Sweet Sweet Habit
トリプルアイストリオ。
これが私たち三人きょうだいのあだな。あだなと言っても同じクラスのアリスが勝手にそう呼んでいるだけだ。アリスの本名は渋沢みやびって言う。どうしてアリスなのかっていう説明はあとに話すとして、まずはトリプルアイストリオの説明をしよう。
「バーニ、正門にあんたの兄貴の車が停まってるよ」
六限目の家庭科の授業が終わって被服室から教室に戻ってくると、日直で一足早く教室についていたアリスが、窓の外を指しながらそう言い、私は慌てて窓の外を覗きこむ。正門の横に停まった真っ黒な外車はとても目立っていて、私はいつものように深い溜息を吐いた。
「バーニの兄貴って父親の会社継いで社長になったんでしょ。すごいねぇ、羨ましい限りじゃない。度が過ぎるシスコン以外は」
「あんた絶対おもしろがってるでしょ。アリス」
「だってあんたんところのきょうだいって最高じゃん。なんたってトリプルアイストリオなんだから」
「その言い方やめてって今日までで二万回は言った」
アリスは「早く行ってやれって。愛しのお兄ちゃんが待ってるぞ」と茶化す。
「いつかしばくっ」
「あ、それからさぁ」
アリスは言いながら携帯電話をいじる。
「ミーさん、今日うちのアトリエで洋子姉と一緒に作業するから泊まっていくってさ」
ミーさんとは私の姉のことで、洋子とはアリスの姉のことだ。二人は同じ専門学校に通っていて、仲の良い親友らしい。
「げ、じゃあ今日あのシスコン兄貴と二人だけ?」
「ミーさん、あんな兄貴がいたんじゃ作業がはかどらないんじゃない?だってあと一週間だし、文化祭まで」
「そうだけど、なにもここの在校生じゃないんだから作品を出展する必要なんてないのに」
文句を口にする私に、アリスは「いいじゃない。ミーさんが好きでやってることなんだし」と妙に分かったように言う。時々、私よりもアリスのほうが姉のことを理解しているような気がして、ちょっと嫉妬心を抱くことがある。それだって私は姉にコンプレックスを持っているからこそ抱くものだ。
「しょうがない、今日は兄貴の嫌いな茄子をたっぷり使ったディナーを用意してやる」
アリスが携帯電話を閉じて苦笑する。
「あんたってつくづく陰険だよね」
そうそう、それで、どうして私たちきょうだいがトリプルアイストリオなんてあだなのかって話。それもこれも、甘いもの大好きなばか両親がつけた名前に問題がある。会社では社長を気取っているけど家に帰れば甘々のシスコンばか兄貴の橘最中、デザイン専門学校に通う聡明な姉、橘民都、そして普通で平凡な高校生の私、橘羽二良。つまり、トリプルアイストリオとは、私たちきょうだいの名前に共通することを言っているのだ。
「羽二良、なにかほしいものあるか」
「ない」
「だったら食べたいものあるか」
「ない」
「なんでもいいんだぞ。民都は今日友達のところに泊まってくるって言うじゃないか。せっかくだから食べに」
「いかない。帰ったら私がご飯作るから。民都の作り置きがなかったらね」
「羽二良が作ってくれるのか。だったらお兄ちゃんなんでも嬉しいぞ」
「ちなみに今日の献立は茄子のお吸い物に茄子のお浸しに茄子の丸焼きに白いご飯。以上」
「……むごい」
低いエンジン音を響かせながら、赤信号で車が停まる。助手席に座っていた私は窓の外を眺めながら言った。
「最中さ、迎えはやめてって何回も言ったよね。恥ずかしいんだよね。普通に考えて年頃の妹を車で、しかく外車で迎えに来るってどうかしてるよ。ありえないから。今度そんなことした私黙って裏門から帰るからね」
「だって、最近世の中物騒だしなぁ」
「あんたが一番物騒だ」
「じゃあ迎えは控えるから茄子の献立は考え直して」
「だめ」
信号が青に変わり、かごめかごめが鳴り響く。ゆっくりと車を発進させて、私は通り過ぎている見慣れた街並みを見つめていた。
「民都、最近学校の課題よりも羽二良の文化祭に出展させる作品に力を入れてるな」
最中の言葉に私は黙ったまま目を瞑る。
「なかなか忙しそうだな」
「それがなに」
「え?」
「それがなんなの?私たち、三人暮らしになったときから互いに干渉はしないって決めたじゃん。今更なんの理由があって文化祭に作品を出展するのかは知らないけど、民都の勝手だよ。別に興味もないし、関係もない」
言ってから、なに言ってんだろって気付いた。なにむきになってんだろって。これじゃあ、民都に構ってもらえない自分が苛立っているって最中にはすぐに分かる。だけど、最中は前を見据えたまま「そうだったな」というだけで、あまりの反応の薄さに私は拍子抜けした。
「買い物するからスーパー寄ってよね」
「茄子買う気……?」
「あたりまえ」
二年前、両親が海外出張中に事故で亡くなった。私は受験を控えた中学三年生で、民都は専門学校に入学したばかり。最中は大学三年生で、あと一年の大学生活を経て父親の会社の跡を継ぐということになっていた。両親が亡くなって、私たちは個々に苦労を背負うことになった。私は私立の志望校を諦めて、都内の公立高校に進学した。民都は、アリスの姉で、高校からの友人である洋子さんと一緒に喫茶店でバイトをはじめ、学費は自分で荷担している。最中は大学を中退し、社員の批判も相次ぐ中で父にかわって会社を継いだ。両親の死で私たちの進む道は色々と険しくなった。だけど、そのぶんきょうだいの結束は固くなったと思う。
スーパーの地下駐車場に車を停めたと思うと、後部座席に置いてあった最中の仕事用の鞄から携帯電話の着信音が鳴った。
「最中、電話鳴ってるよ」
「あ、悪い、ちょっと取ってくれ」
言われて鞄のポケットに入っていた振動している携帯電話を取っても中に渡す。最中はそれを受け取って液晶画面に表示された番号を見ると、ばつが悪そうに顔を顰めた。その顔で、相手が誰なのか私はすぐに悟る。許婚の令嬢様だ。その人の父親が経営している会社とは持ちつ持たれつの関係らしく、親同士が決めていた婚約を、両親が亡くなった今でも解消できないでいる。
「もしもし」
あきらかに不機嫌そうな様子で電話に出た最中は、エンジンを切ってキーを抜いた。最中は家とは違って仕事場ではかなり冷めた性格で通しているらしい。令嬢も仕事でしか見せない最中のクールな一面を気に入って、婚約の解消は拒否し続けている。
「その日はだめだ。取引先との先約が入っている。ん?ああ、いや、それもだめだ」
許婚の名前は梨江子さんと言う。一度だけ、最中が会食に誘われてついていったときに見かけたことがある。素朴だけが取り得な私とも、落ち着きがある民都とも違って、なんていうか、まるで背中に羽根でも生えているんじゃないかと疑うくらいの絶世な美女だった。聖母様と言うべきか、女神と言うべきか。なんていうか、とても儚い感じがした。容姿端麗なのに尖ったところがなくて、女性らしい丸みな雰囲気も持っている。そのときは軽く挨拶を交わしただけだったけど、私も民都も、この人が将来最中のお嫁さんになって、私たちの義姉になるなんて信じられない話だと、そのときは腰が引けてうまく喋ることができなかった。
「今は納期の時期で忙しい。とうぶんは無理だ」
一方的な形で最中は電話を切って仕事用の鞄に携帯電話をしまうと、財布を取り出して車から降りる。私も慌てて助手席から降りた。最中が梨江子さんと電話するときは、「だめ」か「無理」しか聞いたことがない。そんな冷酷な奴のどこに梨江子さんは惹かれたのか、私にはさっぱり理解できないけど、ただひとつ言えるのは、梨江子さんは最中を諦めるつもりはないってことだけだ。これだけ突き放されても毎日のように電話をしてくる梨江子さんは、とても強いと思う。
「辛抱強いよなぁ」
「なにがだ」
「最中には一生分かんないよ」
是が非とも、梨江子さんには頑張ってほしいものだ。このばか兄貴の目を覚まさせてやってほしい。一番大事にしないといけないもの、それは度が過ぎる妹への愛情ではなく、ただ一人の女を愛するということ。こんなこと民都に言ったら、高校生の分際でって言われるんだろうなぁ。
「そういえば、羽二良は文化祭でなにをするんだ」
「クラスでは肝試しをすることになってるけど。私自身は有志の活動はなにもしないよ。ただでさえお化け役の衣装作りで忙しいのに」
ちなみに演劇部のアリスは今回肝試しには不参加だ。
「そうか」
「最中は文化祭見にくるの」
「一般の人が来れるのは確か文化祭の二日目と三日目だったよな」
「うん。一日目は学校内で生徒だけの活動だから」
エレベーターに乗り込み、最中は食品売り場のある一階のボタンを押しながら、しばらく考えて言った。
「三日目なら昼から時間とれそうだな」
「私、三日目はなにも仕事ないから民都の作品を見に行くつもりだったけど、丁度いいじゃん」
「そうか。じゃあ、案内頼むぞ」
「たこ焼きと焼きそばとたい焼きで手を打とうじゃないか」
「焼き物ばっかりでくどそうだな」
買い物を終えた車の中で、ふと最中は呟いた。
「民都が創作している絵の題名、知ってるか」
私は買ったばかりのアーモンドチョコレートの封を切りながら無言でかぶりを振る。
「最愛、だそうだ」
「うわ、それはまた民都の考えそうな乙女の入ったタイトルだね」
アーモンドチョコを口に含みながら、溶けていく甘さに私は舌鼓を打つ。すると、いつになく真剣な様子で車を走らせながら最中はハンドルを握る手に力を込めた。
「覚えてるか。二年前、親父たちがなくなる少し前に民都のしでかしたこと」
言われて、私はすぐに肩を竦めた。忘れるわけがない。二年前のそのときに民都がしたことを。
「覚えてるけど、それがなに?今更昔のことなんか持ち出す必要ないでしょ」
私は少し憤慨したように言う。生真面目で、自分のことよりも他人のことを優先して考える優しい民都のたった一度の過ち。それが大きいだけに、今ではその話を持ち出すことは、暗黙の了解としてタブーになっている。最中だって、意味もなくその話を持ち出すと私は思っていない。だけど、口に出すことは許さない。それが唯一、民都を傷付ける発言だからだ。
「最愛という意味を、民都は誰に向けて伝えていると思う」
「え……?」
「在校生でもないのに文化祭への出展にこだわるのは、最愛という意味の込められた作品が、あの人に対するものだから。そう思わないか」
最中の意見を否定できずに、私は口の中でチョコのなくなったアーモンドだけを転がしながら黙り込む。
「もしそれが本当なら、民都はまだ気持ちに諦めがついていないってことなのかな」
「さあな。こればっかりは民都自身の問題だから」
「最中は時々、突き放したようなことを言うよね。普段民都に頼りっぱなしのくせに、肝心なときに手を貸さない」
「民都は俺たちきょうだいの中で一番自尊心が高いんだ。変なところで兄貴ぶって首を突っ込めば、火に油を注ぐだけさ」
「痛い目みるってことか」
「自覚がないわけじゃないだろ」
「確かにね。民都が悩んでることにでしゃばったときは一週間くらい口聞いてくれないときがあったよ。あれは結構辛かったなぁ」
「大人しい奴がきれると恐いっていうのはどうやら本当のようだからな。だから、民都がやっていることにどうこう言うつもりはないよ」
「でも、それで民都が自殺なんかしたら最中のせいだからね。私、一生最中を恨むからね」
「わー……それは実に怖そうだ」
再びシートの上の鞄から、電話の鳴る音がする。
「梨江子さんじゃない」
「一日に一回出れば充分だ。出る必要なし」
「そんなんだから結婚できないんだよ。行き遅れても知らないから。あとになって女の子紹介してって言われても絶対に嫌だからね」
「妹に仲人してもらうほど落ちぶれちゃいないよ。それと、結婚できないのは俺のせいじゃない。梨江子がしつこいせいだ」
「だけど、梨江子さんくらい美人な人って世の中そうそういるものじゃないと思うけど。最中だってそんなきれいな人に言い寄られてまんざらでもないんでしょ」
「ああいうのはだめだ。完璧すぎて腰が引ける」
「ふーん、腰がねぇ。で、たつものもたたないんだ」
「羽二良ちゃん、お願いだから下品なこと言うのはやめなさい」
「ふん、ま、最中じゃ梨江子さんとつりあわないけど。顔だって中の下って感じだし。社長だからってお金持ってるわけじゃないし。持ってても使わないしね。ケチだもんね」
と言い合っているときでも電話はなり続けている。コールの途切れる気配はなかった。
「出てあげれば」
「出たら一日三回電話がかかってくるようになる」
「梨江子さんって結婚したら絶対亭主を尻に敷くよね」
「だからあいつとは結婚したくないんだ」
同時に、電話の着信はやんで、車内が静かになった。
二年前の冬、居間で両親と、民都と民都が通っていたときの高校の理事長と担任を交えた話し合いを垣間見てしまったことがある。父は民都に平手をくらわし、母が泣きながらそれをとめる。理事長は深く頭を下げ、担任は殴られた民都を庇っていた。
父が怒ることは滅多になかった。しかもできのいい民都には溺愛していたし、私や最中が注意を受けることはしばしあっても、民都が怒られる絵図なんて、私には想像もつかなかっただけに、その垣間見てしまった光景は衝撃過ぎて、今も脳裏のどこかに焼きついている。父の最後に見た印象が、民都を叱っている姿だなんて、なんだか悲しい。だけど、父は民都のことを思っていたからこそ、あれだけ厳しく怒ったんだと思う。
たまねぎを刻みながら、勝手に流れる涙を必死に殺して、私はそんなことを考えていた。最中の強い要望で作ることになったチキンライスのオムライスは、とても味気のないものになるだろう。作る人が楽しくやらないで、どうしたら作った料理がおいしくなるというのだ。テーブルの上で新聞を広げながらボールの中で卵を溶いていた最中が、沈んでいる様子の私に気付いて聞いた。
「気がかりか」
「なにが」
「民都のこと」
「別に。終わったら卵貸して」
「つれないなぁ」
「なによ、これは民都自身の問題だって言ったのは最中のほうでしょ」
最中の差し出したボールを受け取り、細かく溶かれていないボールの中の卵を、私はかき混ぜなおす。
「まあな。だけど、俺はあいつを許してはいないよ」
「やめてよ。もうこの世にいない人に恨みなんか持つの」
「羽二良だって本当はそうなんだろう。俺は、民都の最愛という気持ちを投げ捨てたあいつを絶対」
「やめてってば!」
卵を溶く手を止めて遮る私に、最中は新聞を折りたたんだ。
「民都を突き放しているのは羽二良のほうじゃないのか」
「……は?」
怪訝な顔をする私から視線をはずして、最中は新聞を持ったまま立ち上がった。
「そうやって、二年前にあったことを羽二良は考えないようにしている。それはつまり、民都自身のことを考えていない証拠だ。あんなことがあってから父さんも母さんも亡くなって、民都が自責をしなかったと思うか」
「自責って……。お父さんもお母さんも別に民都のせいで死んだんじゃない。事故だったんだよ。不幸な、事故……」
「人間な、後悔をするときは必ず自分を責める。事故だったとはいえ、あんなことがあったすぐだ。少なくとも民都はなにかしらの罪悪感を抱いただろう。そのことだけは分かってやらないといけない」
私は自分の幼い考えに羞恥を覚え、顔を伏せる。私のように民都の傷に触れないようにとしていたことが、逆に民都のことをなにも考えていなかったことだと思い知らされて、悔しくもあったし、恥ずかしくもあった。
「さすが、長男だね。ただのシスコンかと思ってたけど、ちゃんと民都のこと見てたんだ。民都は私たち三人の中でも、なんていうか、一番繊細だから私が守ってあげないと、なんて思ってたのに、ばかだね、私。民都のこと理解するの、無意識のうちに避けてたなんて」
「別に、羽二良が悪いって言ってるんじゃない。羽二良のような遠目から見守る方法だってある。それが一番簡単なことだ。自分も傷つかないし、相手も傷つかない。実際昨日民都の作品に関して今みたいに突っついたら、霰の入った缶の蓋で思いっきり頭を叩かれたよ。何個か脳細胞死んだな。あれは」
叩かれた頭を掻きながら緊張感の欠片もないへらへらとして顔で笑う最中に、私は少しでも最中に対して憧れの感情を持ってしまったことに後悔の念を抱き、やっぱりただのばかだ。と思い直した。
フライパンに油をしいて火をつけようとしたとき、家の電話が鳴り響いた。新聞を棚に戻そうとしていた最中が電話に出る。勧誘かなにかだろうと気にせずにフライパンに火をつけた途端、最中が電話の受話器を押さえながら「羽二良、みやびちゃんからだよ」と言った。
私は慌ててフライパンの火を切って、最中から受話器を受け取る。コードを指でなじりながら「もしもし」と電話をかわると、さっそくアリスの嫌味が飛んできた。
「あーごめんね、お兄ちゃんとの時間を少しばかり邪魔するよ」
「あ、切るよ、切っていいんだね。即行で」
「わ、ちょっと待ってって。冗談だから、冗談」
「うるさい。早く用件を言いなよ」
「あんたはもう少し友達と長電話するってことを覚えたほうがいいかもね」
「あんたが相手じゃ話題なんてないでしょ」
「さらっとひどいこと言うね、あんたも。まあいいや。とりあえず電話したのはさ、ちょっとやぼな頼みごとでさ」
「明日は一限目から遅刻しないように早く寝ることだね。じゃあ」
「なにごく普通な形で切ろうとしてんの」
「やめて。今やぼなんてこと押しつけられたデリケートな心が壊れてしまう」
「黙れい。お前ほど図太い人間おらんわ。まっちゃん先輩からのお願いなの。文化祭で発表する今度の劇の主役級の人が舞台のセットで躓いて足捻っちゃったみたいでさ。代役としてあんたに頼みたいって」
「は?やだよ」
「うわ、血も涙もない」
「だいたい主役級ってなんなの。そんな大役一週間で勤めることできるわけないでしょ」
「主役級っていうのは、ようは主役の次に大事な役のことだよ」
「そんくらい知ってるっつの。なんだ、われ。ばかにしとんのか」
「落ち着いてって。お願いだから、頼める人がいないんだって。去年の舞台だってバーニが助っ人で入ってくれたとき、大成功したじゃん」
「助っ人っつーか、不思議の国のアリスでうさぎが捕まる設定ってありえないから」
「脚本書いたのはまっちゃん先輩だもん。文句があるならまっちゃん先輩に」
「言えるか。そんなことしたらどんな脚色されて、どんなひどい役をやらされるか。考えるだけでもおぞましい。あのサディストめ」
「そんじゃあ最初から断るつもりないんでしょ。バーニって頼まれると断れない人種だもんね」
「せめて性格と言って」
みやびがアリスと言われる理由は、去年大盛況だった「不思議の国のアリス」もどきと思われる、演劇部部長の松平先輩が脚本を勤め上げた「不思議の国でつかまえて」という舞台にある。
内容はこうだ。世界のどこかに(超漠然)少々サディスティック気味のアリスという一人の少女と、人語を喋るアリスと主従関係にあったうさぎのペソ(ペソってなんぞや)が紡いでいくハラハラドキドキの不思議満載コメディ☆みたいな感じだ。脚本を渡されたときにその場でそれを引き裂いてやりたい衝動に駆られたことを今でも鮮明に覚えている。言うまでもなく、アリス役がみやびで、ペソなるうさぎ役が私だ。アリスのサドに耐え切れなくなり、逃げ出すペソ。その途中、不思議の国へと繋がる穴に落っこちてしまう。ペソを連れ戻して服従をさせるため、アリスもペソを追う形で不思議の国へ。
「ちなみに、またへんてこなもどきじゃないよね。私いやだよ、また惨めな思いするの」
舞台後にペソと呼ばれた屈辱、忘れるはずがない。アリスと呼ばれるみやびはのりのりだったけれど。
「大丈夫。今度のは完全オリジナルの、しかも涙の感動作」
「へえ、あの漫才みたいな脚本しか書けなかった松平先輩が?」
「あのね、人を泣かすことより、人を笑わせることのほうが難しいんだよ。それを容易にやってのけるまっちゃん先輩はすごいんだから」
「恋人にすごいってこと、よく平気で言えるよね」
「だってほんとのことだもーん」
「もーん、じゃない。松平先輩に言っといて。今日中に私の役のセリフをファックスで送っといてって」
「お、やる気だね」
「やらないと来年も借り出されそうだからね。それと、練習には顔出せないから。ぶっつけ本番。どうなるかは分からないから覚悟しといてって」
「え、まじ?」
「おお、まじだぜ」
「うー……ん、まあ、やってもらうだけありがたいしね。とりあえずまっちゃん先輩にはそう通しておくよ。でもさ、ちょっとでも暇だったら稽古に出てきてよね。特にまた私と絡む場面が多いんだから」
「アリスとの絡みに練習なんて必要ないでしょ」
「まあ、その通りなんだけどね」
こうなればやけだ。もやもやと民都のことを考えていても埒が明かない。クラスの肝試しと舞台とで文化祭の三日間を一気に越そう。
アリスとの会話を終えて受話器を置くと、いつの間にかチキンライスを炒めている音がしていて、見ると最中が煙草をくわえたまま、軽やかにフライパンを動かしていた。
「なにか頼まれたのか」
「え、ああ、うん。ちょっとね。アリスが入っている演劇部で舞台をするらしいけど、その中の役の一人が怪我をしたから代役をやってほしいって」
「お、なら去年は見にいけなかったから今年こそお兄ちゃんは見にいくぞ」
「来なくていいから。来たら晩飯、茄子尽くしにするから。生き地獄にするよ」
青褪めた顔で「うっぷ」と気持ち悪そうにしながら、最中は炒めあがったチキンライスを器に盛った。
当時担任だった教師と、民都は一線を越えた。腹に子を身ごもり、民都は生むと頑なに譲らなかった。だけど両親はそれを許さなかった。私と最中はそのことに関しては民都本人に直接触れることはなかった。一時期民都は不登校という状態になり、部屋から出ることも少なくなった。そんな民都の鬱状態が続いていたとき、担任だった教師が生徒と関係を持ってしまったことを後悔したのか、自室で首を吊って自殺をしたということが報道された。遺書には、「愛してはいけない人を愛してしまった」と、まるで純愛小説にありがちな文面が書かれていたらしい。そのことを知った民都は、父親のいない子供を生むのは可哀相だとして、身ごもっていた命をおろしてしまった。そのときの民都の顔といったら忘れられない。泣くでもなく、喚くでもなく、ただ静かに、その時点で起こっている悲しすぎる現実を受け止めていた。そのときの民都の覚悟は私ではきっと計り知れないものだろう。
「文化祭まで三日を切ったんだから、今日こそは稽古に付き合ってもらうよ。引き受けたからには舞台の失敗は許されないんだから」
帰る支度をしていた私の席の前でアリスが仁王立ちをする。私はアリスを見上げて、鼻で溜息を吐いた。
「今日は帰ったら再放送のドラマを見るつもりなんだけど」
「ドラマ優先ってありえないから。ほら、立って。部室まで来てもらうよ」
「えー……」
「えーって、あんたろくに練習もせずに引き受けて、それで失敗して恥をかくのは自分だよ」
「そんなこと言って、アリスはなにかと助けてくれるし」
「そうしないとまっちゃん先輩が書いた脚本に泥を塗ることになるからね。決してあんたのためじゃないよ」
「ふぅーん、あんたでも恋人に気を遣うことってあるんだ」
「もってなんだ」
「もってことだ」
「屁理屈はいいからさっさと来る。あとでサーティーワンに寄ってアイスのトリプル買ってあげるから」
「なにそれ、嫌味?」
「違うって。感謝の意味で。なに、いらないの」
「いるに決まってんじゃん」
「アイスが好きだって素直に言えばいいのに」
呆れるアリスの言葉を無視し、私は鞄を持って席を立った。
演劇部の稽古場は、一階の、今は使われていない視聴覚室だ。半年前までは三階の空き教室を使っていたのだが、発声練習や立ち稽古が下の階に響き、すぐ下の教室で活動している茶道部から苦情が相次ぎ、仕方なく一階へと移動したのだ。
アリスとともに視聴覚室の前まで来ると、すでに稽古がはじまっているのか、中からけたたましい声が響いてきた。
「あのさ、アリス」
「なに。ちなみに舞台のあらすじは知ってるよね」
「いやいや、知らないから聞いてるんだけど」
「まっちゃん先輩に教えてもらわなかったの」
「ファックスで送ってもらったのは私のセリフだけだもの」
「ちなみに今のセリフ、あんたの見せ場のセリフだからね」
教室の中で叫ばれている泣きが入った声を聞いて、唖然とする間もなくアリスが扉を叩いた。
「失礼しまーす。先輩、バーニを連れてきましたよ」
「おう、やっと来たかペソ!ペソのくせに練習をさぼるなんていい度胸してるじゃないか」
「ペソじゃないです。何回言わせんですか。羽二良です。代役を蒙りますよ」
「なに、ペソのくせに生意気な」
「くせにってなんだ、くせにって。自分の作ったキャラに愛情持てや、こら」
「アリスには萌えるがうさぎには興味ない」
「それって軽く私という人間の人権侵害だよね。そうだよね、これ」
「それではペソも来たところで打ち合わせの再開だ!」
「あんた人の話聞く気ねーな!」
まっちゃん先輩こと松平定則は、短髪を金色に染め、左右の耳にピアスを三つ、眉毛はほとんどなしの、外見は誰がどう見たって性質の悪い不良だ。そんな風貌の松平先輩から発想される物語は、毎年飛躍しつつあり、文化祭の名物ともなっている。しかも今年は涙の感動作と言うじゃないか。さじを投げにくる人もいるだろうに、なぜ三年の最後の文化祭で涙ものの感動作を舞台でやろうというのだろうか。
松平先輩とアリスを含めて演劇部は六人で編成されている。毎年のように借り出される私も含めると七人だ。脚本、座長を務める三年部長の松平先輩、そしてその恋人で、ヒロイン役が多いアリス、そしてこの場にいるのは、松平先輩と同級生の今回足を捻って降板だという宮野先輩(松平先輩に負けず劣らずのゴーイングマイウェイ)と、一年の(舞台上に必ず一人はいるはずの変質者役が多い)加美奈君、最後に私とアリスの同級生で隣のクラスの真知子ちゃん。ちなみに真知子ちゃんは音楽や証明といった裏方の仕事が多い。
「俺とみやびとペソと、宮野と加美奈と真知子の六人か。あとはノブだな」
ノブとは、松平先輩と宮野先輩の同級生である伸之さんのことだ。役でいうと……松平先輩と宮野先輩が暴走をはじめないためのセーブ役ってところだろう。なかなか、影の苦労者だ。成績も性格も良くて、後輩に優しい伸之さんがどうしてアホ平、じゃなくて、松平先輩みたいな調子者に付き合って演劇部にいるのか、そこが非常に疑問なところだった。
「あいつは生徒会だから仕方ないか。ノブなしでも打ち合わせをはじめよう」
ちなみに伸之さんはこの学校の生徒会長だ。その権限もあってか、たった六人しかいないのに、この演劇部は注目の的となっている。
「羽二良ちゃん、ごめんねぇ、また今年も迷惑かけちゃって」
人のいい笑顔で宮野先輩にそう謝られ、私は諦めモードで返した。
「いいですよ。アリスとつるんでる時点で、なんだかんだで今年も演劇部には関わるような予感はしていましたし」
すると、私が謝るやいなや、宮野先輩は「いやー、それはよかった」と高らかに笑った。
「そう思ってくれてよかったよ。羽二良ちゃんが練習に顔出してくれたおかげで参加しなくて済みそうだし」
「あの、先輩、今、なんて」
「捻った足引きずってまでやるものじゃないよね、ほんと。しかも今回の芝居ってむちゃくちゃこっ恥ずかしいセリフ満載だからさ」
「まさか、さっき叫んでたのも先輩ですか。足捻ってても代役頼むほど支障ないんじゃ」
「……うふ」
「うふ、じゃ困りますって。ちょ、先輩!」
そう笑って宮野先輩は踵を返すと、私の前から立ち去る。それぞれ定位置の席につくと、アリスも私の手を引っ張って席へとついた。隣に座っていた真知子ちゃんが私にそっと耳打ちをする。
「今回の舞台、みやびに頼まれて松平先輩が特別に書いたものらしいよ」
「アリスから?」
「なんでもね、このお芝居を見てもらって元気づけたい人がいるんだって」
ふうーん、と相槌を打って私はアリスを一瞥する。アリスはというと、脚本に目を落としてぶつぶつと自分のセリフを呟いていた。
「さっそくだが今回の舞台のあらすじを説明しよう。ペソにはまだ伝えていなかったからな」
「私、役柄も分からないんですけど」
「役柄はない!」
「いやいや、意味分かんないし」
「そのままの意味だ。ペソはペソのままで舞台に立ってほしい」
「待てい、ペソはペソのままって、また人間以外の役じゃないでしょうね」
すると、横でセリフを呟いていたアリスが言った。
「だから、今回の舞台、バーニはバーニで出てもらうの。分かる?」
「分かりません」
「だめだ、まっちゃん先輩、ちょっとペソにあらすじ教えてあげて」
「あんたね、人を馬鹿にするのも大概にしなさいよ」
「あらすじはこうだ!」
「え、そんな急に」
「心して聞け。主人公は姉妹の姉役みやび、そしてその次に重要な妹役はお前だ、ペソ。ちなみにお兄ちゃん役はこの俺、松平様さ」
「お兄ちゃん、妹って……」
困惑した私がアリスに目を向けると、アリスは深い溜息を吐いた。
「そ。今回の舞台はあんたたちきょうだいが主役だよ」
「なにそれ。そんなの、最中も民都も来るのにできるわけないじゃん」
「だからこそやんのよ」
「え、まさか私はめられた?」
「はめちゃいないよ。騙したってだけで」
「尚悪いっ」
「いい機会じゃない。このお芝居見て、あんたたちきょうだいが分かり合えれば」
「あんたは私たちを一体どうしたいわけ?悪いけど、こんなことされるほど私たちきょうだいは泥沼な関係じゃないし、演劇部にそんな手助けしてもらうほうがよっぽど私の自尊心に傷がつく」
「ふん、末っ子のくせになにいっちょ前なこと言っちゃってんの」
「おのれも末っ子だろが」
「セリフ読んでてなにも感じなかった?私はね、洋子姉からミーさんのことを聞くたびに、おかしいんじゃないかって思ったよ。いつまでも昔のこと引きずって、それに囚われているなんて」
「でも、それは民都自身のことであって私たちが介入することは」
「私たちが?私たちだからこそ介入するんでしょ。ほかにミーさんを過去の楔から救えるのは誰だと思ってるの」
言葉に詰まる私に、アリスは立ち上がった。
「あんたたちきょうだいを見てると苛々するんだよね。お互いのことを干渉しないふりしながら、相手の気持ちの裏を読もうとする。あんたたちきようだいは、きょうだいじゃないよ。きょうだいって、もっと違うものだと私は思う。それを分からせてあげるんだよ。あのシスコン兄貴にも、ミーさんにも、そしてバーニ、あんたにもね」
「……アリス」
「いい?やるからには徹底的だよ。中途半端って私嫌いなの。あんたたちきょうだいのひん曲がった根性叩き直してやるから」
そう宣言するアリスに、私は思わず噴出してしまった。
「あんたって、ほんとお人よし過ぎ……」
周りから苦笑が漏れる。
「え、ちょ、ここ普通に笑うところじゃないでしょ」
「笑うところだよ」
サーティーワンの新作アイスの甘みがまだ口の中で残っている。扉を開けると、台所で野菜を刻む包丁の一定な音が聞こえてきて、玄関で靴を脱ぎながら民都が晩ご飯を作っているということが分かった。
「ただいま」
いつもとかわらない民都の優しい笑顔。
「あ、おかえりなさい。羽二良。帰ってきて突然で悪いんだけど、お醤油買ってきてくれないかな。切れてるの気付かなくて」
民都は長い黒髪をひとつに束ねていて、忙しそうに両手を動かしている。その姿を見ると、私はいつも母の姿を彷彿とさせる。民都は母の生き写しなんじゃないかと思うくらい母親似だ。ちなみに最中は祖父似だそうで、祖父の若い頃と瓜二つだという。私はというと、周りからは父親似だと言われるが、似ているのは地毛であるちょっとくせっ毛の茶髪くらいだろう。
私は制服であるブレザーを脱いで、かわりにセーターを羽織って鞄から財布と携帯電話を取り出す。
「醤油だけ?ほかにいるものない?」
「あ、じゃあ牛乳も買ってきてくれる?あと少しでなくなりそうなの」
「分かった。あのさ、民都」
民都は手を動かしたまま振り返らずに「ん?」と訊ねる。私は財布を持って立ち尽くしたまま言った。
「来週からはじまる文化祭のことなんだけどさ」
その瞬間、民都の野菜を刻む手が止まる。
「羽二良のところは肝試しなんだってね。洋子さんから聞いたよ。言ってくれたら予定開けて言ったのに」
「そうじゃなくて、二日目、文化祭の二日目、どうしても予定を開けて見にきいほしいの。舞台」
「舞台?羽二良、今年も舞台に立つのね。そうならそうと早く言ってくれればいいのに。もちろん、見に行くよ」
嬉々とする民都に、私はなんだかほっとした。文化祭への出展作品に切羽詰っていたのかと思っていたけど、私が思っていたほど民都は自分を追いつめている様子でもなかった。
「じゃ、じゃあ、最中ももうすぐ帰ってくると思うからさ、民都から文化祭の二日目も来るように言ってくれない?」
「いいけど、そうすると最中、三日目は来れなくなると思うよ」
「いいや、来るよ」
「どうして?」
「だって、どっちも大切な妹の発表会だから」
民都の怪訝な顔を見て、私は「醤油、買ってくるね。あと、牛乳も」と玄関へと向かった。
次の日の晩だった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。頭の中で何度も整理をし直して、私は後悔の念を抱く。きっかけは、私の一言だった。
「そろそろ墓参りの時期だけど、二人とも忙しかったら私が行ってこようか」
静かな食卓で両親の墓参りの話を持ち出した私に、民都が肩を竦めた。
「う、うん。バイトもあるし、頼もうかな。おばあちゃんの家、ちょっと遠いし」
両親の墓は父親の実家の近くにある。私たちが住んでいるここから電車で二時間ほどの隣の県だ。うんと頷いた私を遮るように、最中が箸を置いた。
「民都、お前も行ってこい。バイトはいくらでも融通が利くだろう。一日くらい休んだって支障ない」
「で、でも、少しでもお金が」
「金銭の心配はするなって何度も言ったはずだ。いざとなれば学費くらい俺が出す。お前、まだ一度も墓参りに行ってないだろう。今年は羽二良と一緒に二人で行ってこい」
険悪な雰囲気になってきたことを察して、私は箸を持つ手に力を入れる。
「ま、待ってよ、最中。そんな無理強いしなくても。民都だって色々と都合が……」
「そう言って去年も行かなかっただろう」
淡々とした様子の最中に、民都は顔を伏せて箸を置くと、小さく呟いた。
「……嫌」
「え……?」
「今はまだ、行きたくないの……。嫌なの……」
「み、民都……」
すると、それを聞いた最中が机を叩いて立ち上がる。その振動で私のグラスが倒れて、入っていた麦茶が豪快に零れた。麦茶は床に滴り落ち、倒れたグラスが机の上で虚しく転がる。私はそれを片付けるのも忘れて、顔を歪めている最中を見据えた。最中のこんな顔を見るのは二度目だった。二年前、両親が死んだ葬式以来。
「……いつまで逃げているつもりなんだ」
「に、逃げてなんかっ」
「逃げてるだろ!親父たちが死んだのはお前のせいでもなんでもない!いつまで意味のない罪悪感を背負ってるつもりだよ!」
「でも、でもっ……!あんなことがあったあとに二人いっぺんに先立たれたんじゃ、私だって罪の意識を感じずにはいられないよっ!事故かもしれない、だけど、だけどっ!」
「やめてよ、二人とも、どうしてそんなこと今更になって」
怖かった。正直にそう思った。これがきっかけでなにかが壊れてしまうんじゃないかと私は恐れた。そして同時に、二人を止められるだけの言葉を持たない自分の非力さを呪った。
「昔の幻想に囚われるな。これ以上引きずるなら、この家から出ていけ。空気が悪くなる」
「ちょっ、最中!」
「文句はないはずだろ。この家の責任者は俺だ」
最中の言葉に民都は黙ったまま立ち上がって、リビングをあとにする。私は本気で悲しくなってきて、気が付くと最中の頬を叩いていた。最中は叩かれた頬を押さえたまま、私を見下ろして黙っている。
「なんで、なんであんなこと言うの?一番辛いのは民都だって知ってるでしょ。それなのに、なんで」
「……見えていないんだ。民都には見えていないんだよ。もっと大切にするものが」
大切なものとはなんだろうと漠然と思ったけど、私の思考回路は配線が絡まったようにぐちゃぐちゃで、その日の夜はすごく不安だった。
ねぇ、民都。安心する夜ってなに?
それは、誰かがそばにいてくれること?
明けない夜はないんだと信じたいけど、そのときの私にはとても無理な話だった。どうしてこうなったのか考える。私の一言がきっかけだった。細い糸のような最中と民都の感情を、断ち切ってしまった。民都はまだ囚われたままなのだろうか。先生の死と、両親の死に。
「あんたなんかにね、私の気持ちが分かるはずないのよ。所詮血で繋がっていても他人は他人。自分じゃない。理解し合えることなんて一生ないんだから」
「そんなこと、ない。一生分かり合えないなんて……」
「カーット、カット、カット、カァーット!」
松平先輩のカットが入って、私は一気に脱力する。アリスが手にしていた脚本を丸めて、私の頭をはたいた。
「てめぇ、やる気あんのかコラ。明日だよ。明日、本番なんだよ。今日はみんな、クラスでのオリエンテーションを抜けて来てるんだからね。そんな気の抜けた調子でやって相手に対して失礼だと思わないわけ?」
「アリスちゃん、ちょっと言い過ぎたよ。本番近くて苛立つのも分かるけどさ」
真知子の必死な説得に、アリスは少しばかり落ち着いた様子で溜息を吐く。
「どうしたのよ、バーニらしくもない。昨日まですごくいい演技してたのに。ねえ、昨日なにかあったの」
訊ねるアリスから目を逸らして、私は顔を伏せたまま黙り込む。
「黙っていたら分からないよ」と宮野先輩。
沈んだ空気が満ちる。私は顔を伏せたまま切り出した。
「……昨日、最中と民都がけんかして、私じゃどうやっても止められなかった」
「どうしてすぐに言わなかったの」
「だって、そんな、アリスがきょうだいげんかを解決してくれるわけじゃないでしょ」
瞬間、再び丸めた脚本でアリスは綿葉の頭を叩いた。すこーんというものすごくいい音がした。
「ばかだとは思ってたけど、あんたたちきようだいがここまで破滅的ばかだったとはね」
「ばかばかってそんな連呼しなくても」
「あのね、私たち他人から見ればあんたたちってほんとじれったいよ。ここまで見事に疎通がはかれないきょうだいを私ははじめて見たね」
痛いところを突かれて再び黙り込むと、私とアリスのやりとりを見ていた伸之さんが私たち二人に歩み寄った。
「まあまあ、二人とも落ち着こうよ。ここで二人がけんかをおっぱじめても仕方がない。身が入らないならこれ以上やっても意味ないよ。橘さんと渋沢さんは一旦休憩。音の確認をしながら部長のセリフ確認ね」
「え、俺っすか」
「そうだよ、お前だよ。さっさと準備しろよ」
「ノブ先輩はバーニに甘すぎですよ」
そう申し立てるアリスに、伸之さんは消沈している私と、目が迸っているアリスを見比べて苦笑した。
「君も、お芝居の設定が設定だけに、橘さんに負担がかかるって分かっていて部長に申し立てをしたんだろう。だったら、勢いだけじゃだめだ。支えてあげることもしないとね」
「だけど……」
「話し合ってきなよ、二人で。腹割ってさ」
「待て待て、まだ二人のかけ合いのシーンは残ってるぞ」と松平先輩。
「気にしなくていいから。あとは俺たちで埋め合わせするよ。一度心を落ち着かせるんだ。いいね」
なんて大人な人だろうと私は思った。私がこうなることをまるで知っていたような、悟っていたような、この人がいるから、この演劇部は成り立っているんだと実感した。
「だめだ、本番は明日なんだぞ!練習に抜けるなんて部長が許さん!」
「はい、じゃあシーン5のお兄ちゃんが妹二人に平手を食らわされたあとの落ち込むシーンいってみよう」
「え、そんなのやる必要なくね?てか、そんなシーンないだろ!勝手に捏造するなっつの!」
「はい、宮野と加美奈で部長の頬に平手打ちね。加美奈君、先輩だからって遠慮はいらないよ。あ、思いっきりやっちゃっていいから。というか、意識飛ばせ」
「君、あきらかに俺に殺意があるよね。そうだよね」
―――ばしんっ。
―――べしんっ。
「というわけで、うるさい奴にかわって、次は真知子ちゃんと加美奈君のシーンいくよー」
色々な意味で本当に部を仕切っているのは伸之さんだと実感した今日この頃だった。
視聴覚室を抜けて二階へと続く階段の踊り場で、私とアリスは隣り合って座っていた。
「完全オリジナルなんて嘘じゃん。やっぱもどきじゃん」
「感謝してよ。私がこの設定作らなかったらまっちゃん先輩、今度はシンデレラもどきを作るつもりだったんだから」
「ちなみに内容は……?」
恐る恐る訊ねると、アリスは噴き出した。
「サディスティックなシンデレラが義理の姉二人と継母を従えて、王子がいる王室に乗り込」
「だから、なんで主人公が毎回サド気味の。そこから設定としておかしいだろが」
「そうかな。主人公がマゾだっていうほうが舞台として成り立たないでしょ。ちなみに王子はマゾで、そのしもべ役にバーニが候補であがっておりあした」
「だから、なんでサドとかマゾとかの基準で考えるの。そこがおかしいっつってんの」
「なんでもいいじゃん。まっちゃん先輩も最後の舞台で気合入ってんだし、付き合ってあげよーよ」
アリスの言葉で私ははっとした。そうだ、宮野先輩や伸之さん、そして松平先輩にとって今年の文化祭は高校生活最後の文化祭なんだ。
「最後なら、自分たちの好きなようにやればいいのに」
「分かってないね、バーニも。みんな、あんたが心配で勝手にやってることだよ。誰に頼まれたわけでもない。去年の有志活動でみんなの投票を得て第一位になれたのも、ペソ役のあんたがいたから。正式な部員じゃなくても、みんな、バーニにすごく感謝してる。だって、だってあのときの部員はたった四人。まだ加美奈君もいないし、真知子ちゃんだって入っていなかった。去年の舞台を最後に、演劇部は廃部になるはずだったのを、バーニが救ってくれたんだよ」
「私が……?」
「そ。あんたが。悔しいけど、部を救ったのはアリスの私じゃなくて、うさぎのあんた。だから今度も、あんたの力を貸してよ。三年の先輩たちが、今年も最高だったって言ってくれるようにさ」
どうして私はこう、アリスの笑顔に弱いんだろう。
「昨日のけんかさ、わたしのせいなんだよね」
「ふうん、それはまたどうして」
「両親の墓参りの話を持ち出したら、段々と険悪な感じになっていって、最後には最中が、いつまでも昔の幻想に囚われるな。って」
「それはミーさんが怒るのも無理ないね」
「最中はなにか勘違いしてる。民都が今していることがとても悪いような言い方をする。二年前のあれは、幻想でもなんでもない。事実だよ。変えられない事実で、忘れちゃいけない事実なのに」
「心配なんじゃない。お兄ちゃんとして、妹が。ただそれだけだよ。時々ミーさんとバーニのような姉妹を羨ましいと私は思う」
「私たちが?どうして?」
「私たち姉妹の場合はお互いに突っ張ってるから、ほら、私ってこんな性格だし。だからよく衝突する」
「ふうん、自分のことよく分かってるじゃん」
「だから、互いに心配する、される関係っていいと思うよ」
鐘が鳴る。教室から生徒たちが一斉に出てきて、私たちのいる階段の踊り場を数人の生徒が駆け下りていく。
「そろそろ行こうか。私たちがいないんじゃはじまらないしね」
アリスは立ち上がって、階段をおりていく。私も慌てて立ち上がると、アリスが振り返って言った。
「そういえば、ミーさんが描いている絵のタイトル、知ってる?」
「うん、知ってる。最愛、でしょ」
「じゃあ、その意味、知ってる?」
「まあ、想像はつくけど」
そう言って眉を顰めると、アリスはおかしそうに噴き出した。
「きっとあんたたちが想像していることはなにひとつあたっていないと思うよ。だから私はあんたたちみたいな鈍感なきょうだいが羨ましいって言ってんの」
「え、ちょっと待て、どういう意味?」
アリスはなにも言わずに、階段をおりると角を曲がった。
翌日、文化祭にはもったいないほどの晴天に恵まれたが、晴々とした天気とは裏腹に、私たち演劇部の気持ちは焦燥としていた。それもこれも、客席に、民都と最中の姿が見えないせいだ。携帯電話を何回も耳にあてて、虚しいだけのコールと留守電のメッセージを聞く。客席から舞台裏に戻ってきたアリスが、息を切らしながら言った。
「洋子姉に聞いてきたけど、一緒には来ていないって。なんか、ミーさんは寄るところがあるから一人で文化祭に行くって言って洋子姉よりも先にアトリエを出たって」
「どうして先に出たペソの姉がいないんだ。これじゃあ舞台をやる意味が」
焦る松平先輩とアリスの後ろで、スーツ姿に身を包んだ伸之さんが「落ち着け」と嗜める。伸之さんは生徒と一線を越えてしまう教師役だ。
「寄るところの具体的な場所は聞いたか」
「ううん。それが洋子姉にも分からないって」
「まずいな……。その教師は亡くなっているんだろう。変なことを考えていなければいいが」
伸之さんの一言でその場の緊張感が一気に張り詰める。
「ミーさんはそんなことしないよ!憶測だけで変なこと言わないでください!」
「と、とにかく、はやまったことをしているかどうかの議論はいいとして、もうすぐ開演だ。すぐに探してつれてこよう。ここで見てもらわなかったらこれまでやってきたことが水の泡だ」
松平先輩が言い、全員が顔を見合わせて頷く。
「洋子姉にも手伝ってもらうよ」
「ふたてに別れよう。俺とみやびで北校舎、ペソとノブで南校舎だ」
松平先輩とアリスが駆け出す。伸之さんは音響操作室の扉を開けて、中で操作の確認を行っていた真知子ちゃんに告げた。
「開演までに俺たちが戻ってこなかったら宮野にうまく引き延ばすよう言っといてくれ」
「え、でもっ」
「頼んだぞ」
扉を乱暴に閉めて、私たちは走り出す。客席を抜けて、そのまま一気に階段をおりた。階段をおりると、すぐに正門がある。偶然にも私たちが階段をおりきったところで最中と出くわした。
「羽二良!」
勢いあまってぶつかりそうになったのを防いで、最中が驚きの声をあげる。私は最中のブランド物だろう上品なネクタイを引っ張って聞いた。
「最中、民都、民都見なかった!?一緒じゃない!?」
「い、いや、知らないけど。民都だったら俺たちよりも先に家を出ただろう。洋子さんのアトリエに行くって言って」
私はネクタイから手を話して、顔を伏せる。「ほかをあたろう」と伸之さんに促されて再び走り出そうとしたとき、最中の後ろでした高く澄んだ声に呼び止められた。
「羽二良ちゃん」
振り返るとそこには、相も変わらず儚げな美しさを保った最中の許婚である女性がいた。
「梨江子さん!」
「無理言ってつれてきてもらっちゃった。羽二良ちゃん、お芝居やるんだってね。頑張ってね」
「あ、は、はいっ」
緊張のあまり力んだ返事をしていると、「急ごう!」と言って伸之さんが私の手を引く。私は引かれるまま、ネクタイを直している最中に叫んだ。
「最中、民都に電話をして繋がったらすぐに劇場に来いって言っておいて!頼んだよ!」
「ちょっと待て、そいつは誰だ!手なんか繋いでそいつは誰なんだ!」
最中の叫び声の余韻が背中越しに伝わってくるのを感じながら、私は振り返らずに走った。
「まあまあ、羽二良ちゃんも高校生だもの。彼氏の一人や二人、三人くらいいるわよ」
「一人や二人や三人って何だ。梨江子の高校時代の基準で考えるな」「でも、なかなか知的そうな彼だったじゃない?」
「やーめーろー」
私たちが舞台を行う劇場は松平先輩たちが民都を探している北校舎の横にある。私と伸之さんは、一階の渡り廊下を渡って南校舎へと移動した。硝子張りになっている中には噴水があり、幾人もの生徒がたむろしている。
「ひとつひとつ教室を虱潰しに探していたら時間がない。お姉さんが行きそうな場所は予想つく?」
「民都が三年生だった頃の教室なら」
「何組?」
「3‐Aです」
「よし、そこだ」
エレベーターを通り越して、階段を一気に駆け上がる。階段を上がっている途中、窓の向こうから見えた北校舎を走り回っている松平先輩とアリスと洋子さんが見えた。三年生だった頃の教室には、担任と過ごした時間が詰まっている。民都がそこへ出向く可能性は充分に考えられた。
3‐Aと掲げられた角の教室に来ると、伸之さんは勢いよく扉を開けた。数人の男女が楽しそうに話していて、生徒会長である伸之さんを見るなり吃驚した。
「わ、会長じゃないっすか。どうしたんだよ、そんなに慌てて」
どうやら伸之さんの知り合いらしい。
「要こそこんなところでさぼってんじゃねぇ。それより、一般の人がここに来なかったか?」
「一般の人?そりゃ、何人も来たけど。でもこのクラスじゃイベントはやってないって知るとすぐに帰っていったぜ」
「その中に若い女の人は来てなかったか?」
「若い?あ、ひょっとして彼女か?会長さんの彼女が見にきてんのか?えー、紹介してよ。会長のことだ、べっぴんこさえてんだろ」
「てめぇ、いっぺん死んでこい」
苛立つ伸之さんに、要という人の横にいた女子生徒が挙手した。
「はーい、私見たよ。若い女の人。黒いロングヘアの人じゃない?」
「そうなのか?」と伸之さんが私に訊ねる。私は無言で何度も頷いた。
「そうだ、その人だ。いつ頃来た?」
「三十分くらい前だったかな」
「あ、見た見た。え、なに、あの人が会長のかの」
「どこに行ったか分かるか!」
要という人の言葉を遮って伸之さんが訊ねる。
「あー、なんか、この学校のОBだって言ってたけど、ほら、去年北校舎のほう改築したじゃない?その際にいくつか空き教室がなくなって、その中に美術準備室ってあったじゃん。その中に自分の昔の作品があったらしくてさ、どこに移動したのかって聞いてきたよ」
「で、どこだって言ったんだ」
「さ、さあ。詳しいことは分からないから美術の先生に聞いたほうがいいですって言ったら分かりましたって言ってたけど」
「そうか。ありがとな!急ごう、橘さん!」
「う、うん!」
廊下を走っている途中で、要という人の「舞台見にいくからなー」というひょうきんな声が聞こえてきて、伸之さんは「もうはじまってるよ!」と叫び返した。
職員室とは思えないほどの騒がしさだった。行き交う生徒と教師たちでごった返していて、羽目をはずしすぎて生徒指導室に出入りする生徒があとを絶たない。職員室の扉の前で美術の顧問を呼ぶのにも周りが喧騒としすぎていて、伸之さんは「ここで待ってて」と言って一人職員室へと入っていった。扉の前で行き交う人を避けながら待っていると、北校舎を走り回って息を切らした松平先輩とアリスと洋子さんを見つけて、私は叫んだ。
「バーニ、ミーさん見つかった?」
「ううん。でも、民都は自分の作品を探しにいったんだと思う」
「作品?」
怪訝な顔をする松平先輩とアリスの横で、洋子さんも首を傾げた。
「それって、美術部員だった頃に描いた絵のことかしら」
「それが保管してあった美術準備室が去年取り壊されたんです。民都はきっと作品場所を聞こうとして美術の顧問を訪ねたはず」
「ノブ?」
「今、美術の先生を探しに行ってます」
「待って、過去の作品は全部持ち帰っているはずよ。卒業するときにちゃんと確認もしたはずよ」
「じゃあ、民都はどうして」
そこへ伸之さんが戻ってきて、考え込んでいる私たちに告げた。
「準備室にあった作品は全部、持ち主のところに返したそうだ。それに、橘さんのお姉さんらしき人も訪ねに来てはいないって」
「そんな、それじゃあ一体どこに……」
「いったん戻ろう。これ以上時間を延ばすわけにはいかない。俺たちのあとに劇場を使う人たちがまだいるんだ」
「でも、ミーさんがいないんじゃ」
「それでも、ここまで頑張ってくれたほかの部員に迷惑をかけるわけにはいかないだろう。宮野たちが待ってる。早く!」
それでもその場を動こうとしない松平先輩とアリスに、洋子さんが言った。
「行きなさいよ。民都は私が探し出してつれてくる」
「でも」
「いいから。民都の居場所の大体の見当はつくわ。これでもだてに親友やってないんだから」
「行くぞ、定則、渋沢さん」
「え、バーニは?」
「橘さんは一緒にお姉さんをつれてくるんだ。埋め合わせはする。大丈夫だ」
「で、でも」
「いいから、自分の手でお姉さんをつれてきて、自分の口から伝えたいことを告げるんだ。そのために俺たちは舞台という場を借りて進めてきた。最後の文化祭を笑って終えられるようにしてれよ」
洋子さんが私の手を握る。私はしっかりと洋子さんの手を握り返して頷いた。
「絶対に戻ってくる。だから、それまで」
「それ以上言わなくていい。言いだしっぺはもともと私だしね。意地でも舞台を成功させてみせるわよ。この貸しはりんご飴とチョコバナナとクレープで手を打つよ」
「甘いものばっかりでくどいって」
伸之さんと松平先輩に促され、アリスは劇場へと走り出す。私と洋子さんも走り出した。
ほんと言うとね、子供ができたときにこの人と一緒になる覚悟ができなかったの。普通だったら、愛していたら、子供ができれば喜ぶよね。ずっと一緒にいたいって思うよね。だけど、私はそう思えなかったの。自分の中に無垢な命が宿っているんだと思うと、自分のした罪の重さに苛まれた。それってさ、相手のことを本気で愛していなかったってことなんだよね。私の、思い込みだったのかな。気の迷いだったのかな。
何度も自分の行為を間違いだと否定して、民都は苦しんだ。だけど、私は覚えている。子供をおろす前日、私の部屋を訪ねてきた民都は、真摯な眼差しを私に向けて、言った。
間違いだったかもしれない。自分のしたことを自分で責任がとれない年の子供が引き起こした若気の至りだったかもしれない。だけど、あの人の腕の中で抱かれて一緒に眠った夜は、生きてきて一番安心できた夜だった。愛おしいって、はじめてそう思った。
「民都は先生のこと本気で愛してたのかな」
洋子さんに手を引かれながら、私は呟く。洋子さんは振り返って立ち止まった。
「民都は自分のことよりもほかの人のことを優先して考える。そんな子が、軽い気持ちで先生と一緒になったと思う?」
「思えないけど、でも」
「大丈夫。あの子は、私たちが思っているほど弱くない。芯のしっかりとした強い子だよ」
「洋子さんは、民都のことを私たちよりも理解してますね」
「それは、客観的にだよ。本当に分かってあげないといけないことを私はなにも知らない。民都が先生とそんな関係にあったことも気付いてあげられなかったし、受験生だったっていうのを理由にするわけじゃないけど、そんなこと相談にのって私まで巻き添えをくらうのは正直ごめんだって思ったわ。……白状でしょ。本当は、民都の親友なんて語る筋合いないのよね」
「でも」
私は洋子さんの向かいに回る。
「でも、それでも、民都が一緒にいるっていうことは、洋子さんが親友だから。民都だって、そう思わない人と一緒にいるなんてことしないですよ。ああ見えて結構淡白なところあるから」
洋子さんはふふ、と笑って「やっぱり、民都の妹だね」と言った。
「一緒にいると、すごく近いものを感じるよ。他人に対して一生懸命というか、優しいというか、ほんと、私はそういうのに弱いのよね」
笑いながら、洋子さんは階段を上がっていく。南校舎の三階に私たちは、屋上へと繋がる立入禁止の扉を開けた。秋の涼しい風が吹く。
「民都!」
洋子さんの呼ぶ先に、長い髪を靡かせた民都が立っていた。沈んだ様子で空を仰いでいる。
「民都……」
振り返った民都が、私を見て苦笑した。
「羽二良、舞台はいいの?」
「民都が見にきてくれないと意味がないよ」
「どうして?最中がきてくれてるでしょ」
「民都、どうしてこんなところにいたの」
私の質問に、民都は目を細めた。
「本当は、感懐に浸るつもりなんてなかったのよ。だけど人間の性なのかな。ここに来ると思い出したくないことまで思い出しちゃうの。一緒に過ごした時間を振り返りたくても、その人もいない、その子供もいない。私の中だけの、幻。だから最中に幻想だって言われたときは心の内を読まれたみたいで憤慨した。でも、最中で昔からそうだよね。人の分かってほしくないこと、冷静に突っ込むんだもの。私、最中のそういうところ嫌い」
「そんな……」
「嫌い、だけど、憎んだことは一度だってないよ。羽二良だってそうでしょ」
「民都……」
柔らかく笑う民都に、私は胸を撫で下ろす。
「ごめんね。これは私のわがままだった。感慨深くなりたいっていうのもあったし、昨日の今日で最中とは顔を合わせづらいっていうのもあった。私の被害妄想って厄介ね。先生の死と両親の死は全部自分のせいだって思い込んで、思い込むことで逃げていたの。たぶんこの先もこの厄介な被害妄想で迷惑かけると思う。そのときは、二人とも私のこと見捨てないでやって。軽蔑してもいいから、遠目に見守ってやって」
「軽蔑なんてしない。民都、私も、民都の苦しみの重さを分かったつもりでいたの。関わらないふりをして、分かったつもりでいた。だけど、私、民都の背中を追っかけるように民都と同じ高校に進学して、民都がどんな苦しみを抱えているのか少しでも分かりたかった」
ここはまだ泣くところじゃない。泣くなら舞台の上だ。私は溢れそうになる涙を、歯を食い縛って堪える。
「羽二良ちゃん、行きなよ、みんなが待ってるんでしょ」
「で、でも」
「大丈夫。民都は必ず行くよ」
洋子さんの妙に確信のある言葉に、私は頷いて踵を返す。
「民都、最中の奴、梨江子さんつれてきてるから。きっと一人じゃ来にくかったんだよ」
「……そっか。じゃあ、挨拶くらいしないとね」
民都が鉄柵から手を離して洋子さんの前へと歩みを進める。
「ほら、舞台見せてくれるんでしょ。行きなよ」
私は、みんなが待つ劇場に向かって走り出した。
客席はほぼ満員で、もうオープニングの曲が流れている。最初のシーンは姉役のアリスと兄役の松平先輩のけんかのシーンだ。そしてすぐに私が登場する。私は慌てて客席の隅を走りぬけ、舞台の裏へと繋がる扉を開けた。音響操作室では真知子ちゃんが真剣な様子で曲をかけている。舞台に照明がかかる。照明は今回宮野先輩の仕事だ。ブザーがなり、舞台袖にいた加美奈君が幕を開けるため、天上から下がっているロープを引っ張った。
「伸之さんっ!」
舞台の袖で加美奈君の隣に立っていた伸之さんに小声で呼びかけると、それに気付いた伸之さんが慌てて振り返った。
「橘さん!よかった、間に合ったんだね。お姉さんは見つかった?」
「はい。もうじき来るはずです」
伸之さんは安堵したように息を吐く。
「橘先輩、出番ですよ」
加美奈君の合図に、私の中で一気に緊張が走る。大丈夫。成功する。舞台は一人じゃない。みんながいてくれる。
眩しい。照明の光りってこんなにも眩しかったっけ。去年とはとても違う。それは、私の中でこの舞台に立つことに意味を持っているからだろうか。なんでもいい。伝えなければならない。
さあ、大きく息を吸って―――……。
「ただいまぁ、どうしたの、三軒隣まで言い争う声が聞こえたよ?なにがあったの?またけんか?お兄ちゃんの嫌味ならいつものことじゃない。笑って受け流しておけばいいのに、お姉ちゃんって真面目だから……」
「あんたに……」
「え……?」
「あんたになにが分かるの?お父さんたちが死んだのにいつまでも遊びまわって、学校にいけない私の身にもなってよ」
アリスの迫真の演技が続く。長女は進学を諦めて就職し、長男はニート、次女役である私はろくに学校もいかないで遊びまわっている不良娘で、教師と一線を越えてしまうのも次女役だ。実質、稼いでいるのは長女だけという、なんとも悲壮感漂う設定となっている。これはもはやもどきの範疇を超えているだろう。
「お姉ちゃんが辛いのは……」
「あんたなんかにね、私の気持ちが分かるはずないのよ。所詮血で繋がっていても他人は他人。自分じゃない。理解し合えることなんて一生ないんだから」
本当にそうだと思った。理解しているなんて詭弁だ。本当は理解するつもりもなかった。分かり合うってなに?理解ってなに?そうなった証拠は一体どこに存在するの?自分の胸の中?そんなの、本当に一生分からないじゃない。
頭が真っ白なまま、私の口からは用意されていたセリフとは違うことを言っていた。
「分からないよ。私には分からない。だって私はお姉ちゃんじゃない。だから、言ってよ。苦しいなら言ってよ。辛いなら言ってよ。なんでなにも言ってくれないの。いつも一人で我慢するみたいに、押し殺すみたいに、悲しそうな顔をする。お願いだから、けんかしないでよ。けんかしても、仲直りしてよ、お願いだから……。お願いだから……っ!そうじゃないと、私、怖いんだよ。気持ちが遠ざかるように、みんなばらばらに離れていくんじゃないかって……」
最後のシーンで流すはずだった涙が、今になって零れ落ちる。早い。まだ泣くには早いのに。一度流れ出したら止まらなくて、もうだめだった。セリフと違うことを言って、私は舞台を台無しにしてしまった。
「あんたは、ずっと怖かったの?」
しゃくりあげている私に、アリスもセリフと違うことを言った。私は驚いて顔を上げる。舞台袖で見守っていた伸之さんと加美奈君が、セリフと違うことに焦っている松平先輩を必死に押さえている。伸之さんが両手で大きな丸を作った。
「私は、私は……」
この先をどう続けようか、急に観客の視線を痛々しいほど感じて、私は立ち尽くす。
「私も、怖いわ。一人で二人を支えているんだと思うと、すごく怖い。私の責任でいつ両手から零れ落ちるかしれないもの。私の怖さとあんたの怖さは違う。一緒にしないでちょうだい」
私はアリスの真剣な目つきを見て、セリフを思い出す。
「私、待ってるから。お姉ちゃんが気持ち打ち明けてくれるの、待ってるから」
「何年経っても所詮こり生活は変わらないわ」
「変わるよ。変えてみせる」
照明が落ちる。
「洋子、私の最愛の意味を知ってる?」
「知ってるわよ。民都があの人に伝えたかった最愛の意味」
「そっか」
「伝わるといいじゃない。それで、帰りにアイス食べながら三人で帰るの」
「ふふ。洋子もね」
「みやびと?冗談」
「あんなこと言われたら、妹が可愛いという気持ちも分かります。私にも年が幾つか離れた弟がいますから」
「だけど、そろそろ兄離れもしてもらわないとな」
「なにを言ってるんですか。この場合、妹離れでしょう」
「―――そうだな」
「仲直りしてほしいとおっしゃってましたよ」
「まったく、余計な世話だ」
「それも今のうちだけですよ」
「……お前、あんな妹ほしいか?」
「ええ。妹は何度ほしいと願ったことか」
「そうか。―――俺も弟がほしいと何度も願ったよ」
民都の「最愛」は、体育館の隅のほうに飾られていた。隣には洋子さんの作品もある。
「私には、見えてたよ。大切なもの」
民都の言葉に最中が苦笑する。
「大切なものって?」
一人怪訝な顔をする私に、民都は「なんでもないよ」と言って笑った。
ああ、なんて懐かしいんだろう。
「私はバニラアイスよりチョコミントが好きなんだけど」
「私だってチョコミントよりモナカアイスのほうが好きよ」
「俺だってモナカアイスよりバニラアイスのほうが好きだけど」
絵の中の私たちはおいしそうにアイスを食べている。
「今なら分かるよ。どうしてお母さんたちがこんな名前つけたのか」
そう言う私に、民都と最中も頷く。
「私の最愛、あの人に届いたかな。これが、私の中の大切なものだよ」
帰ろうか。
駅前にできた新しいサーティーワンでアイスを買おう。
「私はチョコミントが食べたいな」
「じゃあ、私はバニラアイスがいいな」
「民都はモナカアイスが好きなんだろ」
「サーティーワンのバニラは美味しいんだよ」
「最中はコンビニのモナカアイスってことで」
それから、最中の結婚が決まったのは三週間後のことだった。
お父さんとお母さんに報告にいかないとね。きっとお父さんは羨ましがるね。お母さんは……どうかな。きっと喜んでくれるよね。だって、あのシスコン兄貴の結婚だもんね。
まず、こんなすばらしい企画を提案してくださった針井さんに感謝の意を。次に、私のキャラを生かしてくれた愛田さんに感謝の意を。そして、素敵なキャラをくれた相川さんに感謝の意を。
駄文でごめんなさい。
乱文でごめんなさい。
詳しい作品でのあとがきは「キャラ原案」にて。




