2話
思いの外に店内は広く、カウンターとテーブル席が幾つか……2階にも席があるようだが、意外と空いていた。
……そりゃ、火曜日だしな……こんなもんだろ……
浩一が店内を観察していると、女性店員は彼をカウンターに案内した。
調理場に据えられた囲炉裏のような設備が目立つ。かなり大きく、迫力がある。
焼ける炭の香りで期待感で胸は膨らむが、腹は減りっぱなしだ。
浩一は目敏くオススメメニューが書かれた黒板を見つけ、首を傾げた。
そこには『本日の火場焼き』と書いてあり、何やら海産物が羅列してあるようだ。
……読めん……ひば? かば? ……気になるが、読めなくちゃ頼めんぞ……それにアッパ貝って何だ……サメタレも分からんな……?
どうやら郷土料理の店らしい。謎のメニューが多い。
黒板を見ながら固まってしまった彼を救ったのは「ご説明はいかがですか?」と声を掛けてくれた先程の女性店員であった。
制服であろうか、作務衣のような格好だ。
胸に吉田優子とフルネームが書かれた名札を付けている。
その名の通り、優しげな女性だなと浩一は感じた。
「お客さん、当店は初めてですか?」
年の頃は30になるやならざるか……黒髪を後ろで纏めた、ふっくらとした印象の女性だ。
「あ、はい。その……あれは炭火焼きですか?」
浩一はつい、間抜けな質問をしたことを後悔した。
囲炉裏には炭が赤々と燃え、その上には網が置いてある……どこをどう見ても炭火焼きでしかない。
「はい、あれは『火場焼き』です。海女料理で、本来は取り立ての海の幸を生きたまま焼くんですよ。志摩の郷土料理ですね」
吉田優子は気にした様子もなく、にこやかに対応してくれた。
その様子に浩一は少し救われた気がした。
「ははあ、海女小屋とかの……テレビか何かで見たことあります。幾つか教えてほしいメニューがあるんですが……」
「はい、何でも聞いてください」
優子の元気な声に励まされ、浩一は黒板を眺めつつ「アッパ貝? ってどんなのですか」などと質問しながらメニューを注文していく。
「火場焼きは焼き上がりまでお時間を頂きますが宜しいですか?」
「はい、それとお酒もお願いします。何か地元のオススメがあれば……」
浩一は何とか注文を終え、ふうっと息を吐きながらおしぼりで顔を拭いた。
オッサン臭い仕草ではあるが、彼は自然に出た自分の振る舞いに気づいていない。
37才は立派なオッサンなのだ。
ほどなくして「お待たせしました」と、優子がお盆を手にお通しと徳利を運んでくれた。
「お通しは貝のぬたです、こちらはぬる燗ですね」
ありがとうと簡単に礼を述べ、浩一は運ばれてきたお通しと徳利を観察した。
貝が葱や三つ葉と共に酢味噌であえてあり、いかにも日本酒のオツマミと言った風情である。
徳利は舟徳利と呼ばれる三角フラスコのような形のものだ。
そう言えば、三重県は陶器の産地だっけと浩一はぼんやりと考えた。
陶器の事は良くわからないが、何となく立派なモノのような気がする。
ぐい飲みと呼ばれる盃も渋くて良い感じだ。
良い器は、酒食を引き立てる。
酒を飲む前から、浩一は少し良い気分になり手酌で盃に酒を注いだ。
ぬたを箸で突つきながら、舐めるように盃を傾ける。
……う、ウマイ……ぬる燗、正解……
酢味噌の味わいと、芳醇な吟醸酒……これが合わない訳がない。
ぬたが日本酒のコクを引き出しているようだ。
口に広がる和のハーモニーに酒は進み、お通しだけで徳利は空になってしまった。
30分ほどが経ち、火場焼きが運ばれてくる。
牡蠣に、アッパ貝、サメタレ、開いたサンマの一夜干し。
磯の香りが香ばしい。匂いだけでツマミになるほどだ。
食い意地の張った浩一は火場焼きを食べ進め、何度も日本酒をお代わりした。
浩一は酒に強いが、ほど良く酔いが回ってきたようだ。
ちなみにアッパ貝とは緋扇貝とも言い、ホタテのような二枚貝だ。
ホタテよりも少し小ぶりで味が濃厚、熱を加えると開いたり閉じたりするので「アッパッパな貝」でアッパ貝と言うらしい。
サメタレはその名の通り、鮫の身を味醂のタレで味付けした干物である。こちらも酒が進む魔性の魅力を秘めている。炙った味醂が香ばしい。
的矢の牡蠣も身詰まりが良く最高だ。
ふと、先程の女性店員が他のテーブルで給仕をしているのが目に入った。
後ろ姿だが、白いうなじを眺めると浩一の男心に漲るものを感じた。
酒のせいでが血流が良くなっているのだろうか。
……うーん、溜まってるのかな? 久し振りに風俗でも行くか……
先程の客引きは「何とかプレイが8000円」と言っていた。
相場は良くわからないが安い気もする。
風俗なんて、離婚後も行っていない。
女性不信気味の浩一が、このような乙な気分になったのも旅の解放感ゆえであろうか。
残り僅かになったサンマの一夜干しを名残惜しくも口中に収め、グイっと酒で流し込んだ。
適度な塩分が酒で中和され、舌の上で見事なハーモニーを奏でた。
サンマは好物であるが、一夜干しを食べたのは初めての経験だ。
彼には細かいことは分からないが、普通に焼いて食べるよりも味が濃厚だ。
締めに選んだのは手こね寿司。
もともとは漁師が忙しい漁の合間に食べるものであったとか。
たっぷりと赤身の刺身が乗ったチラシ寿司の一種ではあるが、刺身がタレに漬け込んであり実に美味だ。
締めに頼んだはずなのに、つい酒を追加で頼んでしまった。この刺身は反則だろうと浩一は舌鼓を打った。
米粒1つ残さぬように手こね寿司を食べ終わると、急に眠たくなってきた。
……あれ、酔ったかな……
酒に強い浩一が、こんな酔いかたをするのは珍しい。
ウマイ酒、ウマイ食事、程よい疲れ……言い知れぬ満足感が彼を眠りの世界に誘おうとしていた。
しかし、さすがにカウンターで眠るわけにはいかない。
「どうぞ、伊勢茶です。地元のお茶なんですよ」
優子が食後に熱いお茶を出してくれた。
このお茶も伊勢茶と言うらしい。
「三重県もお茶が有名なんですね、知りませんでした」
「ええ、あまり知られてませんけど三重県は全国で3番目にお茶の生産量が多いんです」
浩一は適当に相槌を打ちながら優子の話を聞いていた。
全国3位の生産量とはなんだか控え目で、優子の住む町に相応しい気がした。
浩一の地元である西尾市もお茶の産地ではあるが、浩一は特に言う必要は無いかと思い、優子の話を聞いていた。
高かくも低くもなく、耳に心地の良い声だ。
お茶を給仕をしてくれた優子の左手の薬指にはシンプルな銀色の指輪が見えた。
既婚者だったようだ。
少し、気落ちしながらお茶を啜る。
……何をガッカリしてるんだ俺は?独身者だったら、どうにかしたのか? そんな訳はないだろ……馬鹿馬鹿しい……
だが、浩一は嬉しかった。
もはや枯れ果てたと思っていた自らの心に、雄としての力が甦った気がした。
……俺はあの店員さん……吉田優子さんって言ったっけ? 好きになっちゃったのか? 人妻を? まさかね……
一目惚れなんてあるわけ無いと、自分に言い聞かせているうちに浩一の意識は微睡の中に沈んでいった。
うつら、うつらと舟を漕ぐ内に、とうとうカウンターに突っ伏してしまう。
酔いが回った時の睡魔とは、理性で抗えるものではないのだ。