1話
3月の上旬、冬の寒さは緩みつつあるが、日が沈めばまだまだ上着が欲しい時期だ。
山中浩一はビジネスホテルにチェックインし荷物を置くと、着替えもせずに町に出た。
腕時計にチラリと目を向けると、針が示すのは午後の7時35分。
……よしよし、良いタイミングじゃないか……
浩一はニンマリと笑い、夜の町に足を向けた。
ホテルでゆっくりせず、すぐに出たのは正解だった。
浩一にとって2度目の三重県の夜……食いたいものは山ほどある。
三重県は古の時代から朝廷に山海の幸を届け、御食国と呼ばれた歴史があり、この地にウマイ食い物はたくさんあるのだ。
食い意地の張った浩一は、これを目当てに出張していると言っても過言ではない。
少し寂れた四日市のアーケード街を歩く……飲み屋や風俗店の客引きが声を掛けてきたが、さすがに飲みに出るには少し早い。今は飯が先だ。
……それに、ウマイ食事どころなら酒もあるしな……
浩一は酒飲みではあるが、女性が接客をしてくれるような店はあまり好まなかった。
女性が嫌いなわけでは無いが、正直に言って面倒くさいのだ。
適当に客引きをあしらいながら店を探す。
愛知県に住み、西尾市の商社で営業をしている浩一は三重県亀山にある大きな工場の御用聞きを先輩から引き継ぎ、度々に三重県に足を運んでいた。
しかし、愛知県と三重県は隣県である。
いつもは日帰り出張ではあるが、今回はわざと打ち合わせの時間を遅くして無理矢理一泊の形を整えたのだ。
……ふふ、不良社員と呼べば良いさ、たまにはこんな日が無くちゃやってられんよ……
浩一は社内での出世を半ば諦めたような37才の中堅社員だ。
この、どこか拗ねたような態度は2年前、離婚を経験してから始まったものだ。子供はいない。
幼馴染と26才で結婚し、8年半……それなりに幸せに過ごしていた、彼はそう信じていたために、妻が切り出した離婚は彼の心に深い傷跡を残したようだ。
それ以来、遠方への出張の話があれば浩一は率先して出掛けるようになった。
どこかガランとした家に帰りたくないのだ。
職場の仲間も彼のそうした事情は知っており、大目に見てもらっている部分もある。
……折角だから、チェーン店は論外だな……どこか、飲み食いのできる店がいい……
離婚以来、外食を続けることで、浩一の舌は肥えてきた。
食い道楽になりつつある彼にとって、出張先で名物料理を食べるのは何にも勝る喜びだ。
出張先の亀山市は四日市から距離がある。
わざわざ四日市に宿を求めたのも、駅前繁華街の規模で決めたのだ。
店が多ければ好みの店も見つかるだろうとの単純な判断である。
もちろん、今のご時世ならば名物料理だろうが、地方の銘酒だろうがインターネットですぐに手に入る。
だが、それではあまりに味気ないではないか。
旅先で食べたウマイものを自宅で食べてはありがたみが薄れてしまう。
……やっぱ、旅先での出会いも大切なわけで……個人でやってるような小さな店いいかもな……
浩一は面倒くさいタイプの男であった。
彼にとって名物とは、舌ではなく五感で味わうものらしい。
アーケード街はウイークデーということもあり閑散とした雰囲気だ。
あてどもなくブラブラと歩いていると、少し前の店から男女が出てくるのが見えた。
自由業風のジャケット姿の禿げたオジサンに、派手な格好の女……時計を見ると8時前、どうやら同伴出勤のようだ。
……ふむ、なるほど、女を誘うところを見るに、地元じゃウマイ店なのかもな……
浩一はベタベタとした仕草でオジサンに甘える女を横目で観察する。
まだ肌寒いと言うのに胸元は広く開いており、扇情的な姿だ。
お仕事ご苦労さんと内心で呟きながら、彼らが出てきた店と向かい合った。
旅先での食事……ある種の真剣勝負である。
黒いシックな店構えに紺色の暖簾。
外に立つオススメの看板を見るに地元の海産物を食べさせる店のようだ。
日本酒の種類も豊富なのが嬉しい。
……ふむ、これは……
浩一の中で勘が働いた。
三重県は松阪牛や伊賀牛などのブランド牛が有名ではあるが、海産物は豊富だ。
特に伊勢海老や的矢の牡蠣は名高い。
桑名の蛤なども有名だ。
……よし、ここだ、間違いない。あのオッサンを信じるとするか……
意を決し戸を開けると「らっしゃっせえぇー」と野太い男の声が浩一を出迎えた。
靴を脱ぐ玄関はピカピカに磨きあげられ、すぐに女性店員が迎えに出てきてくれた。
どれも浩一にとって好ましいものだ。
食い意地の悪いサラリーマンは『どうやら当たりだな』とほくそ笑んだ。