106:怠惰の呪い
人間は弱い生き物だ。独りでは生きてはいけない脆弱な存在だ。
悪魔ベルフェゴールは誰よりもそれを理解していた。何故なら、彼こそ──
恋人に振られ、怠惰した。
己の絵を周囲に認めてもらえず、怠惰した。
貧困でどうしようもなくなって、怠惰した。
唯一無二である親友の死に絶望し、怠惰した……。
生物にとっての最大の勤労が“生き続けること”だとするならば、対して怠惰に値するのは自ら命を絶つこと──“自殺”だと定義できる。つまりは怠惰の悪魔ベルフェゴールは生前に自ら命を絶った者達の集まりなのである。故に彼は誰よりも人間の弱さを理解しているのだ。
***
「エレナ・フィンスターニス。吾輩は貴女に興味がある。生意気で憎たらしい貴女がどこまで吾輩の呪いに耐えられるのか」
「のろ、い……?」
「そう。呪いですよ」
エレナがベルフェゴールの言葉に惑わされている間に魔王の呻き声がどんどん大きくなる。そうして次第に彼の背中から闇が漏れ始めた。みるみる膨らんでいく闇はしばらく上空で歪に蠢くと──突然鋭い刃となって魔王の体を貫いていくではないか。エレナは悲鳴を上げる。
「パパ!? 何してるの!? どうして自分で自分自身を、」
「安心してください、エレナ・フィンスターニス。彼がいくら己を傷つけたからといって、今の彼は絶対に死にません」
「! パパがおかしくなったのは貴方の呪いなの?」
「まぁ、そうですね。吾輩の能力は『怠惰の呪い』。この呪いに掛かってしまうと己の内側に存在しているトラウマや負の感情が増幅され、それはそれは怠惰したくなるという大変迷惑なものです。そして、その代わり──」
ベルフェゴールが魔王を顎で指した。エレナがハッとなって魔王に駆け寄ると、彼の体にとある変化が起きていることに気が付く。闇の刃で無惨に貫かれたはずの彼の体が凹凸を繰り返し、治癒魔法もなしに凄い勢いで回復し始めたのだ。その治癒の速さはエレナの治癒魔法以上のものだった。言葉を失う。つまり、ベルフェゴールの『怠惰の呪い』とは──
「──どうしようもなく死にたいのに、絶対に死ねない。この能力がこの私に宿るなんて、これ以上の皮肉がありましょうか」
「っ、なんて能力、なの……」
ベルフェゴールが一歩一歩、エレナと魔王に近づいてくる。魔王は未だに唸り、己の身を傷つけては呪いによって回復させられていた。そんな父にエレナは唇を噛み締め、ベルフェゴールに立ち塞がる。護身用にとアムドゥキアスに持たされていたナイフを両手で握り締めながら。背中から聞こえる父の声が彼女を奮い立たせていた。
「悪魔ベルフェゴール! 私は貴方からパパを守る。何があっても、絶対に守ってみせる」
「ふふ、そうですか。それはそれは……とても楽しみです。さぁ、貴女も共に怠惰しましょう。その美しく気高い顔が絶望に沈む瞬間を吾輩は見たい」
「!! ……えっ?」
ベルフェゴールは舌なめずりをするなり、己の影に沈むように消えた。エレナは唖然とする。あちこち見渡しても、ベルフェゴールはいない。……と、次の瞬間。
エレナの耳元で、彼の声が囁かれた。
「貴女だけでは、何もできませんよ。ほら、こんなに簡単に貴女に触れることができた」
エレナはすぐに振り向く。だができなかった。振り向く直前にベルフェゴールが背後からエレナの体に巻き付いてきたからだ。瞬間、エレナの視界が反転し、闇に侵食される。そしてそこで見えたのは──いつかの夢で見た、大切な者達の死骸だった。そして死骸達がエレナを指さして一斉に言う。「お前が救えなかったせいだ」と。
エレナの頭が、真っ白になった。
「あ、ああ、あぅ、私が、私は……皆を、守れ、なかった、の? 違う、私が、私が殺したんだ……」
「貴女には特に念入りに呪いをかけてあげますよ。何度も何度も怠惰するといい。そして苦しむ貴女に吾輩が満足すれば、その時点で貴女は本当の意味で私達と仲間です」
「う、うあ……っ、いや、いやだ、たすけて、こんなの、こんなの……!!」
──いっそ、死んでしまった方が、マシだ!!
エレナはあっさりと崩れた。エレナには魔王同様この呪いの餌となる守りたいものが多すぎたのだ。そして、人一倍優しすぎた。そんな彼女の弱みに付け込むように、呪いはエレナを絶望に引きずり込む。何度も何度も何度も、大切な人が死んでいく幻覚を強制的に見せられる。治癒魔法を使おうとしても、発動できないまま家族や友人、恋人を失っていく。その時の絶望がどれほど彼女の心を抉っていくことか。
……と、そこでエレナは手に持っていた護身用ナイフの感触に気づく。正気ではない今の彼女にはそのナイフが救世主のように見えた。そして、エレナは怠惰したくてたまらなくなって──泣き叫びながら、己の体にナイフを突き立て始めたのである……。