司屋さんに着くと、「ここのネタ、これうまいんだよ〜」って目を輝かせて説明してくれるゆうちゃん。
あれこれ勧めてくれて、私はそれを素直に「食べたい!」って言えた。
変に遠慮したり、見栄を張ったりしなくていい。
ただ、目の前の寿司を一緒に楽しんで、笑っていられる。
こんなに自然に笑える時間って、いつぶりだろう。
「疑うこと」や「駆け引き」が、いつも恋愛にはついて回ってた。
だけど今は、そんなもの、どこにもなかった。
私はただ、嬉しくて、楽しくて、
なんだか胸の奥がじんわりあたたかくなる感覚に包まれていた。
ゆうちゃんの隣にいると、
着飾らないままの自分でいられて、
何も計算しなくてよくて、
ただ、目の前の時間が愛おしいと思えた。
それが、すごく幸せだった。
お寿司を食べ終わって、時計を見たけれど、帰りたくなかった。
もっと一緒にいたい。
もっと、この空気を味わっていたい。
もっと、この人を知りたい。
だから、思いきって言っちゃったの。
「ねぇ、ゆうちゃんの家で…アニメでも見る?」
自分でも少し驚くくらい、あっさり口から出てしまったその言葉。
だって、ふたりきりの部屋に行くって、普通に考えたら、そういう雰囲気になってもおかしくない。
今までの経験なら、そこからどうなるかなんて、わかってるはずだった。
でもね。
ゆうちゃんは、何の迷いもなく、
まるでピュアな少年みたいに、にっこりと笑って言ったの。
「もちろん!見ようよ!」
その笑顔には、いやらしさも、期待も、下心もなかった。
ただ、アニメを楽しみにしてる子どものような無邪気な顔だった。
それが、また胸を打った。
“この人、本当にそのまんまなんだ”って。
見透かそうとしても、裏がない。
どこまでもまっすぐで、温かくて、ちょっと不器用で。
私は助手席でこっそり息を吐いた。
なんかもう、全部どうでもよくなるくらい、ゆうちゃんのそういうところが、たまらなく愛しかった。
そして、車は静かに走り出し、
夜風にふかれながら、
私たちはゆうちゃんの家へと向かった。
ゆうちゃんの家に入ったとたん、私は少しだけ緊張した。
初めての部屋。
ふたりきりの空間。
いつもと同じ空気のはずなのに、
どこか違って感じて、胸がドキドキしていた。
でも――
ゆうちゃんは、相変わらずだった。
ソファに座ってアニメの準備をしながら、
「これ、面白いよ~!」なんて嬉しそうに笑って、
まったく下心のかけらも見せない。
その無防備さに、私はまた心を打たれてしまった。
“こんな人、今まで出会ったことない”
そう思ったら、急にたまらなくなってしまって。
私は、ゆうちゃんの体にそっと抱きついてしまった。
ぬくもりが伝わってくる。
その体温が、優しさでできてるみたいで、胸がぎゅっとなった。
一瞬、また言われるかな――
「僕たち、付き合ってないのに」って。
あのときみたいに。
でも、ゆうちゃんは驚いたように戸惑いながらも、
ちゃんと両腕で、私を抱きしめ返してくれた。
そして案の定、言ったの。
「ぼ、ぼぼ…僕たち……お、お付き合いしてないのにぃ……」
私は思わず笑ってしまった。
だって、その言い方も、照れてる表情も、全部が愛しかったから。
だから――私は、決めた。
そっと顔を上げて、ゆうちゃんの目を見て、言ったの。
「じゃあ、付き合ってくれますか?」
ほんの一瞬、世界が止まったような気がした。
ゆうちゃんは目をまるくして、そして照れたように、はにかむように、
「うん」と小さく頷いてくれた。
「も、もぅ、ぼ、僕の彼女なんだよね…? うれしい…」
そう言いながら、もう一度、優しく、でもしっかりと私を抱きしめてくれた。
そのぬくもりは、今まで知っていたどんな抱擁よりもあたたかくて、
胸の奥がじんわりと満たされていった。
あぁ、私はもう、戻れない。
この人が好き。
心から、そう思った。
こうして、私とゆうちゃんの恋が、始まった。
焦らず、飾らず、ただまっすぐに。
こんなに自然に誰かを好きになれるなんて、
こんなに優しく、誰かの隣にいたいと思えるなんて――
あの頃の私には、想像もできなかった。
誰かを試すことも、疑うこともせずに、
ただ、大切にしたいと思えた。
ゆうちゃん。
あなたと出会えて、本当によかった。
好きになるって、こんなにも、優しいことだったんだね。
心がすれていた頃の私は、
「愛されること」にも「信じること」にも臆病だった。
男は利用するもの。欲しいものは自分で手に入れる。
そう決めて、誰にも本気にならずに生きてきた。
だけど、酔っ払って正座して泣いてた、あのたぬき男が。
白Tにピザを着て現れた、あの不器用な男が。
私の“黒い心”を、笑わせて、泣かせて、
すこしずつ、やさしく溶かしていった。
愛って、派手なことじゃなくて
ただ隣にいてくれること。
正直に、照れながらでも気持ちを伝えてくれること。
それだけで、もう十分だった。
あの日の私には想像もできなかったけど、
今ならはっきり言える。
真実の愛は、思ってたよりずっと不器用で、
思ってたよりずっと、あたたかい。
こんな話を、最後まで読んでくれてありがとう。
もしあなたが今、誰かとの出会いや愛に迷っていたとしても、
大丈夫。あなたの中にも、ちゃんと“愛される力”がある。
不器用でも、遠回りでも、
あたたかい出会いはきっと、待ってる。
あなたの人生に、ひだまりのような愛が訪れますように。
心から願っています。