リピート・ワン
五月の朝、まだ少し肌寒い風が校舎の隙間を通り抜ける。十一歳の佐藤涼は、自分の手を見つめていた。細い。白い。子どもらしく、柔らかそうな肌。何度も確かめた。鏡で顔も見た。まぎれもなく、自分の小学生時代の姿だった。
でも——中身は違う。三十歳。人生三十年の記憶を持ったまま、たった一度きりのタイムリープをした。いや、させられた。夢の中でブラックホールに吸い込まれ、目を覚ましたらこの体だった。
「まじかよ……冗談だろ、これ……」
登校途中、人気のない路地で思わずつぶやく。声も幼い。あの時と同じ。でも、景色が違う。
学校もクラスメートも、微妙に記憶と違っていた。何人か見覚えがあるようで、どこか違う。まるでパラレルワールドに来たかのようだった。家族構成は記憶通り。両親も妹もそのまま。安心材料はそれくらいだった。
(なんでだ……なんでタイムリープしたのに、記憶と違うんだ……?)
ふと、脳裏をよぎる考えに背筋が冷たくなる。
(これは、過去のやり直しじゃなくて……別の未来を選ぶための分岐点ってことか?)
そう思った瞬間、胸の奥にズシンと重たい塊が落ちた。
もう一度やり直せるわけじゃない。リセットもセーブもない。この人生が、ラストチャンスだ。たった一度の、選び直し。
ーーーー
教室に入ると、空気の匂いすら懐かしく感じた。チョークの粉。床のワックス。窓の外から聞こえるカラスの鳴き声。
懐かしさと同時に、違和感がじわじわとにじむ。
「おはよー、涼くん!」
高めの声が背後から響く。振り返ると、そこに立っていたのは——
水島凛だった。
ぱっと見ただけで分かった。記憶にないはずの少女なのに、その立ち振る舞い、声のトーン、目の奥にある落ち着きが、妙に印象的だった。何より——
「……可愛い」
つい、心の中で呟いてしまった。表情に出さないように必死で隠す。なにせ、今の涼の見た目は十一歳なのだから。
「どうしたの? ぼーっとして」
凛が小首をかしげて、じっとこちらを見つめてくる。
その目に吸い込まれそうになる。無意識に一歩引いた。
「いや……うん、なんでもない」
大人の自分だったら、こんな距離感を平然と保てただろうか。小学生の頃なら、もっと無邪気に関われただろう。でも今は——そのどちらでもない。三十歳の自意識が、邪魔をする。
(これはやばいな……俺、どういう距離感で生きていけばいいんだ?)
ーーーー
授業中も頭の中はぐるぐるしていた。これから先、何を目指して生きていくべきか。アニメとゲームに夢中だった三十年間。楽しかった。でも、正直に言えば——虚しかった。
貯金ゼロ。彼女なし。友人は趣味仲間だけ。親も、もう歳を取っている。自分の未来に希望という名の灯火はほとんどなかった。
けれど、今は違う。
やり直せる。選び直せる。努力すれば、まったく別の未来が開ける。
「……それって、怖いな」
また無意識に、口から言葉が漏れた。
隣の席の凛が、くすっと笑った。
「なにが怖いの?」
「……人生?」
真顔で返すと、凛は少し驚いたような顔をした。
「涼くん、変わったね」
「え?」
「前はもっと、ぼーっとしてて、おとなしくて……あんまり喋らなかったのに」
ドキッとした。やはり、この世界の佐藤涼とは中身が違うのだ。
(……うまく演じなきゃ)
そう思っていた矢先、凛が続けた。
「でも、今の涼くんの方が、好きかも」
——心臓が跳ねた。
小学生の恋とか、そういうのじゃない。でも、この言葉は……心に響いた。三十年間、誰にも「好き」と言われたことのない人生だった。軽く言ったのかもしれない。でも、それでも。
(ああ……俺、やり直したい)
心の奥から、そう思った。
ーーーー
放課後、家に帰る道すがら。空はまだ明るくて、ツバメが電線に並んで止まっていた。
歩きながら、心の中で問いかける。
(なにがしたい? どう生きたい?)
夢だった。アニメ制作に関わること。声優、絵コンテ、演出、脚本——どれも無理だと思って諦めた。でも、本当はやってみたかった。
(もし、小学生から本気で目指してたら、今ごろ違う自分がいたかもしれない)
もう一度、挑戦してみよう。無理でもいい。やらなきゃ、ずっと後悔する。
(でも……)
凛のことが頭に浮かぶ。クラスの中で、なぜか彼女だけが特別に思える。目が離せない大人びた仕草と、年相応の無邪気さのバランスが絶妙で……なんというか、一緒に時間を過ごしたいと思わせる存在だった。
(これって恋か? いやいや、俺は三十歳だぞ?)
頭の中ではそう否定する。でも、胸の奥では別の声がする。
(年齢じゃない。心だ。いま俺が生きているこの時間に、嘘はない)
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その夜、ノートを広げて未来の設計図を書いた。
1.アニメ業界の職種リストを作る
2.必要なスキルを洗い出す
3.中学でどの部活に入るか考える
4.高校受験を意識して勉強計画を立てる
5.凛との距離感を保ちつつ、信頼関係を築く
「やれること、いっぱいあるな……」
ワクワクした。三十歳の時、未来を考えるだけで胃が痛くなっていた自分とは、まるで別人だ。
もしかして、これが「生きる」ってことなのか?
ふと、スマホがないことに気づく。あたりまえだ。まだこの時代にはスマホを持たせてもらえる年齢じゃない。
(でも……これも悪くないかもな)
昔に戻ったのではない。未来を取り戻すために、新しい現在を生きているんだ。
ーーーー
数日後。
クラスで班活動が始まり、偶然——いや、運命のように、凛と同じ班になった。
「一緒だね」
凛が微笑む。その笑顔が、すこしだけ大人びて見える。
(彼女と、どんな未来を歩くんだろう)
そう思った。まだ分からない。でも、選べる。もう一度。
これは、俺の「リピート・ワン」——一度きりの再生だ。