11歳再起動
教室の窓から春の光が差し込んでいる。黒板のチョークの音、となりの席の男子の鼻をすする音、どれもが妙に懐かしく、そして新しい。
「……これが、小学四年生ってやつか」
俺――佐藤涼、11歳(表向き)。ただし中身は30歳、社会人歴8年、アニメ・ゲームをこよなく愛し、気がつけば独身のまま、給料の大半をフィギュアとソシャゲに費やした男。夢の中でブラックホールに吸い込まれ、気づいたら小学生時代の自分に戻っていた。
ただし、これは一回限りのチャンスだ。いわば『わんチャンリープ』。セーブもロードもない。もう一度、人生というゲームをやり直すのなら、今回はちゃんと攻略法を考えてやる。
「佐藤くんってさ、なんか優しいよね」
そう言ってきたのは、水島凛。俺と同じ11歳。黒髪のストレート、透き通るような瞳。大人びた口調だけど、話していると時々子供っぽさが顔を出す。妙に引き込まれる存在だった。
「そうか?普通だと思うけど」
「ううん、なんかね……前より話しやすいし、楽しい」
前より――か。
つまり、この世界にも元の俺がいた。おとなしくて、目立たなくて、女子とまともに話すことすらできなかった少年。でも、今の俺は違う。30歳の経験値は伊達じゃない。無理はせず、でも子供として浮かない程度に気配りや距離感を操作する。クラスメートとの関係も良好だ。女の子からは「やさしい」と言われ、男子からは「まあまあ面白いやつ」と思われている。
だけど――。
(このままでいいのか?)
心の奥で、ふとそんな疑問が浮かぶ。
11歳の身体で、30歳の意識。これは確かにチートだ。でも、だからこそ怖い。知識を使って簡単に勝ててしまうことに、どこかで罪悪感のようなものを感じていた。
「……佐藤くん、今日さ、帰りに公園寄らない?」
水島凛が言う。小さな声で、でも確かに俺だけに向けられた誘いだった。
「いいよ。最近あったかいし、外でのんびりするのも悪くない」
にっこりと笑うと、凛も少しだけ口元をゆるめた。
ーーーー
放課後、俺たちは公園のベンチに座っていた。凛は膝を抱えながら空を見上げている。
「ねえ、涼くんは……今、楽しい?」
その問いに、俺は少しだけ戸惑った。
「うーん、どうだろう。……正直、楽しいだけじゃないかも」
「うん。そんな気がした」
どうしてわかるんだよ。心の奥を覗かれてるみたいな感覚に、少しだけ息が詰まる。
「涼くんってさ……なんか、すごく大人っぽい。前は全然違ったのに、今はすっごく考えてる感じがする」
「そっか……それって、変?」
「ううん、むしろ素敵だと思う。でも……寂しそうにも見えるよ」
その言葉に、胸が詰まった。子供相手に、こんなに見透かされるとは。
(俺は……何を目指しているんだ?)
やり直しのチャンスに、まず考えたのは「勝ち組になること」だった。勉強して、投資して、効率よくスキルを身につけ、理想の人生を歩む。そうすれば、孤独だったあの30歳の俺を超えられると。
でも、それって本当に「幸せ」なのか?
「あのさ、凛」
「ん?」
「もし、人生をやり直せるなら……何をしたい?」
しばらく沈黙の後、凛は小さくつぶやいた。
「……うーん、難しいけど……逃げないことかな」
「……それだけ?」
「うん、それだけでいい。だって、それが一番難しいことでしょ?」
俺は言葉を失った。凛の言葉は、30年生きた俺の胸に深く刺さった。
(俺は……一体何を見ていたんだ?)
物質的な豊かさ、社会的な成功、それらを手に入れたって、結局ひとりだったら。
でも、今なら……。
「涼くんは?」
「……俺は、もう一度誰かとちゃんと向き合いたい。多分、それが今の俺にとって一番大切なことだと思う」
凛がゆっくりと頷いた。
ーーーー
その夜、俺はノートを広げて「これからの人生計画」を見直していた。経済的成功や進学戦略だけじゃなく、人との関わりも含めた「本当の幸せ」について書き始める。
(もう独りにはならない。そう決めたんだ)
この世界で、もう一度築いていくんだ。友人関係、家族との関係、そして……水島凛という存在との距離も。
未来は未確定だ。俺の知識も、いつか役に立たなくなるだろう。それでも、今ここにある「心」と「つながり」だけは、大人の知恵なんかじゃ作れない。
俺はただの子供じゃない。でも、もう一度子供として生きるからこそ、見える景色がある。
そう信じて、俺は鉛筆を握った。