初めての引っ越し
もし捨て猫を見かけたとする。だが家では飼えないのでその日は中途半端に餌だけあげて帰る。しかし次の日に同じところを通ったら冷たくなっていた。そうなればすこぶる後味が悪くなる。
なので冒険者たちは気まぐれに助けるだけでなく、きちんと村の近くまで送り届けたのだ。
途中で河原で魚を焼いて食べたことがバレそうになったときは非常に焦った。それでも強く否定することで、あの場は上手く誤魔化せたので問題ない。
河原から比較的近い位置にアタシたちの家があるのを知られると、色々面倒になりそうだから困るのだ。
それにあの後、このことは秘密だと言っておいたので、滅多なことでは漏れないと思う。
「せっかくリフォームが終わって快適になったのに、今さら別の場所に引っ越すのは面倒なんだよね」
「私はサンドラと一緒なら、何処でもいいよー」
「うーん、メアリーはブレないね」
冒険者を助けてからどれぐらい経ったのか。季節はいつの間にか、夏から秋へと変わっていた。
毎日悠々自適に暮らしているので、朝起きて何もせずにボーッと外の景色を眺めていたら、いつの間にか日が暮れていることも、たまにあったりする。
とにかくアタシもメアリーも今の生活を気に入っているので、このまま悠々自適なスローライフを満喫したいところだ。
「でも最近周りが騒がしいんだよね」
「人の口に戸は立てられないよー」
「メアリーって本当に十歳?」
光の飴玉を舐めたあとのメアリーは、ますます読書が好きになり、毎日どんどん賢くなっている。
脳みそが何処にあるかも不明な人形であり、全く知恵が身につかないアタシを大きく引き離し、差をつけている。
今の発言も、森で冒険者の数が増えている原因を、ズバリ言い当てたつもりだろう。
今の所は生活用品は足りているし、家の補修もあらかた終わっている。それでも頻度は落ちても物々交換は今も続けている。
さらに無傷のブラックウルフを冒険者に与えれば、持ち込んだ先の人に出処を聞かれてもおかしくない。
「最近は家から出なくても、広域探知に人間が引っかかるようになってきたし」
「私たちを探してるー?」
「だろうね」
アタシは居間の机の上で、人形用のカップに注いだお茶を飲み、分厚い本をパラパラとめくるメアリーと和やかに話している。だが内容はかなり深刻だ。
もし所在を突き止められて危害を加えられそうになっても、速攻で逃げ出せばいいのだが、やはり手入れの行き届いた家と敷地を捨てるのは勿体なく感じる。
「力の扱いにも慣れてきたから、いつでも逃げられるんだけどさ」
「んー…家ごと逃げだすのはー?」
確かに家の敷地には光の結界が張ってあるので、もし逃げ出すときには地面の底も繭のように伸ばして包めば、土地ごと他所に移動できる。
天使の力に慣れてきた今のアタシなら、繭そのものに飛行能力を持たせることも可能かも知れない。
「その手があったか! メアリー、頭いいね!」
「えへへー」
普通に翼で飛ぶより速度は落ちるが、それでも馬を走らせるよりは速いので何の問題もなさそうだ。
褒められて大喜びしているメアリーだが、噂をすればというやつで、誰かが外の張られた結界に触れているのを感知した。
「お客さんー?」
「そのようだね」
メアリーもアタシよりは弱いが、天使の力に慣れてきたのか、一から生み出すのは大変だが、あらかじめ作っておいた物を操作や補給することはできる。
なのでアタシが所有権を主張しない限りは、敷地内に張られた光の結界は両者が操作を行えるのだ。
「どうするのー?」
「どうしようか?」
敷地内に入りたがっているのは明らかだが、黙って通すわけがない。何よりもまずは、相手の目的を知ることが重要だ。
もしかしたらアタシたちは関係なく、たまたま偶然通りかかっただけかも知れない。
「望みが薄そうだねー」
「アタシもそう思うけどさ。まあ、それはともかく」
メアリーと何度目かの合体。天使の力に慣れてきたので、いちいち肌と肌を接触させなくても、翼を生み出すことができるようになった。
なので妙なくすぐったさを味わえないからと、頬をプクーっと膨らませている金髪幼女なんて知りません。
それに今は冒険者らしき者の目的を尋ねるのが重要なのだから、ここはキビキビ動いてもらうのだ。
<とあるBランク冒険者>
「…まさか本当にあったとは」
町の冒険者ギルドでまことしやかに流れる噂があり、とある森には天使様が住んでいるらしい。
噂の出処であるCランク冒険者は必死に否定しているが、酒に酔った勢いというのは恐ろしいものだ。
さらにその森に近いある村では、表向きは唯一神教を信仰しているように見えて、裏では隠れて天使様に祈りを捧げていることが、少し前に行商人の口から広まり、ますます噂の確証が高まってきた。
数多くの冒険者や商人、果ては騎士や貴族が、神話や伝説の中にしか登場しないはずの天使様を一目見ようと、片田舎の村に留まり、森の中をあてもなく探し歩いている。
ちなみに自分もその一人で、辺りの村々で聞き込み調査を行い、森の奥には今は使われていない古びた猟師小屋があることを突き止めて、大体の場所も教えてもらった。
そして簡単なメモ書きを片手に、何日も迷いながらここまでやって来たのだ。
「だが、これはどうしたものか」
「少なくとも、歓迎はされてないわね」
「侵入者を拒む結界なんだ。魔物も人間も関係ないだろう?」
若き賢者と名高い攻撃と回復両方を使いこなす女魔法使い、そして魔法と剣の両方を扱う戦士である俺の二人パーティーだが、天使様が張った結界の前で立ち往生していた。
今言った通り、魔物も人間も関係なく弾き、対象の識別や細かな調整などは行えない。それが本来の結界というものだ。
そんな俺たちを拒む結界の向こうには手直しされた小屋が建っており、敷地内には水汲み用の井戸と、手入れの行き届いた家庭菜園や果樹が、季節に関係なく咲き乱れて熟しており、さらには子供用のブランコやハンモック。
木陰の下には椅子と机まで置かれていた。それらを見て、どう考えてもここには人間か、もしくは噂の天使様が暮らしているのはほぼ確定だ。
「どうやら年頃の女性が住んでいるのは、確実なようね」
「ああ、そのようだな」
自分に覗きの趣味はないのだが、今日は天気の良く、繭型の結界に囲まれているにも関わらず、何故か風が循環して空気が澄んでおり、ロープにかかった洗濯物が嫌でも視界に入ってくる。
そこには女性用の純白のロングワンピースと、下着が干されていて、真っ白いかぼちゃパンツが風に揺れてなびいていた。
隣の女魔法使いがどうしたものかと頭を抱え、俺は小さく咳払いをして、気を取り直して尋ねた。
「解除できそうか?」
「残念だけど無理ね。この結界は光の属性で、干渉できるのは聖職者か光の精霊使いだけよ。
どうしても通りたければ力尽くで打ち破るか、張った本人に頼んで解除してもらうしかないわね」
その後、相当強力だから並の術者では干渉どころか解析さえ不可能だけど…と、溜息を吐いていた。
俺がコンコンと軽く素手で叩いてみても、微かに光の波紋のようなものが広がるだけで、実際にはうんともすんとも言わない。
相棒の女魔法使いは肩をすくめ、お手上げという表情で投げやりになる。ようやく天使様の所在を突き止めたというのに、途方に暮れていた時、目の前の結界に変化が起きた。
「何っ…穴が!」
「通れってこと、…かしら?」
現状を打開するために相棒と相談していると、侵入者を拒む光の結界に、突然小さな穴が開いた。何の前触れもなく起こった奇妙な出来事に戸惑うが、女魔法使いの言う通りのようだ。
穴はちょうど俺たちが通れるだけの大きさで止まっており、それ以上広がることはなかった。
「行こう」
「…そうね」
俺たちが迷っていると、小屋の扉が独りでに開いた。誰も出てこなかったことで緊張感は高まったが、おかげで踏ん切りはついた。
二人が光の結界に開いた穴を通り抜けると、すぐに塞がって元通りになる。これは逃がす気がないのか、俺たち以外の侵入者を拒んでいるのか。
とにかく人間離れした魔力操作に舌を巻く。
瞬時に修復された結界を、興味深そうに観察している女魔法使いの肩に手を置き、次に開いた扉の向こうを指差す。
周囲には気になる物だらけだが、今一番にすべきことは、俺たちを導いた何者かに会うことだ。
彼女も思い出したかのように小さく頷くと、ゴクリと生唾を飲んで、周囲を警戒しながら小屋に向かって、ゆっくりと歩き出すのだった。
小屋に入って辺りを見回すと、まず一番最初に目に入ったのは、光り輝くほどの金色の髪と雪のように白い肌、そして透き通った青い瞳の、幼く美しい少女だった。
彼女は汚れ一つない純白のロングワンピースを着て、木の椅子に座り、優雅にティーカップでお茶を嗜んでいた。
「ようこそ、冒険者さん。私の名前はサーリアです」
「おっ、おう」
「立ち話も何ですし、どうぞこちらに」
しかも彼女は人間ではなく、背中には真っ白い翼と頭上には光輪を持っている天使様だ。当然その誘いを断ることはできない。女魔法使いに視線を送り、互いに小さく頷く。
俺たちは少女の近くの椅子に腰を下ろすと、天使様は突然の来客をもてなすためか、大机の上に並べてある二人分のカップに丁寧にお茶を注いていく。
「粗茶ですが」
「こっ、これはご丁寧に」
神話に登場する天使様の御前という極限状態では、お茶の味などわかるはずがない。取りあえず相棒と二人で、申し訳程度に口をつけることにする。
「なっ! 何だこれは!?」
「あら美味しい!」
「家の庭で取れた薬草茶がお口に合ったようで何よりです」
正直茶の味などわからないと思っていたが、一口飲んだだけで疲労が吹き飛んで、全身が活力に満ち溢れ、微かな甘さと爽やかさが喉の奥へと消えていく。
気づけばあっという間に飲み干してしまい、天使様におかわりはいかがですか? …と尋ねられ、相棒と一緒に顔を赤くしておずおずとカップを差し出し、二杯目をお願いしてしまった。
「ところで貴方達は、何が目的でここに来たのですか?」
人心地ついたところで、サーリア様が穏やかな表情を浮かべながら、俺たちにここに来た目的を尋ねてきた。
天の使いを前に嘘をつく気はないので、聞かれたことは女魔法使いと二人で、正直に答えていく。
「そうですか。私に会いに…」
「あの、天使様」
「サーリアで構いませんよ。私は天使を名乗れませんので」
「そっ…そうですか。では、サーリア様」
誰がどう見ても天使様にしか見えないのに、自らのあり方を否定するとは、意味がわからない。そしてサーリア様と呼ぶようにと命じられれば、こちらとしても黙って従うしかない。
とにかく一度仕切り直して、俺はもっとも気になっていたことを口に出した。
「サーリア様は、何故このような場所に隠れ住んでいるのですか?」
天上の唯一神が地上に遣わした自らの分身が天使であり、それぞれが強大な力を持っている。
さらに闇を浄化して傷ついた人を癒やし、全ての人間の希望となる存在のはずだ。
もっとも神様どころか天使様の声や姿を見たのは、実は彼女が初めてであり、教会の神官たちでさえ実在を信じている者は極少数だろう。
ちなみに唯一神は邪神を滅ぼしたあとは、天使を地上に残して雲の上にあると言われる天界に戻り、今も人間たちを見守っている…と、聖典に記されている。
森の探索中に、女魔法使いからその話を聞いたのだ。ならば何故目の前の天使様は表に出ずに、森の奥に隠れ住んでいるのか。
これには相棒も気になっているようで、サーリア様のお言葉を聞き逃すまいと、耳をそばだてていた。
「…詳しいことは言えませんが、私は追われる身なのです」
「だから隠れ住んでいると?」
「はい」
何処の誰がサーリア様を追っているのか。それを尋ねたところで、きっと答えてはくれない。
可能性としては利権目当ての薄汚い人間か、それとも唯一神教を伝える教会か。信じたくはないが、もし彼女が裏では堕天使と蔑まれているのだとしたら、十分にありえる話だ。
「もしかしてサーリア様は、堕天…」
「違います」
ますますわからなくなった。そもそも堕天使なら人間を助けたり、村人と交流を持ったりはしない。
お伽噺の彼らは悪魔そのものであり、面白半分に人を玩具にして、最後には殺してしまう。
「少なくとも堕天使は私たちを家に上げて、お客さんとしてもてなしたりはしないでしょうね」
相棒の言葉に顎に手を当てて考えるが、素直に答えてくれないのはさっき聞いたので、明確な答えを得るには、俺たちで導き出さなければいけない。
ならば天使であっても天使を名乗れず、天界の唯一神に助けを求めず、地上で隠れ住むサーリア様に、一体どんな目的があるのか。
「さて、用件が済んだのなら、そろそろお帰りになっては?」
「…えっ?」
「これから急いで引っ越さなければならなくなったので」
こちらが先程から黙って考え込んでいると、サーリア様が突然椅子から立ち上がって玄関に向かったので、俺たちも慌てて後を追う。
そして小さな手で開けられた扉から小屋の外に出て、信じられない光景が視界に入って驚愕する。
「はぁ…今日は来客が多いですね」
呆れたように溜息を吐くサーリア様が辺りを見回すと、光の結界を囲むように大勢の冒険者、もしくは商人か兵士、中には身なりの整った騎士や貴族といった、地位の高い人物まで勢揃いしていた。
彼らは結界を乱暴に叩いて口々に何やら喚いているが、俺たちには何も聞こえなかった。
「音を遮断しているのかしら? 違うわね。敷地内全てがサーリア様の揺り籠で、別の空間なんだわ。
つまり地上に存在しているものの、その実ここは小さな天界。きっと植物の異常な成長も…」
相棒が立ち止まって顔を俯かせ、小声でブツブツと呟いているが、俺には何のことやらさっぱりだった。
何よりも今は、この異常事態を何とかするほうが先決だ。もっとも、どれだけ上手く立ち回っても収拾はつきそうにないのだが。
「貴方達を巻き込んでしまい、申し訳ありません」
「気にしないでください。俺たちが勝手に押し入ったのですから」
「そう言ってもらえると、気が楽になります」
再びサーリア様は結界の外に視線を向けて、しばらく頬に手を当てて何やら考え込む。
相変わらず強引にでも光の繭を破ろうと、武器や魔法を何度もぶつけているが、微かに波紋が広がるだけで、結界はビクともしない。
「そうですね。貴方たちは何処か適当な町に降ろすことにします」
「あの? それは一体……うおっ!?」
地面は全く揺れなかった、しかし家の敷地ごと宙に浮かび上がった。外を取り囲んでいる人々や森の木々が下にズレていく光景を見せられて、驚いて思わず足がすくんでしまう。
相棒も驚愕の余り、大口を開けて硬直しているが、その間にも巨大な光の繭はどんどん高度を上げて、空の雲に触れたところで動きがピタリと止まった。
「さっ…サーリア様! これは一体!?」
「私は追われる身ですので、他に静かに暮らせる場所に引っ越します」
俺は唖然とした顔で幼い少女を見つめるが、驚きすぎて言葉が続かない。だが相棒は、人の身では到底不可能な神の御業とも言える大魔法を間近で見られて、感動のあまり大興奮である。
「天界は雲の上にあるって記載されてたけど! もしかして唯一神って、サーリア様のことだったのかしら!
世紀の大発見だわ! ああもう! 今日は素晴らしい日だわ!」
飛行魔法の使い手や歴戦の竜騎士も、雲の上までは容易に届かないし、行けたとしても空気が薄すぎる。さらに身も心も凍りつくほどの寒さで、人の身ではとても耐えられない。
だが少なくともサーリア様のお膝元なら、問題なく呼吸ができるし、暖かな気温でとても過ごしやすい。
本当にここは小さな天界で、彼女が俺たちを見守っている唯一神かも知れない。少なくとも今本人から主張されたら、思わず納得してしまいそうだ。
「さて、それでは何処に行きましょうか」
壮大な言葉を口にしたサーリア様は、おもむろに膝をついて落ちている小枝を拾うと、先端に指を乗せて地面に真っ直ぐ立てる。
そして支えを外し、少しふらついた後、パタリと倒れた枝の方向に顔を向ける。
「たっ…倒れた棒で行き先を決めるのですか?」
「人が来ない場所なら、何処でもいいので。風の吹くまま気の向くままです」
空を飛ぶ乗り物は初めてだが、光の繭に包まれた小さな島が、雲をかき分けて軽快に進む姿を間近で見たのは、きっと自分たちが初めてだろう。
棒の倒れた先に何が待っているのかはわからないが、何とも胸が躍る。
「それで、貴方達は何処で降りますか?」
「あの、このままサーリア様に同行するというのは?」
「駄目です」
即答だった。相棒共々ガックリと肩を落とすが、サーリア様は何者かに追われる身であり、俺たちを巻き込まないためだと思えば、致し方ない。
それでも付いて行きたかったので、粘り強く交渉した結果、引っ越し先の近くまで同行する許可をもらえた。
天界には住めないが、最寄りの町か村に滞在する権利を、見事勝ち取ったのだった。