たった一度のタイムリープ
放課後の教室は、陽射しの角度が変わって柔らかい光に包まれていた。
夏が近い。窓から入り込む風はどこか湿り気を帯びていて、けれどどこか心地良かった。
「……で、話ってなに?」
教室の後ろの隅、水島凛が窓際の机に腰かけて、佐藤涼をじっと見つめた。
見た目は11歳。けれど、その目の奥にある冷静さと落ち着きは、明らかに子どものものではない。
涼は一瞬、息を呑んだ。
やっぱり、この子もだ。
「水島さん、いや……凛、でいいかな?」
「うん、いいよ。こっちも『りょう』って呼んでいい?」
涼は少し笑った。
こういうやりとりが、懐かしい。小学生の頃って、名前で呼び合うのに少し緊張して、でもすぐ打ち解けていった。だけど、今の自分は――心はもう三十路。
もう一度やり直せるチャンスがあるのなら、今度こそ――。
「で、さっきの話って……」
凛の言葉に、涼はゆっくりと頷いた。
「……俺、タイムリープしてきたんだ。中身は30歳のまま、小学四年生の身体に戻ってきた」
数秒の静寂。外では誰かがボールを蹴る音がしていた。
凛はそれを聞き流すように、小さく笑った。
「……やっぱりね」
「え?」
「私も同じ。タイムリープしてきた。中身は26歳。高校を卒業して、地元の役所で働いてた」
「マジかよ……!」
涼は言葉にならない感情を押し殺すように天井を見上げた。
こんな確率、あるか? いや、むしろこうでもしないと、こんな孤独、やってられなかったのかもしれない。
「でも、どうして……?」
「わからない。目が覚めたらこっちにいた。事故に遭ったとか、そういうわけでもない。ただ――これは一度きりって感覚だけは、ずっと頭から離れなかった」
「……一度きり」
その言葉は、涼の胸にも刺さっていた。
これはワンチャンス。人生のやり直しなんて、何度もあるもんじゃない。
「今度こそ、ちゃんとした人生にしたいって思った」
凛の言葉に、涼はまた頷く。
自分の30年は、平凡だった。悪くはなかった。けど――良くもなかった。
中途半端な大学を出て、中途半端な仕事に就き、恋愛にも縁がなく、趣味に全力投球した結果、気づけば貯金もなく、気力もなく、ただ生きてるだけの日々だった。
「……なんか、さ」
凛がぽつりと呟いた。
「私たち、似てるかも」
涼はその言葉に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「同じこと思ってた」
彼女は微笑んだ。年齢にそぐわない、どこか達観した笑顔。
11歳の彼女の体に宿った26歳の魂が、微かな寂しさを滲ませていた。
「ねえ、りょう。何がしたいの? これから」
「うーん……」
即答できなかった。
本当は、あれこれ考えていた。中学受験に挑戦しようとか、将来に役立つ習い事を始めようとか。けど、どれもピンと来ない。
「正直、まだよくわかんない。でも……やり直したいって気持ちはある。今度こそ、後悔しない生き方をしたいって、すごく思ってる」
「そうだね」
凛は小さく頷いた。
「私は……もっと自分に素直になりたいな。前の人生では、いい子でいなきゃって、ずっと我慢してた。親も厳しかったし、周りの期待に応えようとしすぎて、気づいたら、自分の気持ちを置き去りにしてた」
「それ、なんかわかる気がする」
「でしょ?」
小学生の体に収まったふたりの大人が、放課後の教室でこんなに真剣に将来を語っているなんて、誰が想像できるだろう。
けれど、それは確かに現実で――。
「ねえ、りょう。これから、どうする?」
「とりあえず……信頼できる仲間を探す。あと、勉強もちゃんとやる。親がスマホ買ってくれないから、ネットでの情報収集も限界あるし」
「うちは持たされてるけど、さすがに親の目もあるしね。メッセージアプリとかは制限かかってるし」
「くっそ、現代っ子め……」
「ふふ、悔しい?」
「めっちゃ悔しい。マジで、過去に戻ってもスマホは自由にならないっていう現実、ツラすぎる」
笑い合った。
どこかぎこちなくて、それでも温かい。
涼はふと思った。
この子となら、もう一度やり直せるかもしれない。そんな気がする。
「さ、帰ろうか」
「うん。また、話そうね。秘密の話」
「……おう、タイムリープ同盟な」
「だっさ」
「そこは乗れよ!」
凛が笑って、涼も笑った。
教室の外には、まだ明るい夕方の光があった。
再スタートの人生が、今、ゆっくりと動き始めていた。