平成元年
私の目の前に、小さな壺がある。この壺はもともと、亡くなった祖父が持っていたものだ。
「祖父が亡くなった」という報せを受けたのはつい先日のことだ。
コロナがまた感染拡大している、リモートワークの再開だ、とバタバタしていたところにいきなり飛び込んできた訃報だ。慌てて休暇をとった私は土産の一つも持たず、夜逃げでもするかのように最低限の荷物だけで地元へ戻ってきた。
しかし上京していた私に近所の人間の眼差しは冷たく、「何もこんな時期に戻ってこなくても」と言いたげな目に晒されてろくに葬式の手伝いもさせてもらえなかった。そうでなくとも、考えてみれば祖父とはここ数年ほど顔も合わせていなかった。慌てふためいた母親の呼び出しにつられて帰ってきたはいいものの、予想していたような動揺も悲しみも全く沸き上がってこない。ただお祭りのように騒がしい葬儀の流れの中で、私は弔問客の目に気を揉みながら呆然と突っ立っているしかできなかった。
結局、気まずさと面倒さから逃げるように東京へ帰ることにしたが、その間際に母が「きっとおじいちゃんの大切なものだから」と私にあるものを押しつけてきた。
母に手渡されたそれは、焦げ茶色の小さな壺だった。大きさは十五センチほどだろう。上部に帽子のような蓋がつけられているが、セロハンテープで固定されているため簡単には開かないようになっている。持ち上げるとずしりと重いが、中に何が入っているのかは見当もつかない。いかめしい年代物のように見えるが、骨董品の類いであれば無造作にセロハンテープをべたべたと貼ったりはしないだろう。詰まるところ、一体何の壺なのか全くわからない。母はこの壺を私の写真と一緒にしまってあったからきっと私に関わるものだ、と判断したと言っていたが、私には全く心当たりがない。おかげで私は早くも、この壺をどうするか持て余していた。
物言わぬ壺を前に、記憶の中にある祖父の姿を思い返す。よく話しよく笑う祖母と違い、祖父は寡黙な人だった。話しかけても「ああ」とか「うん」とか曖昧な返事しかせず、いつも何を考えているのかわからないような顔をしている。祖母はこんな男性のどこが良くて結婚したのだろう、と疑問に思うこともあったが、意外にも近所では評判の良いおしどり夫婦であったという。事実、祖母が亡くなってからの祖父は生気をなくし一気に衰弱したそうだ。亡くなる直前には痴呆と見られる症状もあったらしいが、進学を機に地元を離れてしまった私はその辺りのことを詳しく知らない。そのため私の中にある祖父の印象は、最後まで「よくわからない人」というもののままだった。
改めて意識を、目の前の壺に戻す。壺というものはどうしてこう、怪しく胡散臭いイメージが付きまとうのだろう。笛を吹く蛇遣いとか、新興宗教の勧誘とかとセットになっているからだろうか。でなければ私が祖父のことをよく知らないので、必要以上に不気味な存在に思えてくるだけか。
とはいえ、持って帰ってしまった以上ずっとこのままにしておくわけにもいかないだろう。そのうち母から「あの壺はどうしたの?」と聞かれるだろうし、聞かれた時に「何が入ってるかわからないからずっとそのままにしている」などと答えたら開けるまでずっと口うるさく文句を言われるはずだ。私としても、いつまでもこの得体の知れない壺をそのままにしておきたくない。一応これは祖父の遺品なのだ、保管するにしても処分するにしても中身を確かめる必要がある。半ば言い聞かせるようにそう考えた私は、覚悟を決めて壺に手を伸ばす。
経年のため必要以上にべったりと貼りついたセロハンテープは、爪を引っかけてもなかなか剥がれなかった。根気強く、壺を床に落とさないよう気をつけながら私は一枚一枚セロハンテープを剥がしていった。全てを派がし終えると、テープの粘着力でべたべたになってしまった指をそのままに壺の蓋へと手をかける。一体ここから何が出てくるか、開けた後の私は平静でいられるか。その迷いを振り切るように私は壺の蓋を開け、その中を覗き込んだ。
私の目に飛び込んできたのは、大量の小銭だった。一円玉から五百円玉まで、金種は特に決まっていないらしい。大小さまざまな小銭たちが壺の中で、窮屈そうに身を寄せ合っている。なんということはない、つまりこの壺はただの貯金箱代わりだったのだ。先ほどまでの不安が馬鹿馬鹿しくなるほど平凡な中身に、私は思わず拍子抜けしてしまう。
この手の小銭は入れる時は良くても、取り出す時が面倒だ。特に最近では通帳に入れる手数料の方が高く結局、損をしてしまうこともある。一応、これも遺産として母や弁護士に申告するべきだろうか。そう考えながら私は、壺を軽く傾けて何枚か小銭を取り出す。どれも特に珍しい硬貨というわけでもない、いたって普通の硬貨だ。買い物の時の釣り銭でも貯めていたのだろうか、としげしげ眺めているとそこに刻まれた文字が目に入る。
硬貨は金額によってそこに彫られる文字や彫刻が違う。しかし、私はその全てに同じ文字が刻まれていることに気がついた。平成元年。それは平成が始まった年であると同時に、私が誕生した年だ。
その瞬間、私の脳裏に幼い頃の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
自分の生まれた年に造られたコインを持っていると、願いが叶う。
雑誌か何かでそんな知識を仕入れた私は、平成元年のコインを集めていた。その時も私は平成元年の十円玉を目ざとく見つけ、「ちょうだい」と祖母にねだっているところだった。
「平成元年のお金が、ほしいのか」
十円玉を差し出し笑う祖母の隣で、祖父が静かにそう聞いた。珍しく口を開いた祖父に驚きながらも、幼い私は黙って頷く。何か、怒らせるようなことでも言っただろうか。祖母のお金をほしがるのはいけないことだっただろうか。そう思って縮こまる私に、祖父は穏やかに告げる。
「それじゃあじいちゃんも、しぃちゃんのために平成元年のお金を集めちゃる。しぃちゃんのお願いがたくさん叶うように、たくさん集めちゃるからな」
それだけ言うと祖父は静かに私の頭を撫でた。不器用でぎこちない手つきだがその声は優しく、乾いた頬はかすかに緩んでいる。今までどこか他人行儀に接していた祖父のそんな態度に私は正直、戸惑った。祖母はと言うとそんな私と祖父を、ニコニコと笑いながら見守っている。この状況で自分はどう振る舞えば良いのか、二人にどう接すれば良いのか。迷いはしたものの、当時の私は平成元年のコインをもらえることがただ純粋に嬉しかったので、ただ素直に笑ってみせた。
だが。やがて私は祖父の言葉も平成元年の硬貨のことも忘れて、祖父と疎遠になっていった。その間も祖父はずっと、平成元年の文字を見つけてはこの壺に貯め続けてくれていたのだろう。いつか私に渡すために。私が「これで願いを叶う」と喜ぶ顔を見るために。しかし、それはいつのつもりだったのだろうか。平成が終わった時か、私が成人した時か。あるいは、それよりも前だろうか。もっと早く、私が祖父と話す時間を取っていれば。もう少しだけ、祖父と会う時間を優先していれば。祖父はこの壺を直接私へと渡してくれたのだろうか。いくら平成元年の硬貨があっても、それはもうわからない。祖父が亡くなった今となってはもう、祖父の気持ちを確かめる術はないのだ。
物静かで無愛想だった祖父。勝手に「近寄りがたい人」というイメージを作ってはいたが、私が無邪気に遊んだり食事をしたりしている時はいつも優しくそれを見つめていた。理不尽な叱責や不遇な扱いを受けた覚えはないし、誕生日やクリスマスといった祝い事を忘れられたこともない。不器用だったが、間違いなく祖父は私を愛してくれていた。しかし、私はそれに気づくことができなかった。祖父と過ごせる時間も、祖父の愛に応える時間も、今はもうどこにも残っていない。それは全て、平成という時代と共に彼方へと流れ去ってしまったのだ。
平成元年のコインが、取り戻せない時間と共に壺の中で眠っている。私は壺の蓋を手にしたまま、そっと涙を零すしかできなかった。