第2話・ロックダウン
「当該車両発見──総員下車だ」
長い昼間が終わり夜の山道、蛇行する角の先には横転したSUVがガードレールに引っ掛かっている。
銃器対策部隊は、防弾装備で全身を固め、手には警察的な行動にはやや過剰なライフルを装備している。凶悪な、武装した犯罪者に対抗するための部隊が、事故車両へと近づく。
「駄目だ。ドライバー確認できず。いや待て、血痕を発見した。崖下へ続いとる」
日管はスリングでライフルを背中へ回し、ピストルとライトに持ち替えて用心深く谷底を探る。しかし、闇はあまりにも深すぎて、とても見えたものではなかった。
「隊長」
チームの一員である近藤が急かす。見れば、薄っすらと霧が出始めている。長居は難しそうだ。
「例の襲撃じゃろうか?」
「わからん、なんも……」
事故したSUVの頑強なフロントガラスは、『銃撃を受けたように穴を開けていて』ドライバーシートとフロントガラス内側に脳漿が跳ねて赤く、赤くしていた。ヘッドレストには、脳漿や骨片と一緒に、旧時代的な球形の鉛玉がやはり抉りこみ埋まっていた。
「ロックダウンじゃとぉ〜」
ラーメン屋で唐揚げを貪る久瀬の片眉が跳ねあがる。ロックダウン、聞いたのは店内備え付けにぶら下がる、煤けたブラウン管のテレビからだ。ニュースキャスターが、県知事が、県全域でのロックダウンが発表されたと、移動を制限すると。それに合わせて、中国地方方面を管轄する第13旅団から防疫部隊が入ると、生意気にもテレビはおっしゃられていた。
久瀬ははつり仕事でギシ付く老体を感じさせない鋭い目で同僚の南那伏をぎろり睨む。南那伏は困ったように両手をあげて、
「俺に言われましても、そういうことなんじゃろ」
久瀬は口に唐揚げを詰めたまま喋る。
「ふざけやがってクソ政治家め。またウイルスをダラダラ漏らしやがってるんだ。空港の防疫も隔離も何もしとらんクセにいけしゃあしゃあと!」
「まあまあ、僕の唐揚げあげますから落ち着いて」
「レモンついとる。酸っぱいのは嫌いじゃ」
「これ、ついてないですから酸っぱくないです」
南那伏が、どうどう、と、言わんばかりにバニラな唐揚げをマイ箸で輸送した。久瀬は肉が好きだ。若い頃から貧乏で、肉をあまり食べられない小柄な体格で育ちきってしまったから、今頃血が欲しくなると本人はうそぶいているが、単なる肉好きだ。
久瀬のこめかみまで浮かんでいた怒りは、唐揚げ一個ばかしで買収され解散する。安い男である。もそもそと、新しい唐揚げに胡椒をふりかける頬張る姿は、久瀬が老人というよりは──少なくとも心は──青年のようだ。実年齢よりは若く見えた。だが寄る歳には敵わない、生涯現役でなければ生きることも許されないような哀れな、そして今の日本の多くの老人の一人だ。
「怪しげな奇病かもしれんやろ」
「なんじゃ南那伏、唐突に」
「久瀬さん、ニュース見てない?」
「どうも最近は、あのキャスターや芸人のコメンテーターのキンキン声が苦手じゃからな」
「変な病気が広がってるて話。ネットじゃ、話題になってるらしいで」
「なんて?」
「霧の化け物」
久瀬は、きょとん、目を丸くする。
南那伏は間髪いれず続きで、
「人気のない場所で襲撃されるらしいです。北朝鮮の工作員か土台人が、白昼堂々とやってるて話もあったりなかったり」
「日本海側の、鳥取とかで昔は聞いた話じゃけどな」
「瀬戸内海側でわざわざ、て、話になっとる」
「……銃対はそれか?」
「銃対?」
「銃器対策部隊。SATは知っとるか?」
「ニュースで時々見る」
「そんの露払いが銃対て、普通よりは武装した即応できるらしいチームじゃ。警察署のほうで配置換えが云々て、小耳に挟んでな」
「マジで北朝鮮工作員なんじゃろか……」
「わからん」と久瀬は両手を挙げた。既に唐揚げも、ラーメンも食べ終わっていた。
「ミネウチは今日も休みだったな」
久瀬は、休みがちな同僚を思いながら、満腹の眠気にうつらうつら。少し、血圧が高いからだろう。体調は無理を効かせるべきではない状態で、人間ドックをもう二回も見送っていた。
「事務所のほう、家にも電話が繋がらないと訝しんでましたよ」
ミネウチとは、少なくとも日本人ではない外人としてやってきた、たどたどしい言葉つかいの男だ。ミネウチは本名ではないが、あまりにもややっこしい名前だと、久瀬が勝手に呼んでいる。ネーミングの理由はチャンバラ好きだからだ。
「逃げるにも、こないだまで普通に働いてたのに……人間、わからんのー」
「ストレスっしょ。久瀬さん裏で、ミネウチをシメてんじゃろ?」
「そ、そんなことするわけないじゃろ! 人聞き悪い!!」
「はつりなんて馬鹿みたいに面倒な仕事ですからね。パワードスーツとかアシストスーツ、けっきょくどうなりました? フォードとかがライン工に採用してるみたいな」
「最近、腰が痛いんじゃよ。四〇年くらい。ロープで機械吊るすのも過酷じゃけん色々しつこく迫っとるんじゃが、なんにも音沙汰なしじゃ」
「は〜、駄目っすね、じゃ」
「駄目じゃろうな」
いっそ自前でなんとか買うか?と久瀬は真面目に考えたが、貯金はなかった。歳か、考えていて思い出したのは孫の存在だ。既に反抗期真っ最中の孫だが、不思議と久瀬とはウマが合い……あるいはもしかすれば、久瀬の影響が強いからクセがあるのかはともかく、家を飛び出しては、掘っ立てであばら小屋同然の場所で同居ということもしばしば程度には仲が良かった。孫に甘いのだ。だからこそ、のんびりとした老後は望めなかった。
久瀬は、まさか情けない姿を孫に見せたくはなかった。息子ほどとは言わなくても、爺さんでも孫がまだ頼れる男でいたいと老骨に鞭を打っている。少ない余生、無碍にするにはまだ早過ぎる。
騒がしくも静かというわけでもないラーメン屋で、テレビは次のニュースをとっくに始めていた。
『次のニュースです。琵琶湖で確認され──』