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作者: 降鳥 新智

 その日、僕はいつもより三十分早く家を出た。朝の一分一秒は、より長くベッドの上で安らかな時を過ごすために深夜のそれよりも貴重だ。しかし、今朝はどうしてだか早く目が覚めてしまい、どう足掻いても寝付くことは出来そうになかった。いつも通り学校に向かうだけだが、家を出る時間を変えただけで、今日は何か良いことが待っているかのような気がしていた。17歳のありふれた日常が少しだけ非日常になったような気がした。

 僕の住む町は閑静な住宅街だが人口は多く、朝の駅は通勤や通学の利用者で溢れかえっている。電車を待つ列はどれも変わらずいっぱいだが、少しでも少なそうな列に並ぶ。学校に行かなければいけないということよりも、満員電車に乗らなければいけないということの方が僕にとって気が重くなることだ。電車の発車時刻を見るため、ふと右にある電光掲示板に目を向けた。そのとき、見慣れない制服の同い年くらいの女の子が目に入った。黒髪を短めに切ったヘアスタイルは彼女の端正な顔立ちを際立たせていたが、同時にどこか可愛らしさも演出していた。整っているが、冷たい印象はなくどこか明るさを感じるあたたかい顔でもあった。僕はただ彼女に見とれ、そして吸い込まれるように列を抜けた。


 満員電車はとても素晴らしいものだ。彼女の後をつけ同じ車両に乗ると、幸運にもすぐ隣の位置を獲得するに至った。少し下にある小さな頭からは嗅いだことのない良い香りがし、制服越しに感じる彼女の身体は柔らかく心地良かった。僕はいつもより早く目が覚めたことに感謝し、この非日常的な出来事を堪能していた。どこの学校の子だろうか。声をかけて話してみたい、あわよくばまた会ってお近づきになりたい。僕の頭の中では勇者と臆病者が議論を始めていた。勇者が曰わく、もう一度彼女の顔を見よ、そしてこんな美しい娘が他にいるかを考えよと。声をかけない理由がないことがはっきりとわかるだろうと。僕は彼女の顔を覗き込んだ。 

 しかし、僕が見た顔は彼女の整った可愛らしい顔ではなかった。顔を歪め、何かに怯えるような表情だった。一瞬、何が起きているのかわからなかったが、まさかと思い辺りを見回すと、反対側の斜め隣にいる中年男が目に入った。禿げた頭、脂っぽい顔、そして醜い丸顔、絵に描いたような思春期の女の子が嫌いそうな中年男だったが、そんなことよりも、無表情かつ虚ろで、しかしはっきりとした意志のある目である一点を見つめていたことに僕は戦慄を覚えた。その先には彼女の太腿があり、そして彼の手がそれを物凄い勢いで撫でさすっていた。遠慮がちに、あるいは忍んでいる様子など微塵もなく、無遠慮に堂々と、一心不乱に高速で撫でさすっていた。見たところ、彼は僕が気付いていることにも全く気付いていないように思えた。痴漢を見たのは初めてだったが、おおよそ考え得る普通の痴漢とは明らかに違う、常軌を逸した行為だった。彼女の顔から感じたものは痴漢をされているという嫌悪感ではなく、恐怖の叫びだった。僕は周りを見渡したが、誰も気付いていないようだった。いや、気付いていないフリをしていたのかもしれない。僕ら三人はまるで箱に緩衝材とともに詰められているように思え、目の前に広がるものはただ三人分の狭い空間でしかなかった。

 彼女が僕の顔を見上げた。目に涙を浮かべ、何かに縋るように僕を見つめた。僕は初め頼りにされていることに喜びを感じたが、すぐにそれは消えた。躊躇いながらも僕は目を逸らし、周りの肉体を押しのけて鞄を漁った。単語帳を取り出し、そしてそれに意識を集中した。そこにはただ二人だけが取り残されていた。

 「物凄い勢いで太腿を撫でさする図」というお題をいただき、一時間ほどで書き殴った話です。図を想像するとシュールで、ホラーなのかコメディなのか紙一重な感じですね。


※痴漢は犯罪です。絶対にやめましょう。

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― 新着の感想 ―
[一言] 女の子と目が合って自分が状況を認識していることを相手に悟られた時点で、自分のような臆病者なら一声かけずにはいられなさそうな状況ですな。下手に見て見ぬ振りをして痴漢幇助を疑われるほうが怖いです…
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