71:変わっていく日々
「聖遺物とは、神の統合の際に神々が天界から落とした神器のことを指す。しかしそのほとんどが主のいない長い年月によって朽ちていったとも言われている。ただのゴミだと思っていたものが実は聖遺物なんてこともあるのかもしれない、か。ふーん……」
テネブリスの穏やかな午前中。エレナは図書室で書物を読みながら勉学に励んでいた。神話学の本を閉じると、隣に座っていた骸骨頭──魔王ににっこり微笑む。魔王はそんなエレナにこてんと首を傾げた。
「エレナ、そんなに愛らしく微笑んでどうしたのだ」
「うん、パパが一緒に本を読んでくれるのが嬉しくて。忙しいのに私の為に時間を作ってくれてありがとう」
少しインクが掠れて読みにくくなっている「神話学」のタイトルを撫でながら、エレナは胸がチクリと痛んだ。本来ならばこの本は授業で使用する教科書だったはずだ。……だがその授業を行うエレナの教育係──あの人懐っこいエルフはもういない。暗いエレナの表情に魔王の顔にも影が差した。
あの日──セロが現れた日から既にふた月以上経過している。その間にテネブリスを取り囲む環境は大きく変わった。まず、テネブリスはシュトラール、スペランサの二か国と「対セロ・ディアヴォロス同盟」を結んだ。内容は文字通りセロとその従者の悪魔を打倒する為の同盟である。テネブリスはその同盟のおかげで周囲からついに「国」として認められることとなり、人間の国々との貿易も夢ではない段階まできていた。その為にドリアードの力を借りて禁断の大森林に交易の為の通路を作る計画も進行中だ。
ちなみにテネブリスの輸出品としては舌が焼けるほど辛いデビルトマトや人面魚の尿などが挙げられる。それらは少し不気味な品ではあるものの希少な魔法薬の材料になるので、人間達が喉から手が出てくるほどの欲しい品物とも言える。
(でもねマモン。貴方がいたらそういう取引ももっとスムーズにいっただけじゃなくて、『魔族の奴隷解放』だって既に実現できていたかもしれないなってパパが嘆いていたよ)
(それに貴方の私室だって、皆片付けられないでいるんだから……)
もう既にいない友人へ向けて心の中で語り掛けるエレナ。するとそんなエレナの心中を察したルーがエレナの膝の上に乗っかり、胸をふにふに叩く。
「きゅ、きゅきゅーう!」
「っ、ごめんルー。うん、私は大丈夫だよ」
誤魔化す様に微笑むエレナを見て、魔王が何かを言おうとコツコツ口を開かせたが……その前にアムドゥキアスとアスモデウスが現れた。二人は魔王とエレナに恭しく礼をする。
「アム?」
「エレナ様、中庭にレイが来ております。今日もあのおたんこなす王子──こほん、失礼しました。いつもの者と森で待ち合わせをしているのですか?」
「うん、そうだよ。……パパ、森に行ってもいいかな?」
エレナは魔王の顔色を窺う。魔王はコクリと頷いた。エレナの頬がたちまち桃色に染まる。そして彼女は軽い足取りでルーと一緒に図書室を飛び出して行った。静かになった図書室でアムドゥキアスは青筋を立てながら魔王へ提言する。
「いいのですか陛下! 森でエレナ様はあのノームとかいう男と会うつもりなのですよ!? しかもあの男、エレナ様のこっ、ここ恋人だとぬかしてやがるんですよ!? 彼とエレナ様を一緒にするのは少々危険かと!! 主にエレナ様の貞操の面で!!!!!」
「……よい。彼がそのような事を強引に進めるような人間でないことは我も分かっている。それに我の下手な口では今のエレナを慰めることは出来ない。あの子が楽しそうにしてくれるならそれでいい」
「へ、陛下……!」
父親としての嫉妬を乗り越え、娘の幸せを願う魔王の姿勢に涙を流して感動するアムドゥキアス。しかしその言葉とは裏腹に魔王はそわそわと落ち着きがなく、その自慢の骸骨頭にも微かにヒビが入っていた。アムドゥキアスと共に魔王を呼びに来たアスモデウスはそんな魔王の“やせ我慢”を察し、ため息を溢したのだった。
***
「レイ、いつも運んでくれてありがとね」
「ぎゃう!」
星の原っぱに着地すると、エレナはレイの首を撫でた。レイはそんなエレナに甘えるようにすりすり頭部を彼女に摩りつける。爬虫類特有のツルリとした感触が心地よい。
……と、ここでレイと戯れるエレナを後ろから強く抱きしめたのは──
「──エレナ! 遅いぞ!」
「うわっ! ……もう、重いよノーム!」
──エレナの恋人であるノームだ。高身長な彼はエレナの身体をすっぽりと覆って彼女の髪に鼻を埋めた。レイがエレナとの戯れを邪魔したノームの頭を不満げに甘噛みするが、彼はそんなことよりも愛しい恋人に夢中の様子。しかし空いているエレナの正面に新たな刺客が現れる。豊満な二つの果実がエレナの顔面を潰した。
「おいノーム! 其方、いくら恋人だからといってもエレナを独り占めしすぎではないか!? 我は其方の魔法の師匠なのだから少しは遠慮せよ!!」
「すまないがドリアード殿。余はエレナのことに関しては一切譲らないことにしているのだ」
「んむぅうぅ!!?」
睨み合う師弟に挟まれてしまったエレナは前後から圧迫され、呼吸が出来なくなる。
そしてここでそんな彼女に救いの手が差し伸べられた。エレナの右腕が誰かに捕まれ、横からひょいっと引っ張っられたのだ。そのおかげでエレナは圧迫地獄から抜け出せた。
「──まったく、ドリアードと兄上はこいつを窒息死させるつもりか」
ため息まじりのその声にエレナが顔を上げると、そこには美しい深紅の髪に琥珀色の瞳を持つノームの弟──サラマンダーがいた。実はこのサラマンダーは例の事件以降ノームと共にテネブリスによく訪れるようになっていたのだ。崩壊していた彼とノームの兄弟仲もなんやかんやで今は上手くいっているらしい(ノーム談)。エレナは救いの手を差し伸べてくれた友人ににっこり微笑む。
「ありがとうサラマンダー。助かったよ」
「っ、……別に。それよりもエレナ、枢機卿が近々テネブリスを訪れることをお前に伝えてくれと言っていたぞ」
「えっ、猊下が?」
エレナは一瞬キョトンとしたが、次の瞬間に顔を青くした。枢機卿がどうしてわざわざテネブリスを訪れたがっているのか想像できたのだ。
結局、例の婚約式で聖女と勇者一人を失った恩恵教はそれはもう荒れた。今まで自分達が信じてきた象徴が神の天敵そのものだったのだから荒れるのも仕方ないことだろう。中には絶望のあまり自殺した者もいたと聞いている。枢機卿はそこで恩恵教を一度解体し、新たな組織を作ろうとしているらしい。そしてその組織の信仰の象徴になってくれないかとエレナに度々持ち掛けてくるのだ。
「私、信仰の対象とかもうこりごりだよ。そりゃ、セロ・ディアヴォロスとの戦いには協力するけどそれはあくまでテネブリス陣営としてだもん」
「あぁ、そういえば猊下は組織の名前もエレナ教にするつもりだったんだってな。お前の猛反対で黄金教になったと嘆いておられたぞ」
「そうそう。猊下がどうしてあんなに私を見込んでくれているのかは分からないけどね。どう考えても私は聖女とかいう柄じゃないのに」
エレナが苦笑まじりにそう言うと、サラマンダーはそんなエレナをじっと見つめる。その視線に気づき、エレナは首を傾げた。
「サラマンダー?」
「……俺は猊下の気持ちも分かるけどな。お前は『助けて』と言われたら、誰彼構わず馬鹿みたいに一生懸命になるだろう。今の世にはそういうやつが必要なんだよ。自分を救おうとしてくれる人間がいるってことは、それ自体が大抵の人間の救いになるもんだ。それは俺も同──」
──と、ここでサラマンダーは自分はなんて恥ずかしいことを言おうとしているのだろうかと我に返る。そして不思議そうに自分を見上げるエレナに思わず頬が熱くなった。
「……っっ、ま、まぁ! 原っぱで平気で昼寝するような間抜け聖女がいてたまるかって話だけどな!」
「はぁ!? ちょっと何ソレ!? 今のは私を褒めてくれる流れじゃなかった!?」
エレナの頬がみるみる膨らむ。しかしそこでノームが「そんな無防備なところがエレナの可愛いところじゃないか!」と彼女を再度抱きしめた。これにはドリアードも腕を組んでうんうん頷く。恋人に抱きしめられたエレナはすぐにしかめっ面をやめて照れくさそうに微笑んだ。
……そんなエレナを見て、サラマンダーは素直になれずにいつも思ってもないような事を言ってしまう自分を心の中で何度も殴る。彼がそうやって密かに自己嫌悪に陥るのがもはやお決まりであった……。
そしてその後、ドリアードの指導の下でエレナとノームとサラマンダーの三人は日課である魔法の修行を始めた。……今後の悪魔との戦いへ向けて。




