小休止 生まれた日
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きみはだれ?
ぼくはだれ?
だれもいない、いない。
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眠い目を擦り起き上がったのは、小さな少女だった。年は10くらい、瞳は半分ほど閉じられたままだった。うっすらと差し込む陽を見つめながら眩しそうに目を細めると、伸びをする。簡素なベッドから降り、ベッドを整えると、部屋の外の洗面所へ歩いていく。
洗面所では水道の蛇口が五つずつ並び、その上には広い長方形の鏡が置いてある。きちんと掃除されているからか、鏡はぴかぴかに輝いていた。
「ユウ、おはようさん」
「ふぁ?」
声をかけられ、顔を洗っていた少女が振り向くと、白いエプロンを身につけコック帽を小脇に抱えた恰幅のいい女性がいた。瞳は細められ、親しみやすい表情で少女の頭を撫でた。
「今日は早いね?どうしたんだい?」
「あ、はい、えっと…」
なぜかユウが言いよどむと、もう一度頭を撫でる女性。
「いいよ、早起きする理由があったんだろう?」
「あ、はい」
「そうかい。それはよかった。じゃあ私はこれで」
どうやら女性は、珍しく早起きした少女を見つけて声をかけるために近付いてきたようだった。少女はぺこりとお辞儀をして女性を見送ると、自らも部屋に戻る。
そして、ワクワクした顔で着替えるのだ。
―今日は少女が主に救われた、記念すべき日なのだから。
―――
降りしきる雨の中、壊された木造の豪邸の前。玄関だった場所に、1人の女性と幼い子どもがいた。女性は母親であろうが、今は力なく倒れている。その腕に抱かれ、幼い子ども…赤ん坊が泣いていた。母親の頬の辺りに手をやり、力ない手で触るも女性は動かない。弱弱しい泣き声は、辺りに響く。
「うるせぇ…これだからガキは・・・」
「落ち着け兄貴。この母子は殺さず連れ帰れってご命令だ、早くしねぇとまずいぜ」
2人に影が差し、赤ん坊は抱き上げられ、母親は担ぎ上げられる。
「このダラック兄弟が弱小貴族の使い走りたぁ、泣けてくるね、俺は」
「兄貴、金のためだろ。この仕事が終わったら地面に戻ろうぜ。無銘の盗賊に恩を返しに行くんだ」
「まぁなぁ・・・ち、あんにゃろう、面倒くせぇことさせやがって」
男2人は暗い影に帰っていく。車に乗り込み静かにスタートさせるとその場を去っていった。その後姿を、焼け焦げ崩れ落ちた豪邸が見送っていた。
* * *
「貴様!なぜ言われたとおりにできんのだ!!」
数年後、豪邸の跡地には城が建っていた。焼け焦げて炭になった柱は見る影もなく、あるのは白い壁と赤い絨毯の敷かれた真新しい城。
きれいな廊下や部屋の並んだ1階より下。地下に入ると、むき出しの塗装の床や壁が並ぶ。木製の薄汚れた扉、その奥は一部屋ごとに座敷牢があった。牢の中は冷たい部屋で、拘束するための鎖のみがある。窓もなく、よどんだ空気の中に幾人かが入れられていた。
その中にあってただ1人、少女が城の主に怒鳴りつけられていた。床に転がされ、暴行を受けている。
「いいか。お前は親に捨てられたところを私が拾ってやったのだ。私に奉公する義務がある」
ごろりと転がされた身体には既に力は入っていない。しかし、その瞳からは涙を見ることは出来ない。青あざの出来た腕や足は力なく投げ出され、虚ろな瞳は主の足を見ていた。
主は少女に飽きたのか、くるりと背を向けて歩き出す。響いていた足音が次第に遠のいていき、少女は初めて動こうと身体を動かした。結局、動けずに薄暗い天井を見上げた。
「……あ、」
試しに声を出してみると、声を忘れているわけではなさそうだ。
寒い、と思う。地下は太陽の季節でもひんやりとしている。
「大丈夫か」
暫くして、ぼそりとそんな声が聞こえた。それはどうやら男の人で牢の中にいるらしい。しびれる身体を動かして起き上がろうとすると、「動かなくていい」という声が聞こえてきた。
「全く、あいつも酷いことしやがる…」
男の人の姿は見えないが、心配してくれているのだろう。
「…ん? 誰か来る…」
それきり声が聞こえなくなり、今度は足音が聞こえてきた。少女に恐怖をもたらす足音ではなく、それは随分と危なっかしい足音だった。
「…っしょ、いっしょ」
今度は少し高い、子どもの声のようだった。ゆっくりとこちらに近付いてくる。
「ふふ〜ん、ここならぜったいにみつからないぞ!」
何かをして遊んでいるらしい。少女にはどんな遊びだか、見当もつかなかった。
男の子にも女の子にも見える小さな子どもが、軽い足音を響かせて近付いてくる。子どもには見えないのだろうが、少女にはその姿がはっきりと見えていた。高価そうな服を着て、綺麗な髪と柔らかそうな顔。少女とは反対の姿である。
「わ…まっくらだ…」
一応薄暗い照明がついているのだが、地下の上で生活していたのだろう子どもには真っ暗に見えるらしい。
「なにがあるんだろう…」
少女はしびれる身体をゆっくりと起こす。直感だったが、その子どもに自分の姿を見せてはいけない気がしたからだ。ゆっくりと確実に近付いてくる足音に、少女はゆっくりと音を立てないように下がっていく。この先には、物陰がある。そこに行けば、隠れられる。
立ち上がれずに座ったままゆっくりと下がっていた少女には、背後を確認する時間などなかった。それは致命的なことだった。
カラン、と、金属の音がして、少女は凍りつく。
「…だれかいるの?」
子どもの問いかける声に、少女は反応することが出来ない。右の手が触ったものは、赤黒く錆びた短剣だった。
「…おねえちゃん、だれ?」
声をかけられて初めて目の前に子どもが立ったことに気がついた。焦って振り向くと、無垢な瞳が少女を見つめていた。
「けがしてるよ? だいじょうぶ?」
「…あ、は、い」
たどたどしくはあるが、声を出すことが出来た。少女はどうにかして逃げなければ、と思う。おそらく、もうすぐで―
―大きな音がした。
それは少女に恐怖を与える音で、重く荒々しい足音が聞こえてきた。それはいつもより急いでいるように聞こえる。
「リチャードっ!!」
子どもの肩がびくりと震える。
「ああ、どうしてこのような汚らわしいところに…心配したぞ、リチャード」
子どもを抱き上げる恐怖の対象は、優しい父親である。少女には得たことのない暖かさだ。
「貴様…リチャードをそそのかしたな!?」
これ以上暴行を受ければ、おそらく命に関わるだろう。けれど、少女はそれでもいいと思った。それで、この世界から逃れられるのであれば。
「とうさま、おねえちゃんはどうしてけがしているの?」
小さな声が、主の行動をさえぎった。主は優しく、子どもに語り掛ける。
「これは人ではない。私やリチャードに仕える召使いだ。失敗を重ねたのでな、仕置きをしているところだ」
本来、少女は失敗などしていない。何故か、主は少女を目の仇にしているようだった。
「でも、ぼくにはいないよ?」
首をかしげる子どもは、主の腕の中から抜け出して少女にかけよる。
「そうだ、おねえちゃんがぼくのめしつかいになってよ!」
「いかんぞリチャード、お前にはもっと優秀な者をつけるのだから」
「やだっ!! このおねえちゃんがいい!」
「わがままを言うなリチャード…」
「だって…ここにはぼくといっしょにあそんでくれるこがいないんだもん!」
主はうむ、と考える。
「では、呼んでこよう。それならいいだろう?」
「やだー! このおねえちゃんがいい!! ぼくがさきにみつけたんだから、ぼくのものだ!」
主は大きなため息を吐いて、リチャードの頭を優しくなでる。
「わかったわかった、それはお前にやろう。ちゃんと躾けるのだぞ?」
「うん! ありがとうとうさま!」
そのやりとりは少女にとって余りに軽いやり取りだった。けれど、無垢な瞳を見ていると、今よりはいいのかもしれない、と思う。
「おねぇちゃん、なまえは?」
名前などない。名前など知らない。
しかし少女は、それを言葉に出すことをためらう。そんなことを言ってもいいのだろうか。
と、主となった子どもの後ろから、嫌なものを口に出すような声音が聞こえた。
「ユウだ」
「ゆう?」
子どもは首をかしげる。どうやら確認しているようだ。
「は、い」
初めて聞いた自分の名前。
本当かどうかなんてわからないが、ようやく物から人になれた気がした。
「これからよろしくね、ユウ!!」
主の背後では、憎悪を映した瞳がユウを見ていた。あの暴力に晒されるのには慣れたが、これからはどうなのだろうか。
-わからない。
けれど、多分大丈夫だろう。
なんとなく、そんな気がした。
―――
「ユウ、起きて」
ゆっくりと目を開けると、主の顔があった。びっくりして飛び起きると、頭を顎にぶつけてしまった。
「いたっ…」
「いってぇ」
頭と顎を押さえながら、顔を見合わせる。2人とも涙浮かべ、ユウは申し訳なさそうに、リチャードは困ったように。
そのうち、くすくすと笑い出す。
「あ、リチャードさま、こちらへいらしてください」
「うん? なに?」
促して、広い部屋の中にあるテーブルへ移動する。
何も乗っていないテーブルの定位置にリチャードを座らせ、自らは隣のキッチンへ。
そして戻ってきたユウは、その手に小さなケーキを持っていた。
「…どうしたの、それ?」
「今日がどのような日か、覚えておいでですか?」
「うん、ユウの誕生日だ」
生まれて初めて人になった、誕生日。
「はい。それと、リチャードさまに救っていただいた日でもあります」
にっこりと笑って、少し崩れたケーキを主の前におく。
「…もしかしてこれ、手作り?」
「はい…お口に会うかどうか…」
リチャードはそれを一口、何のためらいもなく口に運んだ。
「うん、おいしいよ! はい、ユウにも」
リチャードは一口分をフォークですくうと、ユウの前に運んだ。
ためらうが、リチャードの変わらない無垢な瞳が、否定することを許さなかった。
ぱくりと一口貰う。甘いケーキの味が口の中に広がる。
「誕生日おめでとう。これからもよろしくね」
「もったいないお言葉です。私も…ありがとうございました。一生忘れません」
そしてもう一度笑いあう。
それはとても幸せな日々だ。
あの頃とは違う、人間の自分。
世界はとても暖かい。
* * *
ユウは僕を許してくれるだろうか。
今のこの世界が壊れないだろうか。
いっそ壊してしまおうかとも思うけれど、幸せそうなユウを見ていたらそんなことも出来ない。
僕らはずっと一緒に入られない。
そんな気がするんだ。
怪我をしていても汚れていても失わなかった気高さや高貴さ。
それはきっと、いつかユウを自由へと導いてくれるだろう。
本当はそんな事許したくはないけれど。
約束だから。
僕とあの方の約束だから。
『あいつ』がしたことの後始末は、僕がつける。
だからそのときまで。
せめてそのときまでは、一緒にいさせてくれ。
許さなくてもいい、知らなくてもいい。
せめて隣に。
大切な、大好きな、姉さん―――