第百八十話 扉三
俺は掃除機に吸い込まれた埃かなにかか?
目まぐるしく高速で変わっていく景色に情報処理能力が追いつかない。
瞬きするよりも早く移り変わっていく景色は所々見る事はできるが、はっきりと何が映っているのか認識は出来ず、速さに翻弄され正しく目が回る様。
だがそれよりももっと深刻な問題が発生していた。
─気持ちが悪い…
まるで薄っぺらいシートベルトをしてジェットコースターに乗ったまま高速移動するような感覚。
頭痛と眩暈と一緒に内臓が浮き上がったり搔き回されたりする感覚が襲い掛かってくる。
完全に乗り物酔いだ。
しかも普通の乗り物酔いをもっときつくしたやつ!
ヤバイ!!マジで吐きそうなんだけど!!!
恐らくこの移動時間は一瞬の事なんだろうが、俺の体感的には5分ほど振り回されていたように感じられた。
「…うぇ」
そろそろ俺の限界が近づきダムが決壊しそうになった時、俺は体を地面に投げ出された。
投げ出されたといっても着地はかなりソフトなもので、身体の何処も痛くは無かったが、如何せん吐き気が凄すぎて堪えるだけで精一杯、周りを見る余裕など全くない。
「…ゥオエ……ウ、ウ…」
横向きのまま丸まり、臓器全てを口から逆流させてしまいそうな吐き気を気力で何とか堪え、涙目で耐え忍ぶ。
心の中ではウルムヴルに有りっ丈の罵声を浴びせていたのだが、言葉にすると一緒に色んなモノが出てしまいそうになり必死になって堪えた。
暫くして漸く少し吐き気の波が少なくなってきたが、まだ内臓が正常な位置に戻っていないような感覚と目の前の視界がぐらぐらは直ってはおらず、目に溜まった涙も相まって見える景色はまるで印象派の絵画の様。
その視界の映像を少し綺麗だと感じてしまった自分自身に少しイラつきつつも、手で涙を拭い顔を上げる。
「え?もう夜?」
段々視界も大分クリアになってくるとそこに見えたのは、夜の花畑だった。
花畑と言ってもまだ花の開いていない蕾が一面を覆っている花畑で、他には山しか見えない。
腕に力を込めるが上手く力が入らない。
それでも何とか上体を起こし、胡坐をかく。
「ここは何処だ」
地面に咲く花の蕾を見ていると、今俺の胸に刺さっているムーンローズに似ていた。
花の蕾は所々夜露に濡れながら夜風でゆらゆらと揺れ、頭上を見てみれば空には厚い曇天が張り付き、周囲の山にも覆いかぶさっていた。
「雲がこんな所にあるということは、ここはかなり標高があるな」
さてこれからどうしようかと思い悩んでいた時、厚い雲の裂け目から一条の優しい銀色の光が射してくる。
どうやら月が顔をのぞかせたようだ。
「っ!!ムーンローズが…」
雲はどんどんと裂け目を増やし一条また一条と光の筋を増やしていき、ほんの少し黄色が混じった銀色の光が俺を照らし出す。
俺が月の光に照らされると、胸に刺さっているムーンローズの蕾が淡く光り、待っていましたと月の光に呼応するかのようにゆっくりとだが開花し始め、俺の胸に見事な大輪の薔薇が咲き誇る。
そしてムーンローズの花弁が開き切った瞬間、一粒の光が花から出現し、空へと登って行った。
「…これは」
一粒の光が空に上がり暫くして目視できなくなると、俺の視界の下からまた一粒の光が現れた。
下を見てみれば辺りのムーンローズの蕾が淡く光りだし開花し始めている。
まるで俺の胸のムーンローズの開花が合図だったように一斉に花畑の花が開花し、幾万幾億もの光の粒が空に舞い上がっていく。
数え切れないほどの光の粒はまるで風に煽られるように上昇して行き、夜の闇を照らし出し、まるで昼間のような明るさへと変えていった。
その光景はいつかの夢で見たような光景だった。
俺はその光景に声も出ず、ただ呆然と見蕩れていた。
その光景は本当に夢のまどろみの中にいるような感覚で、頭はボーっとしているのだが感覚は研ぎ澄まされている。
しかし身体は上手く動かす事ができず、唯そこに座り尽くすのみであった。
『……………』
まるで鈴を転がすような音が聞こえる。
体の感覚が少し覚醒するのを感じた。
突然聞こえた音にゆっくりと振り返れば、俺の後方に光の粒が乱舞している。
光の粒がどんどんと集まり形を成していく。
ああ、人だ。人の形になっていく。
光の粒はやがて一人の人間の形を成し、俺より5メートル程はなれた場所に姿を現した。
顔は見えない。
いや、顔どころか全身光に覆われており形しか判別する事ができなかった。
成人の男にしては大きさの足りず、しかし女性と言うには大きい。正に中肉中背といった大きさの光り輝く人型。
その人型はまるで俺を凝視するかのようにその場に留まっている。
「…あ」
花畑一面に浮かび上がった光の粒はいつの間にか空の彼方へと消えており、既に夜の暗さを取り戻している。
ただその人型の周りにはまだ淡く光を放っていた。
俺が無意識に光の人型に手を伸ばそうとした瞬間、人型はその形を崩し光の粒へと戻っていき、その光の粒は俺に近づき俺を囲むように乱舞した後、仲間を追うように再び天へと上って消えて行った。
空には既に厚い雲は無く月が銀色に輝き、月光に照らされた大地には見事な大輪のムーンローズが競うように咲き乱れ、白い花弁に反射した光で宵闇を照らし、淡く幻想的な光景を作り出していた。
少し強い夜風はムーンローズの花弁の花びらを少しずつ攫い、まるで吹雪のように舞い散っていき、咽返りそうなほどの薔薇の香りが花びらと共に全身を襲う。
だが不思議と嫌悪感は無く、あまりにも清清しくて逆に笑ってしまった。
自然と身体のこわばりが抜け、ムーンローズの群生地の真ん中で寝転ぶように倒れてしまう。
軽く息を吐き、ムーンローズの香りを身体に取り込むように深く息を吸い込み、今度は肺いっぱいに詰め込んだ空気で身体を浄化するように、深くゆっくりと吐き出した。
空気吐き出しながら目を瞑り肺も頭の中も空っぽにした瞬間。
『 』
吐息のような幽かな音が聞こえ、俺の意識は何処かへと吸い込まれていった。