朽木一花─くぎひとはな─
一花が死んだ。
朝一番で見世中に伝えられた其の報はあっと言う間に花街を走り、昼過ぎには廓中知らぬ者のいないネタになっていた。
無理も有るまい。一花花魁と言えば中見世の中では集客首位を張る花雅屋の看板女郎、此の国一等の花街である此処芦原でも珍しい桃桜族出身の花魁だ。禿時代から其の珍しさで注目を浴び続け、同年代と比べ一足も二足も早く新造に上げられると、一年も経たず散茶女郎の位を得、未だ十六の身空で格子の座まで登り詰めた人気者だった。
だった。だ。今や其の地位も無い。幾ら引っ張り凧の女郎でも、死んでしまえば意味等無い。死亡の報が此処まで広がれば既に過去の人だ。
呆気無い。
遺体を前に見世の女将は泣いていた。哀しくてではなく、悔しくて。言葉にせずともわかる。こんな事になるなら早々に売り払ってしまえば良かったと思っているのだ。何せ禿時代から注目されていただけではなく超の付く高値で身請けを打診されていた花雅屋の目玉商品だったのである。
別に、顔が美しかったとか飛びきり艶が有ったとか色気の有る身体だったとかそう言う訳じゃない。唯、珍しかったのだ。
否、敢えて言うならば笑った顔は其成に可愛かった。思えば歌も上手かった。甘い声が愛らしくて。一花を買う客は彼女に女より癒しを求める人間が多かった様に思う。
要は春の桜、夏の桃果。荒んだ心に一時の安らぎを。一花花魁は其の名の通り一輪の花の如き存在だったのだ。
「あの、色。本当に一花花魁でありんしょうか?」
「そうでありんしょう。わっちは桃桜族は死んだらああなると聞いた事がありんす。まるで化物でありんすが、一花花魁に罪はありんせん。花ならば、散って醜くなるは宿命」
一花の遺体を遠巻きに見下ろして、哀れみと恐れの入り混じった表情で二人の女郎が囁いた。
生前の一花は白桃の様に温かく白い肌に、桃か桜か薄紅色の髪、濃紅の瞳と唇で、爪まで愛らしい薄紅、更に頬まで色付けば薄紅と言う正に桃桜と言うべき外見をしていた。しかし今目の前に傷だらけで横たわる一花は髪も肌も爪も、何もかもが朽葉色をしている。其は丁度、散った桜を思わせた。
「流石、桃桜一花と唄われる一花花魁の死に様か」
まるで心を読んだかの様な呟きに、花雅屋の料理番見習の青年は、はっと振り返った。
「一松屋の若……」
「貴右、飛んだ災難だったな。見世の看板女郎を失っちゃあ、てんてこまいだろう」
一松屋は芦原随一の大見世で、其処の楼主である若旦那辰汰と言えば見目良し財良し頭良しと三拍子揃った一等の色男である。しかも最近大旦那から見世を継いだばかりで至極若い。
其の若旦那が一花に一等御執心で随分前から引き抜きを打診していた事を、貴右は良く知っている。十二分の金に加え禿と衣装付きの格子女郎二人付けようと言っていたのだから彼方さんも本気である。
「御気遣いどうも。まぁ、俺みてーな下っ端如きにゃ大した害もありゃしませんがね。上が変わった所で何が変わる訳も無し」
貴右は肩をすくめた。女郎一人死んだ所で此処芦原に変化等訪れない。馴染みの女郎を失った客はまた別の女郎を探し、看板女郎を失った女将は別の女郎を育てる。其でこそ芦原だ。花魁一人いなくなった所で世界は変わらない。何一つも。
「上客が何人も他所の店に逃げちまってウチが潰れちまう様じゃ困りますがね、旦那様も女将もそんな馬鹿じゃありませんよ」
「成程な」
辰汰が頷いた。貴右は更に言い募る。
「そりゃ確に一花花魁はウチの看板女郎でしたがね、ウチの女郎は一花花魁だけじゃありませんよ。大見世と違って太夫こそおりませんが格子は一花の他にもおりますし、近々夜花も新造になりまさぁ」
夜花は一花付きの禿で、一花と同じく桃桜族の娘である。一花と違い人目を奪う美しい娘で、新造になる事を楽しみにしている客が山程いる。
貴右の言葉に辰汰はしかし首を振った。
「夜花じゃあ無理だ」
見世の有望株にけちを付けるかと眉を顰めた貴右を見て、辰汰が苦笑した。
「夜花だけじゃない。芦原の女郎全部集まったって、誰一人一花の代わりを務められる女はいない。誰も代わりにはなれない唯一無二の花だ」
辰汰はそっと一花の遺体を見つめた。
「早耳の上客が二人、一花が死んだから芦原通いを止めると言って来た」
「え……」
「元々はウチの上客だったんだがな。新造になった一花に入れ込んで其以来一花以外買わなくなった人等さ。まぁ、俺とは交流を続けてくれていたが、其ももう終いかも知れないと連絡を寄越したよ」
後何人かはそう言う御客がいるだろうな。と辰汰が苦く笑った。
「俺も一松屋の人間じゃなければ馬鹿みたいに一花を買っただろうからな。遠くで見ているだけでも良かったのに」
一花を見る辰汰の瞳には恋情が含まれていた。
「若……」
「笑わないでくれ、貴右。俺は此から飛びきりの馬鹿を犯すつもりなんだ」
辰汰はにっと笑って未だ涙に暮れている女将に近付いた。
「お糸姐さん」
「此は……一松屋の若。何か御用で?」
涙に濡れた顔を上げた女将は怪訝な顔をした。
「花魁一人身請けさせて頂きたいのです」
「えぇ?」
女将は益々怪訝な顔になった。只でさえ女郎が一人減ったと言うのに何を言い出すのだと。
「一花花魁を私に下さいませんか」
「は……?」
ぽかんとした女将は一花に目を向けた。色無く横たわる———死体に。
「ですが一花は、」
「ですから、遺体を」
辰汰は事も無気ににっこりと微笑んだ。
「一花の遺体と他の女郎に回せない様な遺品を買取りたいのです」
「本気で……?」
女将、否、其の場にいた全員が信じられないと言いた気な表情で辰汰を見つめた。何せ、死体である。対価を払ってまで貰いたがる気持がわからない。
「ええ。身請け金は……金五百両で如何ですか?」
「金……五百両……!?」
ざわり、と辺りがざわめいた。最盛期の人気太夫を身請けするにしたって金二百五十両掛るかどうか。太夫より格下の格子の、しかも死体に金五百両とは、最早気違いである。
「冗談を……」
涙なんて吹っ飛んでしまった女将が有り得ない物を見る顔をした。恐らく其は、其の場にいた者全員の総意であろう。
「足りませんか?ならば、」
「足りないなんて事ぁ、有りませんよ!!死んだ女郎に金五百両もふっ掛けるなんて、気違いも良い所……」
驚きの余りか女将が失言を口走ったが、其を気にする者はいなかった。一松屋の若は気が狂ったかと誰もが思っていたからだ。
「気違いと思って下さって構いませんよ。俺は何としても一花が欲しい。他に金千両出すと言う者がいるなら、金千五百両出したって良い」
「まさか。死人に金千両なんて……」
「いてもおかしくない。其が一花であるなら」
辰汰は真剣に断言した。本気でそう思っている様だ。
「だから今来ているんですよ。他の誰かに奪われては堪りません。俺が誰より高く買いましょう。お金だけでは足りないならば、女郎も付けます。勿論、女郎の身の回りの者も物も引っくるめて」
「どうして其処まで……」
余りの事に静まりかえっていた為か、貴右が思わず呟いた言葉は思いの他大きく響いた。
「一花だからだ。貴右」
辰汰は左手で右手首を握り締めた。其処には繁盛する大見世の楼主には似つかわしくない様な安っぽい数珠が填っている。其が芦原に来たばかりだった頃の幼い一花が、手慰みに作って気まぐれに辰汰に渡した物だと知るのは、恐らく貴右だけだろう。
貴右には、辰汰が泣いている様に見えた。
「其が他の誰でもない、一花の身体だからだ、貴右。爪の先、髪の一房、着古した着物、壊れた簪であろうと、其が一花のものならば側に置くだけで俺は幸せになれる。火葬後の灰すら、一花だと思えば愛しい。皮肉な話だろう?何十人と女郎を抱えながら、寄りにも寄って他の見世の女郎に惚れちまうなんざさ」
挙句死なれちゃ堪らない。溜め息の様に辰汰が呟く間に、女将は損得勘定を終えたらしい。
「承りまして。一花の身請け話、楼主に通しましょ。受けるか受けないかは楼主が判断するでしょう。対価についても、楼主と交渉なさいませ」
先刻まで悲嘆に暮れていた事が嘘の様に、女将は晴々と言った。
「ただし交渉が済んでから、やはり払えぬ辞めるは暮々も御止め下さいましよ」
花雅屋の女将はがめつい守銭奴だが、花雅屋の楼主は人格者で評判だ。人売りもうっかり憐情持ってしまった娘はまず大見世か花雅屋に連れて来る。花雅屋ならば無体な扱いはされない、だから安心して娘を委せられるのだ。噂に助けられて客層も大見世ばりの常識者ばかりだ。楼主ならば、辰汰の気持も酌みながら一花の人間性も汚さない沙汰を導くだろう。
行き先を案じていた人々が、ほっとした様な顔になった。何だかんだ言っても、一花は人好きされる女郎だったのだ。売れっ子は妬まれ嫌われるのが常にもかかわらず、一花なら仕方無いかと売れてもさして妬まれなかった処か、寧ろ自分の客に一花を売り込む女郎までいた始末だ。一花の形見分けについても、随分揉めるだろうと思われている。何せ見世のほぼ全員が、何かしら一花の忘れ形見が欲しいと申し出たのだ。
五百両払ってでも死体が欲しいと言う辰汰の気持も、わからなくはないなと貴右は苦笑した。確に、どんなに辛い時であろうと、一花がいる、と言うだけで幸せに思えてしまっていた。故郷を懐かしみ、我が身を嘆いて泣く娘も、一花が微笑みをくれるだけであっと言う間に慰められていた。
やはり一花は花なのだ。人を癒し、幸せを授ける花。
何故死んだのだ。今更ながら貴右は一花の死を憂いた。
つたないお話をお読み頂きありがとうございました




