第百七十四話 悪童の企み
セボリオン達が大広間から出て行った同じ頃、オルブライトは聖育院の院長室で院長と話をしていた。
「では院長。今年卒業する子供達の正式な戸籍はコレで大丈夫ですな」
「いえ。セボリオンだけがまだです」
院長はそう言うとセボリオンの戸籍謄本だけを抜き取ってオルブライトへ渡す。
院長から受け取った紙をオルブライトが見ると、そこには『セボリオン・サンティアス』と言う名前が書かれている上の項には『ハンス・シュミット』と書かれていた。
「あの子はつい先日まで意識不明の状態でしたので、まだ意思の確認は出来てはおりません」
サンティアスの養い子は一部の例外を除き成人するまで自分の本当の名前を知らされることはない。
いや、正確に言うのならば名乗らせることはない。
今はそうでもないが、サンク・アゼルス・ティオン創立時の昔は、産み落とされてから名前を与えられる前に捨てられ拾われた者が多く、もし付けられていたとしても分らない者が多かった。
また名前を覚えていたとしてもファーストネームしか分らないか、そもそもファミリーネームが無い者が殆ど。
聖育院で育つ者達は皆平等の存在で無ければならず、名前の分らない者達は職員やアルゲア教団の者達が名付け親になり、自分の名前を知っている者やフルネームをおぼえている者はファミリーネームをサンティアスに改名させ統一させた。
ただ自分の本当のファミリーネームを名乗りたいと言う者には、聖育院を巣立った後本当のファミリーネームを教えたり、再度戸籍を変えて名乗らせた。
その中でサンティアスの姓も名乗りたいと言う者がいればそれも自由に名乗らせてきた。
現在でも聖帝国にサンティアス姓が多いのはその名残であり、そして現在もその数は増え続けている。
オルブライトはペンを持ち、『ハンス・シュミット』『セボリオン・サンティアス』と綴られた文字の上から斜線を引いた。
「オルブライト司教!何を!?」
オルブライトは院長の言葉を聞いても手は止めず、斜線を引いた下の項に新たに文字を書いた。
「これで結構です」
「オルブライト司教。いくらあなたでもそれは…」
「元の名前に戻すだけです…いや、ひとつ名前が増えましたけどね。これがアレの元々の名前です」
「…こ!これは!!?」
オルブライトから返された紙に書かれていた名前を見た瞬間、院長は目を見開いた。
「元の名前は成人するまで隠しておくのが慣例ですが、あいつの場合はもっと複雑な事情がありましてな。あいつの両親もそれは了承済みです」
「…これは大変な事になりますよ」
院長は血の気のうせた青白い顔をして、紙を持った手と唇を震わせている。
「死人が蘇って来るとは」
「元々死んではおりません。行方不明と言うだけでね」
「いきなり地位を投げ捨て行方不明になった方の形見がまさかここに…」
「木を隠すには森の中ですな」
「このことは」
「知っていたのは私と大司教、そしてあいつの両親だけです。母方の祖父母には伝えてはおりません」
「…なんということを」
「…何故あなたはそれを知っていたのですか?」
「恥ずかしながら不肖の息子の忘れ形見でしてな」
「なんですと!!?」
「勘当したはずの馬鹿息子が顔を見せたと思ったら結婚をしていて、更には子供まで生まれていた。あいつがここに来たとき私の顔を見て心底驚いていましたな。まぁ私も驚きましたが」
「これはもしかしなくとも聖帝国内で大騒ぎになりますよ。今からでも遅くはありません。セボリオンのままで過ごさせてあげましょう。それがあの子のためでもありこの国のためでもある」
「いえ、それはいけません。この子を預かる時に一度名前を捨てさせた。しかし約束したのですよ。必ずこの子を日の目に当たる場所へ出してくれとね」
「あの子は十分日の目を浴びているではないですか!!」
「ええ、私もそう思います。普通なら私もそうします。ただね。あいつを預かる時にあのお方との約束と言われたのですよ」
「あのお方…」
「そう。聖下とのね。詳しい内容は話せないといわれました。だが聖下が関わっていることは間違いない。私がオルブライトの位を承った時、直接聖下にお尋ねしました。聖下も詳しくは話して下されなかった。だが、息子夫婦が行方不明になった件に御自身が関わっていると明言されていた」
院長の顔は先程の青白さを通り越し、最早死人のように白い。
そんな中、オルブライトは顔を床に向け、まるで反芻していたことが口から思わず出てしまったというように呟く。
「…対価を貰った」
「へ?」
「対価を貰ったと言われました。恐らく息子夫婦と聖下は何かしらの取引をしたのでしょう」
院長がオルブライトを見ると、オルブライトは下を向いたまま涙を流していた。
「…もう15年か…最初にアレを抱いた時は本当に小さく軽いはずなのに、まるで黄金を抱いているかのように重かった。だがとても温かくて良い匂いがした…」
オルブライトの独白を院長は唯黙って聞いている。
「息子の嫁が『良かった。助かった。生きてる』と涙ながらに言っていたんですよ。それで私は聖下と何の取引をしたか粗方分ってしまった。そんな事が知られればただ事ではすまない。だから当事大公だった侯爵に何も言わずに消えたのでしょう。私は罪深い事と知りながらこの事を隠し続け聖育院を利用した。申し訳ない。真に申し訳ない。この罪は私が如何様にも受けましょう。だがあの子には罪はございません。どうか…どうか!」
涙を流し慟哭するオルブライトとは対照的に院長の顔は無表情であった。
どの程の時間が流れたのか、静まり返った室内に一つの溜息が漏れる。
「はぁ…顔をおあげなさいセオドアール」
院長の言葉にオルブライトの体はピクリと動く。
だがそれでも顔を上げようとはしない。
「セオドアール・ディアマンテ・フォン・トリノ・ド・ラ・オルブライト・サンティアス。あなたの罪は本当に重く罪深い。ですがね。私はあなたの罪をとやかく言える立場では無いんですよ」
院長の言葉にオルブライトは顔を上げた。
「あと…この事を知っている人物はもう一人いたでしょう?当事の聖育院の院長だ。いくらあなたが当事副院長だったとしてもサンティアスの養い子として受け入れるためには院長の許可が要るはずです。あの方は老齢のため引退された3年後に既に亡くなっておられるので今更罪を問う事はできない。それにあなたは当事副院長だったとしても今現在はオルブライト司教座の司教です。私よりも高い地位にいる。そんな人間に私が断罪できるはずないでしょう。大司教もそうです。更には聞けば聖下が関わっているとなるとそれこそ私のような木っ端な人間がとやかく言う事など出来るはずも無いでしょうが!本当に貴方は意地が悪い!全て分ってやっている貴方の性格の悪さは誰に似たんですか!!?」
「きっと大司教猊下の薫陶のおかげでしょうな」
「捻じ曲がったセボリオンの性格と根性は貴方に似たからですね!!」
「私はあそこまで酷くは無かったですよ。それに私は罪を受けやすいようにとずっと副院長の座を守っていたのに早く上に行けとせっついたのは貴方でしょうが!」
「人のせいにしないでください!!そう言うところもそっくりです!!!」
「私はあんなに底意地悪くは無い!」
「何処がですか!」
「ええ、そうですね。そっくりですね。いえ、まだセボリオン君のほうがマシでしょう」
二人だけしかいないはずの部屋に違う声が聞こえた瞬間、院長とオルブライトは声のした方に急いで顔を向けると、そこには見知った顔があった。
「…閣下」
振り向いた先には帝佐が立っていた。
いつも神出鬼没な帝佐はセボリオンの戸籍謄本を手に取り一瞥した後、オルブライトに視線を向けた。
「セディ。本当にこれで良いのですか」
「はい。問題ありません」
「いや。私が言っているのは本人に確認を取らなくても良いのかと言う事なんですがね」
「大丈夫です」
「高等部のこともありますし、あとで喧嘩になっても知りませんよ。いやもしかしたらもう怒って二度と顔を出さない可能性すらある」
「そうなればそれまでです。覚悟はしています。これは馬鹿息子夫婦との約束ですからな。それにセボリオンの名前は残りますし、この名前は戸籍上の名前で正式な場で使えばいいだけのこと。普段は今までどおりセボリオン・サンティアスと名乗れば良いのです。さぁ早く承認して下さい。これから直ぐにでもアルグムンに行ってこの名前を再登録しますので」
「セボリオンの名前は貴方が残したかっただけでしょう。貴方が妻のクリスティとの賭けに負けて息子の名前がエイルクリストファになったと酔って泣きながら報告してきたじゃないですか。絶対にセボリオンにするんだとエイルがおなかにいた時から騒いでいましたよね」
帝佐の言葉にそっぽを向くオルブライトを、院長は生暖かい目で見つめた。
帝佐は小さな溜息を吐いた後、戸籍謄本を院長へと手渡す。
「では院長。確認の印をお願いします」
「ハァ……こうなれば一蓮托生でしょうね」
「昔、ある人がこう言っていましたな『赤信号。皆で渡れば怖くない』赤信号が何なのか良くは分りませんでしたが、その人が言うには共犯は沢山作っておいたほうが便利だし楽しいらしいですぞ」
「本当に碌でもない事を覚えていますね。その顔、昔の悪戯坊主の悪童セディのままですよ」
帝佐に悪童と呼ばれると、オルブライトはまるで少年のように屈託の無い顔で笑った。