無極流兵法 ― 雨の日の邂逅 ―
土子泥之助が体験した、雨の日の武術的な出会い。
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無極流兵法 ― 雨の日の邂逅 ―
享保八年(1723) 、五月の声を聞き、空は五月晴れに澄み渡り、樹々は緑に萌え、爽やかな日和に江戸の街はにぎわっていた。
土子泥之助は、日本橋南の惣十郎町にある長屋の露地に立って大きく伸びをした。
空を見上げると、この所見る事の無かった、見事な朝焼けである。
これは、雨でも降るかな。
泥之助は、手早く用意を済ませ、長屋を出た。手には四尺刀と、番傘を持っている。
この所、出稽古に通っている、柳生新陰流の道場が神田明神の近くにあるので、行き慣れた道を歩く。稽古ばかりできちんとお参りしていなかった、明神様へ詣でようと思い立ったのである。
泥之助は、雨が嫌いではない。そぼ降る雨の音、雨だれの音、傘に当たる雨粒の音、それらを聞きながら過ごす一日は、心の休まる癒しの刻である。
神田明神へやって来ると、本殿に参拝した。祭神は、大己貴命、小彦名命、そして平将門である。
特に将門に武運長久を祈って、ふと振り向くと、どこかで見た事のある小男とすれ違った。少し歩いてから、小男の目つきで思い出した。
(俺が初めて日本橋を渡った時に、俺の懐を掏った奴だ)
見なりが地味なので目立ちにくいが、その眼光の鋭さは誤魔化せない。
(誰かを狙っているな)
素早くあたりに目を配ると、武家の女中らしき女が風呂敷包を抱えて納経所へ向かって歩いている。小男はその女に気配を消して近付いて行く。泥之助も、小男を追う。
女中が、顔見知りらしい社人に声を掛けたところで、小男は女の横を通り抜けた。右手を懐へ入れたまま足早に立ち去ろうとするのを、泥之助はその腕を捕らえた。
「何しやが…いてっ痛ててっ!」
小男が文句を言う隙も与えず、泥之助は小男の腕を懐から引っ張り出し、手首を極めた。その手から、紋所の入った袱紗包みが落ちる。
「お女中、これはそなたの袱紗ではござらぬか」
泥之助に声を掛けられ、社人との話に夢中になっていた女が、慌てて懐を改めた。
「何しやがんだよ、てめえ」
逆を極められながらも、小男は強がって泥之助を睨みつけた。が、すぐにはっとなった。
「思い出したか」泥之助は淡々と言った。「ひと月ほど前かな、お前にー文無しにされた者だ」
口調は静かだが、極める手に力を込めたので、小男は悲嗚を上げた。
「お前、名は?」
「す…捨吉だ」
「捨吉、いいか良く聞け。俺の金を返せとは言わぬ。しかし、今度また掏摸の現場を見つけたら、この手首を斬り落とすでござるよ」
優しい口詞とは裏腹の言葉に、捨吉は震え上がった。
女中が金子を確かめて安心した姿を確認して、泥之助は捨吉を解放した。
「これに懲りて、真っ当に仕事をしろ」
泥之助の言葉を背に、捨吉はほうほうの体で逃げ去った。
何度も何度も頭を下げる女中と別れ、泥之助は神田明神を後にした。山門をくぐった所で、果たせるかな雨が降り出した。
泥之助はにこりとして傘を広げた。まだ小雨なので、音はしないが、道や草が水気を帯びて、土臭さが身を包み込んだ。
「今日は何か良い事でも起こるかな」
先程の掏摸の一件など忘れて、泥之助はひとりごちた。
明神様の境内から、気配を潜めた男がついて来ているのは意識していた。筒袖の半着に軽衫、足元は珍しく靴を履いている。腰に鐔のない簡単な拵えの脇差、頭に編笠を被っているので、表情までは判らない。
その男の発する、殺気とは違う何かを感じながら、泥之助は歩を進めた。
泥之助は湯島聖堂の前を通り、神田川沿いに小石川の方へ向かう。こちらは、水戸殿の屋敷に始まり、武家の屋敷が軒を連ねる、閑静な場所である。人通りも少ない。
水道橋を過ぎて、水戸家江戸屋敷の長い塀に沿って歩くと、雨の中、他に往来の人も無い。
泥之助は、頃合いを見て振り返った。男も判っていたのであろう、少し距離を取って立ち止まった。
「ここらで良いでござるか?」
泥之助がそう声を掛けると、男はニヤリと笑った。
「先程、新陰流の道場へ行って来た。立花先生の処や」
男は突然語り出した。
「そこは、拙者が出稽古に寄せて貰っている道場ででござるよ」
泥之助が静かに返した。
「わしが行くと、生憎と先生はお留守でな」
「確か、今日は登城しておる筈でござる」
「成る程。そこで、一番弟子という、高幡殿に稽古をつけて頂いたんや」
「ああ、あの方でござるか…」
泥之助は、高幡の高慢な顔を思い出した。確かに一番古い弟子らしい。腕の方はからきしだが、態度だけはでかい。
「歯応えが無かったのでは?」
泥之助の言葉に、男は頷いた。
「確かに。あれでは人は斬れまい」
「立花先生の剣は活人剣でござる」
「では、お主はどうや?先程の掏摸をあしらった手際は、中々のものやったで」
「ご貴殿は、斬り合いに来たのでござるか?」
「いや。単に腕試しや。花のお江戸は強者が多い、と聞いたもんでな」
「そうでござったか」泥之助は少し緊張を解いた。「斬り合いというのでなければ、お手合わせも吝かではないでござるよ」
泥之助の言葉に、男はまた笑顔を見せた。しかし、眼は笑っていない。
「阿波、徳島は大和拳法(※1)、折野隆龍。参る」
折野は、編笠を投げ捨てると、腰の刀を地に置き、左前にゆったりと構えた。左手が腰の高さで前に伸びている。右手は壇中の前。足の幅もあまり広くない。
「ほう。無手でござるか」泥之助は少し驚いた。「奇遇でござるな。拙者も無手の方が得手でござるよ」
泥之助はそう言いながら、傘と四尺刀を脇に置いて、右前に構えた。肘を少し曲げ、右(前)に重心が乗っている。
「常州江戸崎、無極流兵法、土子泥之助。いざ」
二人の間に、目に見えるほどの緊張が走った。
先に間を詰めたのは、泥之助だった。
正面に踏み込むと、面を「霞」で突く(※2)。
折野は、肘を立てた手刀で打ち払う。手首の筋を斬るような、防御というより攻撃のような払いである。
泥之助が体勢を立て直すと、折野も構えを戻した。追っては来ない。
「そうか。受けと返しが主か。高幡殿は返しで一撃だったであろう」
そう言う泥之助に、折野は笑っただけだった。
泥之助は今度は左足から踏み込むと、左右の拳を連撃した。折野は左の手刀一本で外へ払い、体を急激に開くと、右膝を落としながら右の突きを胴に放った。泥之助は払われた右手を廻してその突きを払い、その流れで右の突き蹴りを返す。折野はやはり払われた右手で足を払うと、素早く体を返して左で面を突いた。泥之助は上体を屈して突きを避けつつ、払われた足を踏み込み、それを軸に回転すると、左足で折野の左足を払い蹴った(※3)。堪らず前へ崩れた折野は泥之助の背を掴んでこらえる。折野の伸びた左腕を捉えると、泥之助はそのまま背負い投げた。折野は投げられる一瞬自ら地を蹴り、宙で体を返して足で地に立った。泥之助の手を払い、少し間を取る。
「見事なり無極流」折野は感嘆して言った。「これほどの使い手が居ようとは」
「大和拳法こそ」泥之助も驚愕していた。「無手でここまでの手練れが居るとは」
お互い楽しげに笑うと、同時に間を詰めた。
泥之助は右中楔(※4)を折野の人中に放つ。折野はそれを軸を外して躱しつつ左の横突きを放った。それは面ではなく、泥之助の胸の筋を狙ったものだった。躱し損ねてまともに中指一本拳を受けて、腕全体が重く痺れた。返しの右突きを下から跳ねようとして、右手を動かすと筋に痛みが走って動きが止まった。
泥之助の頬を、折野の右横突きが捉えた。泥之助は首を捻りつつ自ら跳んで力を逃がした。足を踏ん張って構えた泥之助の口の端から、血が一筋流れた。
「楽しいなあ」
泥之助が笑った。
「楽しいなぁ」
折野も笑った。
そこへ、男が八人ほど走り寄って来た。いづれも侍で、三人はところどころに包帯を巻いている。
二人の姿を認めると、彼らは一勢に抜刀した。
「何だ、あの者共は?」
泥之助は口あんぐりで呟いた。
「恐らく、今朝行った、神道春雨流の奴らやな」
「何だ、道場破りのはしごをしたのか?」
泥之助がそう言った時に、男達が前にやって来た。
「折野!お前をこのまま帰す訳には行かぬ。覚悟しろ!」
「まあ待て。交流の一環として、実際に仕合ってみたまでや。お主らには何の恨みもあらへん。気にしぃな」
「ふざけるな!面子を潰されて、引き下がれると思うか!」
「大勢で取り囲む事で面子を保てるとは思わないでござるよ」
泥之助は思わず口走った。
「そやな。エエこと言うわ」
折野も頷いた。
「やかましい!お前ら二人とも始末してやるわ!」
「理不尽な事を申すな。お主、春雨流の間垣殿であろう。このような卑怯な振る舞い、流派に泥を塗り申すぞ」
「問答無用!」
間垣が斬り掛かって来たので、泥之助と折野は素早く離れると、互いの刀を取りに走った。
泥之助は刀を拾い上げると、背後から追いすがる男に片膝の抜き打ちで一閃させ、両脛を斬った。刃が骨に当たる感触に、手の内を弛める。そのお陰で、男は両脚を失う事は避けられた。
泥之助はゆっくりと立ち上がった。
「拙者はお主らと争うつもりはいささかも無い。だから、刀を引いてくれ」
流石に、偶々一緒に居たというだけで斬り掛かる事に抵抗があるのだろう、男達はお互い顔を見合わせてから、刀を納めた。
「すまぬ、恩に切る」
泥之助は小さく頭を下げると、折野のもとへ走った。
間垣と二人の門弟は、殺気立って折野に刃を向けていた。他の者は、顔見知りでもある泥之助を見て、既に刀を引いている。
「間垣殿、その者は田舎から腕試しに江戸へ出て来たのだ。それに対して刃傷沙汰とはいささか大人気ないのではないか?」
「黙れ!」間垣は目を血走らせて怒鳴った。「このままでは、男の一分が立たぬ。邪魔立てするなら、お主から斬る」
「おいおい、何をそんなに殺気立っておられるので…」
そう言いかけて、泥之助はギョッとなった。間垣の内で、もの凄い殺気が膨れ上がったのだ。
頭を下げつつ刀で受けに行ったところ、切っ先二寸ほどを斬り飛ばされた。間垣の門下の者達も、思わず声を上げた。
「あれが鉢割か」
泥之助は胆を冷やした。神道流奥伝の「平字兵法」第一の奥技である。
「今度邪魔立てしたら、その素っ首を飛ばす」
間垣は泥之助を睨みつけた。その眼を見て、泥之助は己の不明を恥じた。如何に邪まな理由であっても、間垣は本気である。対して己はどうか。傍観者を決め込んで、気を抜いていなかったか。武士たるもの、如何なる時も油断は禁物である。
「ありがとう。間垣殿。お陰で目が醒め申した」
泥之助はそう言うと、刀を鞘に納め、道端に置くと、改めて声を上げた。
「土子泥之助、義によって折野殿に助太刀いたす」
「何だと?」間垣は目をつり上げた。「お主には関係ない。引っ込んでいてもらおうか」
「一人で道場に乗り込んで来た者を、仕合いに負けたからと、大勢で取り囲む者の言い分など聞きはせぬ」
「何?」
「それに、今、折野殿と仕合っているのは拙者なのだ」
「まあ待たれよ」折野が口を開いた。「お志はありがたいが、間垣殿との仕合いは、わしが始末をつける」
「判った。では、そこの二人、拙者がお相手いたす。参れ」
泥之助は手を差し伸べ、指をこまねいた。
「何を!」
「我ら二人を相手に、無手で、だと!」
舐められたと思い、門弟二人は声を荒らげた。対する泥之助は涼しい顔だ。
「猪井勝之進、参る!」
猪井は名乗りつつ、既に大上段に振り上げていた。
泥之助は斬撃を見切り左に一歩出て身を躱し、目の前にある右肘に左の平槌(※5)を打ち込んだ。猪井は肘を痛めて刀を取り落とす。泥之助は今度は右に一歩体をずらしながら、左手刀で首筋を打ちつつ、左足で猪井の右足を引っ掛けて(※6)地面に転がした。右肘を庇って受け身が取れず、猪井は頭を打って脳震盪を起こした。
もう一人は名乗らなかった。ただ、青眼に構えて泥之助を正面に見据えた。
こういうのが一番厄介だ。
泥之助は敢えて構えず、自然体で立った。左右どちらの斬撃にも反応出来るよう気を張る。
「だっ!」
門弟は突いて来た。意表を突いた攻撃だったが、泥之助はその場に座り込み、飛び込んで来た門弟を蟹挟みで地面に倒した。その足で鳩尾を打ち(※7)、戦闘不能にする。
泥之助は立ち上がると、折野に近付いた。折野の左頬には、薄く血が滲んでいる。
「道場の木刀と真剣刀術の違いを思い知ったか」
間垣が目を吊り上げて言い放った。
「成程。良く判った。わしもきちんと本気を出そう」
折野がそう言って構え直した所へ、泥之助が声を掛けた。
「折野殿」
おう、と応えた折野に、泥之助は彼の脇差を投げた。折野は発止と受け取ると、ぐいと腰へ差した。
「忝ない。これで"対等"や」
折野はそう言うと、やはり左前に構えた。刀は抜かない。
折野が刀を手にした事で、間垣は一旦間合いを取った。
(居合いか?しかし、脇差、しかも逆足)
「来おへんのか?ほんならわしから行くで」
折野は言うなり、一見無防備に歩を進めた。
思わず間垣は引いてしまう。
「何や。お礼参りに来たくせに、及び腰やないか」
折野のこの挑発に、間垣は羞恥が怒りに転化した。左足を一歩進め、右八相に構える。
「チェイッ!」
必殺の気合いで、間垣が右袈裟に斬り込んだ。折野は紙一重でかわす。その剣先が素早く返って、左袈裟に斬り込んで来る。折野は間垣の左側へ潜るように足を運び、死角を取ろうとする。
貰った!
左袈裟は、必殺にして布石である。間垣は、折野の胴を両断する心算で左一文字に剣を薙いだ。
折野はそれを読み、脇差を抜き掛け、斬撃を受け止めた。動きが止まった機を捕らえて、左廻し蹴りを間垣の腹にぶち込んだ。脛全体で蹴る、古流には珍しい形だが、その威力は大きかった。丸太で殴られたような衝撃に、間垣の体が二つに折れる。折野はそれを許さず、下から間垣の顔面を突き上げた。
鼻血を吹いて顔を上げた間垣に、右、左と正拳を当て、最後に右かぎ突きで地面に殴り倒した。間垣は気絶して、二度と立ち上がっては来なかった。
「終わりだ。人目に触れない内に、引き上げる方がよい」
そう言う泥之助の言葉に頷き、門弟達は間垣を担いで帰って行った。
それを見送りながら、泥之助は小さく溜め息をついた。そこへ、折野が近付いて来た。
「今日は色々を迷惑を掛けた。済まなんだな」
「全くでござる」泥之助は笑って言った。「しかし、この度は拙者も良い勉強になったでござる。武士たるもの、常に斗いに備えておかねばならぬ、と痛感したでござるよ」
泥之助は刀を抜いた。彼の四尺刀は、二寸ほど斬り落とされ、折り返しが見えていた。
「春雨流、侮り難し、やな」
その斬り口を見て、折野が呟いた。
雨はかなりその強さを増して、二人を容赦なく濡らして行った。
(これは、魚十のたまご焼き(※8)でも土産にして、鍛冶屋に行かねばな)
雨に濡れながら、泥之助はそんな事を考えていた。
終
20171014了
註
※1 大和拳法 徳島藩御留武術。文献でもあまり目にする事がないが、筆者は目録を見たし、修行者を知っている。
※2 無極流兵法「霞」。五指を拡げて顔を払うように突く。目つぶしを主目的とする。
※3 鶺鴒返下段。上、中、下があり、下段は所謂「後掃腿」となる。
※4 中楔 無極流の、中指一本拳を指す。
※5 平槌 無極流の正拳を指す。
※6 無極流兵法「翻身崩し」
※7 無極流兵法「蠍捕り(表)」
※8 神田 通油町の仕出し料理屋 「魚十」。幕の内弁当と甘い玉子焼きで有名(元禄より)