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始まり

 四月十四日、午後九時。

 福岡県北九州市小倉北区、北九州メディアドーム。

 その時、俺たち七人は全員、ドーム二階にあるローラー室でウォーミングアップを行っていた。

 ローラーはルームランナーの自転車版だ。鋼鉄のローラーの上に自転車を置き、筋肉の具合を確かめながらペダルを漕ぐ。

 俺たちが出走するのは十一時十七分。

 今日の最終戦であり、今回のミッドナイト競輪の決勝だった。

 全員がA級一班に所属し、昨日の夜中に行われた予選で一位を取っている。

 下は二十六歳の安達から、最年長は四十二歳の立川さんまで、誰一人とっても侮れない。

 だが、俺ももう二十九歳。今がピークだと感じる。S級入りを目指すならば、今日も勝つしかなかった。

 そろそろウォーミングアップも十分だ。

 そう思ったとき、同期の村田が俺の横に立ち、首をひねった。

「なんだ? どよめきが聞こえないか、知己島……」

「どよめき?」

 俺は脚の回転をゆるめ、ゆっくりと車輪を止めた。バーをつかんで身体を支え、耳を澄ます。他の選手がローラーをまわす音しか聞こえなかった。

 ペダルから足首を外しながら村田に言う。

「特にどうっていうことはないな。どんな感じだった?」

「どんな感じって……、このメディアドームでどよめきって言ったら、観客の歓声しかないだろ?」

「空耳だ」

 俺は断定した。

 観客の歓声などあるわけがない。

 普通のナイター競輪とミッドナイト競輪の違いは、ただ時間帯だけじゃない。

 経費削減のため、ミッドナイト競輪では一人の観客も入場させないのだ。投票券は電話とネット回線を通じてのみ発券され、レースの模様は放映によってだけ観戦できる。

 観客のいない閑静としたドームのなか、俺たちは真夜中のしじまを貫いて戦う。

 今もバンクではレースが行われているが、どよめきなど起こるはずはなかった。

 俺は言った。

「レースに対する集中力が高まってるんだな。武者震いみたいなもんさ」

「そんなもんかねぇ……」

 村田の呟きの半分は聞こえなかった。

 ローラー室の中央あたりから、ガシャンと大きな金属音が響いて、彼の声を掻き消したのだった。

 見ればローラーの立ち並ぶあいだの床に、金属製の格子が落ちていた。

 天井の換気口から外れたらしいが……。

 日焼けした肌の立川さんが、ドリンクを片手に様子を見に行く。

「こんなもの、自然に落ちるわけないだろう、おかしいな……」

 立川さんは格子をつま先でつついた。それから換気口の真下に立って、上を見上げる。

 そこへ、人間の上半身が落ちてきた。

 腰から下はなく、脊椎と大腸の切れ端が揺れている。その血まみれの上半身は、信じ難いことに生きていた。

「ヴぁあああああぁーッ!」

 半身は立川さんにしがみつき、獣のような唸り声をあげて盛り上がった肩に齧りつく。

 俺は驚いて自転車に足をひっかけてしまって、尻餅をつくことになった。

「なんだ、コノヤロー!」

 立川さんは怒声を張り、半身を引き剥がそうともがく。

 村田と今井が駆け寄って、もみ合うようになったかと思うと、生ける上半身を床の上へ放りだすことに成功した。

 その生皮を剥がされたような赤黒い頭部に、一番若手の安達が自転車を振り下ろす。

「コノヤロー! コノヤロー!」

 安達は叫びながら、何度も自転車を打ちつけた。俺たち競輪選手は上半身の筋力だって相当なものだ。安達の自転車はあっという間に車輪が歪み、使い物にならなくなる。

 生ける半身の頭が割れ、その動きとうめきが止まった。紫色に変色した脳漿がはみ出している。

 安達はフレームの変形した自転車を投げ捨て、放心したように立ち尽くした。

 俺も立ち上がり、恐る恐る近づいていく。

 このローラー室にいた七人全員で、死体を取り囲み、見下ろす。鼻腔にまとわりつくような腐敗臭が、辺りを満たしていた。

 荒い息をつきながら、立川さんが言う。

「怪我はないか、みんな?」

 村田と今井が無事と答え、俺たちの目は立川さんに向けられた。

 立川さんの体は黒い血糊でべったり濡れていたが、彼は気丈に言った。

「俺もプロテクターが無かったらまずかったな……怪我はない」

 ここにいる七人のうち、俺も含めた半数は、レースのためにプロテクターを身に着ける。シャツの下にはポリカーボネートの鎧があったのだ。人間の噛み付きくらい防げる。だが、眼下に横たわるこの存在はなんなのか?

 割れた頭から脳髄を溢れさせる、ボロ雑巾のように傷んだ人間の上半身。顔は腐敗と損傷が激しくて、年齢がわからない。汚れたワイシャツとネクタイを着けていることから、換気口に入って作業をするような者だとも思えなかった。

 立川さんに次ぐ年長者、三十三歳の近藤さんが呟く。

「コイツは何なんだ……?」

 俺は口をつぐんで一つの単語を飲み込んだ。

 ゾンビ……。

 それ以外に何がある?

俺の右に立っていた安達が、頭に手を当てて嘆息する。

「お、俺、やっぱり人を殺しちまったのか……いや、でも……」

 俺は安達の肩をつかんで言った。

「しっかりしろ、安達! こんな状態で生きてる人間がいるか! こいつは……」

 俺は断固として続けた。

「こいつはゾンビだ!」

「よせよ、知己島」

 近藤さんが呆れ顔で言うのに、今井も続いた。

「ゾンビなんて理屈が通りませんよ、知己島さん……」

 俺は二十七歳の今井に言い返す。

「理屈っていったか、今井。身体を真っ二つにされたうえで、こんなに腐り果てた人間が換気ダクトの中を動き回ってる理屈があるのか? こいつは昨日今日に死んだ奴でさえない」

 立川さんと村田は、思案顔で黙っている。

 安達と同期、同い年の黒丸が言った。

「どっちにしろ誰か呼んでこないと。死体があるんだから、警察にも連絡しなきゃ」

 黒丸は踵を返して走っていく。

このローラー室を出れば、車両を整備する検車場だ。検車場は広く、敢闘門までつながっている。敢闘門、つまりバンクへの出入り口まで行けば、確実に連絡が取れる。

 俺たち競輪選手はレースの前日から、このドームに隣接された宿舎に入らなければならない。携帯電話などの通信機器を持ち込むのは禁じられ、外部との連絡は手間がかかる。

 もっとも、こんな状況に陥ることは前代未聞だろうが。

 警察と聞いて青ざめた安達を励ます。

「安心しろ安達。お前は全員のためにやったんだ。今度は俺たちが守ってやる」

 ゾンビには懐疑的な近藤さんも続く。

「そうだな。それは確かだ……」

 その時、遠く低い悲鳴が聞こえた。

「黒丸!」

 口々に叫んで駆け出そうとする俺たちを、立川さんが押しとどめて言う。

「待て! 俺が様子を見てくる。みんなで危険を冒すな!」

 足音を立てないような小走りで、立川さんが両開きの扉を抜けて行った。俺たちも扉の近くに待機する。固唾を飲んで待つこと数秒。足音も高く、立川さんが扉から飛び込んできた。

「黒丸は手遅れだ! 来るぞ、動きが早い!」

 俺たちは浮き足立った。

「武器になるものはないか!」

 誰かの叫びに安達が応える。

「ピストしかねぇ!」

 安達はひしゃげた自分の自転車の代わりに、黒丸の自転車を持ち上げた。

 俺たちはそれぞれ自分の自転車を持ち上げ、大鎌のように構えて待ち受けた。

 何が来るのか直感では理解しても、理性がやはり途惑わせる。

 自分たちの滑稽さに力が抜けかけた時、扉を弾くようにしてそれが現れた。二体のゾンビが。

 片方は首がちぎれかけてぶらぶらしている。もう一体は腹がぱっくりと口を開け、内臓が無くなっていた。手には大きなスパナを持っている。

どちらも白いシャツに水色のズボンを身に着けているし、顔に見覚えがあった。検車員だ。さっきまで生きて仕事をしていた人間が、傷だらけですでに腐りかけている。

 言葉をかけたくなった逡巡を突かれた。

「ヴォオオオオオオオォッ!」

 ゾンビが唸りをあげ、一番前に出ていた安達に向かってスパナを投げつけた。

 意外な行動に面食らった安達が、ゾンビの突進を受けて押し倒された。

 だが、安達は腕を突っ張ってゾンビの上体を押し上げる。

 俺はそこをめがけて、なぎ払うように自転車を振るった。

 ゾンビは安達から離れ、ローラー台の上に倒れこむ。

 俺はさらに自転車を振るい下ろしたが、ローラー台の横にあるバーが邪魔な上に、腹筋のこそげ落ちたゾンビが起き上がろうとする動きは、まったく予測しにくかった。

 とても頭を潰すほどの打撃は与えられない。

 もう一体は立川さんと村田、今井が相手にしているが、そっちもうまくいってなかった。

 なんとか自転車をふるって千切れかけた首を落とそうとしているようだが、四肢のそろった相手にふらふら揺れる自転車の前輪では分が悪い。

 抜け目なく出入り口の扉に立っていた近藤さんが叫ぶ。

「ローラーを出るんだ! ここは袋で逃げ場がない!」

 直後、近藤さんの背後から、皮膚のめくれた灰色の腕が巻きつけられた。その腕の持ち主が近藤さんの首筋に喰らいつく。

 検車場に併設されている売店の女店員だった。



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