3話
固いテーブルの感触に違和感を感じ、浩一は意識を取り戻した。
……あれ? ……ここ……
見慣れぬ光景に戸惑いながら周囲を見渡す。
先程まで食事をしていた店だと理解するのに数十秒もかかってしまった。
問題は、なぜここで寝ていたかである。
酔いの残る頭で必死に記憶を辿り、自分の失態に思い至った。
……しまった……あのまま寝ちゃったのか……
テーブル席の方は電気が消されており、カウンターの中からは水音とカチャカチャと何やら片付ける音が聞こえてきた。
明らかに営業中ではない。どうやら閉店作業中のようだ。
……ああ、しまったな……こんなこと初めてだ……
もう37才にもなるのにと後悔しながら身を起こすと、肩からバサリと背広の上着が落ちた。
食事の時に脱いでいた上着を誰かが掛けてくれていたらしい。
「あ、目が覚めましたか?」
物音を聞いて気づいたのだろう、優子がひょこりとカウンターから顔を出して声を掛けてきた。
……ああっ、この女性が残っていたのか……!
この思わぬ不意打ちに浩一は狼狽した。
「あ、あの、どうもすいませんでした。この度はとんだ失態を……」
浩一は身を固くして深々と頭を下げる。
初めて入った店で酔って寝てしまうなど……さすがにバツが悪い。
「いえ、気になさらないでください。今日は空いてましたし、まだ閉店作業中ですから」
優子はカウンターに引っ込み作業に戻ったようだ。
優しい言葉がかえって心苦しく感じ、浩一は早く出ようと伝票を確認した。
すると優子が「良かったらどうぞ」とカウンター越しにおしぼりを出してくれた。
「え……?」
「ふふ、お客さん、顔にカウンターの跡が付いてますよ。お湯もまだありますし、お時間の都合が良ろしかったらお茶でも飲んでいってください」
この思わぬ言葉に不意を突かれ、浩一は「は、はい」と間抜けな返事をした。
自らの頬に触れると確かに凹凸が付いていた。
おしぼりを受け取り、ごしごしと顔を拭うと、酔いの残っていた意識が覚醒していくのを感じる。
「すいません、もうお店は終わりですよね?」
「はい、今日はお客さんが途切れたので早めに切り上げたんです」
浩一が時計を確認するとまだ11時過ぎだった。
確かオーダーストップが10時半だったから、優子の言葉通りに早じまいしたのだろう。
……しかし、一人で閉店作業するなんてバイトとかじゃなくて店員さんなのかな? ひょっとしたら旦那さんの店なのかも知れないな……
少し落ち着きを取り戻した頃に、優子がカウンターから出て来てお茶を出してくれた。
酒を飲んで寝たので喉がカラカラだ。
浩一は「いただきます」と告げ、ありがたく頂戴することにした。
ほど良いぬるさで、渇いた喉に心地よい。
ごくごくと喉を鳴らしながら一気に飲み干してしまった。
「ご馳走さまでした。すいません、起こしていただいても良かったのに」
「いえ、まだ閉店作業をしていましたから。それに今日は早く閉めただけで、普段ならまだ皆で片付けているところです。オーダーストップの時点でお客さんが途切れてしまったので」
優子は何でも無い様子でにこやかに答えてくれた。
しかし、その左手の薬指を見て浩一の胸は少し痛んだ。
「でも、俺のせいで遅くなると、その……旦那さんも心配されるとアレですし」
酔いが残っていたのだろう。言わずでも良いのに口が滑った。
優子は「えっ?私は……」と少し驚きを見せ何か疑問を口にしかけたが、自らの左手を確認し納得したようだ。
「すいません、これは違うんです」
先程まで朗らかだった優子の表情が憂いを含んだ。
浩一は何か失言したかとドキリとした。
「……主人は亡くなりました。そろそろ4年にもなるんですけど……何となく、習慣ですかね」
優子の言葉を聞いて、浩一はやっちまったと冷や汗を流した。
すぐさま「すいません、詰まらないことを言いました」と頭を下げる。
「いえ、気になさらないでください。紛らわしいことをしてるのは分かるんですけど、この店も主人が遺してくれたモノですし……何となく、何となく外せなくて」
優子の言葉を聞き「じゃあ、この店の店長さんは」と浩一は思わず呟いた。
「ええ、私が社長です。頼りないですけどね」
「あ、いえ、そう言うわけでは」
浩一が狼狽えると、優子は「お茶のお続きはいかがですか?」とにこやかに訊ねてきた。
図々しいとは思いながらも浩一は「お願いします」と答えた。
自分がどうしようもなく彼女に惹かれていくのを感じていたのだ。
少しでも、彼女と話をしたい。
そう思うと、早々と帰る気にはなれなかった。
……まったく、中学生かよ……
浩一は自らのときめきを自覚し、苦笑した。
これでは初心な中学生ではないか。
ほどなくして、優子が戻ってきた。
お盆には湯飲みが2つ並んでいる。
「お湯が余ると、こうやってお茶を飲むんです」
「あ、なるほど。囲炉裏に鉄瓶が懸かってましたね」
浩一が確認するように囲炉裏に目を向けると、すでに囲炉裏の火は落ちており鉄瓶の姿も無い。
「ええ、鉄瓶で沸かしたお湯はお茶が美味しくなるんです」
「……本当に美味しいお茶ですね、すごく落ち着きます」
初めての店で営業時間外に見ず知らずの女性と並んでお茶を飲む……考えてみたら不思議なシチュエーションだ。
それから、浩一は優子の身の上話を聞いた。
文字通りの茶飲み話である。
どうやら優子は年の差がある男性と一緒になったが先立たれたらしい。
この店も、今は亡き旦那さんの夢で「地元の旨いものを出す店」を目指して7年前に開店したのだそうだ。
「色々あったんですね」
浩一がポツリと呟くと、優子は「ええ、本当に色々ありました」と笑う。
時にとりとめの無い話になってしまったが、浩一には優子の寂しさが分かる気がした。
離婚と死別の違いはあれど、そこに何かしらのシンパシーを感じたのは事実だ。
「お客さんは……」
「あ、山中浩一です」
浩一が名乗ると、優子は頷き「山中さんのご家族は」と訊ねてきた。
「いません。離婚ですけどね、2年ほど前に……今日は出張ですし、身軽なものですよ」
つとめて明るく口にしたつもりだったのだが浩一の言葉を聞き、優子は顔を伏せた。
「気にしないで下さい。こちらも色々あったんです」
浩一が笑うと、優子はぷっと吹き出し「色々ですか」と笑顔を見せた。
「そう、色々です。この年になると、みんな色々あるんですよ」
浩一が自嘲気味に呟いた一言は彼自身の胸に染み渡った。
みんな色々あるのだ……そう考えると、2年間も拗ねていた自分が酷く幼稚に感じ恥ずかしくなった。
目の前の女性は夫の遺してくれた店を必死で守ってきたのに……そう考えると、自らの小ささに恥じ入るばかりである。
「みんな、色々……」
優子が何かを感じたように「そうかも知れませんね」と呟いた。
「私、吉田優子と言います」
「はい、知ってます」
浩一は優子の名札を示した。
2人の男女は、顔を見合わせて笑った。
……寂しいんだ。俺も、彼女も……
浩一は思わず、カウンターに置かれた優子の手に、我が手を添えた。
女性に対して控えめな彼が、このような大胆な行動をとるとは酔いが残っていたのかもしれない。
優子がピクリと緊張したのを感じたが、彼女は何も言わなかった。
浩一は不思議だった。
なぜ、見ず知らずの者同士がこのような話をしているのか……だが、人は親しい者にこそ話せぬこともある。
全くの赤の他人ではあるが、だからこそ、言えることも伝わる気持ちもあるのだ。
「……山中さん」
優子の潤んだ瞳が浩一を見つめる。
浩一は受け入れられたことに安堵しつつ顔を寄せ、唇を重ねた。
今まで働いていた優子の汗の香りを感じる……だが、決して嫌な匂いではない。
熟した女の、濃厚な女の薫りに浩一の脳は痺れた。
「優子さん」
浩一が呼び掛けると、閉じられた優子の瞼がピクピクと反応する。
作務衣のような制服の胸元から手を差し込むと、女の体はじっとりと汗ばんでいた。