婚約破棄が壊したもの――殿下、ご理解いただけましたか?
「イリナ。君との婚約を破棄する」
王太子殿下からそう告げられたのは、春の夜会が始まる少し前だった。
呼び出された小広間には、殿下と私、それから数人の側近がいる。私は少しだけ考えてから、確認した。
「婚約を、破棄なさるのですね?」
「ああ」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
殿下は、待っていたとばかりに息を吐いた。
「君は王太子妃にふさわしくない。三年間、私は君を見てきたが、君は何もしなかった」
「何も?」
「夜会を開くわけでもない。貴族たちを集めて茶会を催すでもない。慈善事業に熱心なわけでもない。いつ見ても書類ばかり読んでいる」
「ああ」
そういうことか。ようやく私は理解した。
「王太子妃となる女性には、もっと華やかさが必要だ。人を惹きつける力もな。君にはそれがない」
「なるほど」
「……それだけか?」
「はい。理由は理解いたしました」
殿下が怪訝そうな顔をする。泣くと思っていたのかもしれない。怒ると思っていたのかもしれない。
けれど、婚約したくないという人に婚約を続けてもらっても仕方がない。私は殿下に頭を下げた。
「承知いたしました。婚約破棄をお受けいたします」
「ずいぶんあっさりしているな」
「殿下がお決めになったことでございますから」
私は手にしていた鞄を開いた。今日も夜会の前に確認していただく予定だった書類が入っている。
「では、こちらをお返しいたします」
「何だ、これは」
「現在、私がお預かりしている案件です」
「案件?」
「はい。王都西部への小麦供給契約。それから王家御用の織物商会との取引などです」
「待て。なぜ君がそんなものを持っている?」
「婚約者としてお預かりしていたからです」
「君が?」
「はい」
殿下は書類を一枚手に取った。しばらく眺めていたが、すぐに机へ戻す。
「こういうものは官僚の仕事だろう」
「もちろん、契約書を作成し、正式な手続きを進めるのは官僚の方々です」
「ならば君は何をしていた?」
「条件の調整を」
「条件?」
「はい。こちらの小麦でしたら、当初の価格では商会側が難色を示しておりましたので、王家所有の倉庫を無償で貸し出すことを条件に、価格を下げていただきました」
「……それを君が?」
「皆様とお話しして、双方が納得できるところを探しました」
側近の一人が書類を覗き込んだ。
「殿下。これは確か、昨年かなり揉めていた案件では……」
「ああ。だが、最終的にはまとまった」
「はい。まとまりました」
私が答えると、殿下は首を傾げた。
「ならば、もう済んだ話だろう」
「すでに契約済みのものについては。ただし、定期的な条件更新が必要な契約もございますし、まだ交渉中の案件もございます」
「そうか。今後は官僚に任せればいい」
「引継ぎはいかがいたしましょう」
「必要ない。書類があるのだろう?」
「はい」
「ならば官僚が読めば分かる」
「承知いたしました」
私はもう一度頭を下げた。
「それでは殿下。三年間、お世話になりました」
小広間を出ようとしたところで、殿下に呼び止められた。
「待て、イリナ」
「はい?」
「今夜の夜会には出席しろ」
意外な言葉だった。
「よろしいのですか?」
「ああ。そこで皆にも婚約を解消したと伝える」
「今夜、ですか?」
「何か問題があるか?」
「いいえ。殿下がお望みでしたら」
「ならば決まりだ」
殿下は満足そうに頷いた。
私は知らなかった。このとき殿下が何を考えていたのか。
知ったのは、三日後のことだった。
◇
翌朝。
私は久しぶりに、何の予定もない朝を迎えた。
「……暇ね」
思わず口に出してしまった。向かいに座っていた父が笑う。
「二十歳の娘が、朝食の席で言う台詞ではないな」
「だって、本当に何もないのですもの」
朝食を食べても、書類が来ない。商会から使者も来ない。王宮から呼び出されることもない。
十七歳で王太子殿下の婚約者となり、王太子妃教育の一環として実務に関わり始めてから三年。こんな朝は初めてだった。
「少し休みなさい」
「そうします」
紅茶を飲む。温かい。いつもなら飲みながら書類を読んでいた。
今日は紅茶しかない。
「……おいしい」
「今さら気づいたのか?」
「今さら気づきました」
父と二人で笑った。
その日の昼、一通の手紙が届いた。王都最大の穀物商会からだった。
『長年にわたり大変お世話になりました。イリナ様が王家との交渉を離れられるとのこと、承知いたしました』
その下には、
『今後の契約につきましては、新しいご担当者様と改めて条件を協議させていただきます』
とあった。
当然だ。私は返事を書いた。
『こちらこそ、これまでありがとうございました。今後とも王家との良きお付き合いを願っております』
もう一通は、王家御用の織物商会からだった。
内容はほとんど同じだった。担当変更を承知したこと。これまでの礼。そして今後については、王家の新しい担当者と話し合うということ。
「皆様、律儀ね」
私は手紙を箱へしまった。それから昼食を食べ、午後は久しぶりに庭を歩いた。
三年間できなかったことを、少しずつやってみようと思った。
◇
三日後。
王宮から使者が来た。
「イリナ様。国王陛下がお召しです」
「陛下が?」
「はい。至急、王宮へお越しいただきたいとのことでございます」
私はすぐに支度をした。
婚約を解消したとはいえ、私はこの国の貴族令嬢だ。国王陛下からの召しを断る理由はない。
ただ、なぜ私なのだろう。
答えが分からないまま王宮へ到着し、案内された場所を見て、私はさらに緊張した。
謁見の間だった。
玉座には国王陛下。その隣には王太子殿下。さらに宰相閣下と、数人の高官が並んでいる。
私は定められた場所まで進み、膝をついた。
「イリナ・アルフェルト、陛下のお召しにより参上いたしました」
「急な呼び立てを許せ。顔を上げよ」
「はい」
顔を上げる。国王陛下は、普段よりずっと厳しい表情をしていた。
「まず、そなたに確認したいことがある」
「何なりと」
「王太子との婚約が解消された後、王家との取引を停止するよう、商会へ働きかけた事実はあるか」
「ございません」
「契約条件を変更するよう求めたことは?」
「一度もございません」
「王家との取引を不利にするよう、何らかの依頼をしたことは?」
「誓ってございません」
陛下が宰相閣下を見る。宰相閣下は、小さく息を吐いた。
「……やはり、そうですか」
私は意味が分からず、黙っていた。
「三日前から、王家が関わる複数の取引で条件の見直しを求められている」
「条件の見直し、でございますか?」
「宰相」
「はい」
宰相閣下が一歩前へ出た。
「王都への小麦納入価格が上昇しました。また、王家御用の織物商会からも納入条件の変更を求められております」
「だから言ったのです!」
王太子殿下が声を上げた。
「イリナが何かしたに決まっていると!」
「殿下」
宰相閣下の声が低くなる。王太子殿下は不満そうに口を閉じた。
私は考えた。
「陛下。恐れながら、それぞれの経緯を伺ってもよろしいでしょうか」
「構わぬ」
最初は小麦だった。
新しい担当者は、王家所有の倉庫を遊ばせておく必要はないと判断し、別の商会へ貸し出すことを決めていた。
その報告を聞いた私は、すぐに理由が分かった。
「それでしたら、小麦の価格が上がるのは当然かと存じます」
「やはり、そうか」
宰相閣下が深く息を吐いた。
「はい。以前の価格は、王家所有の倉庫を無償で使用していただくことを条件に決めたものです。倉庫をお貸しできないのであれば、商会側が保管費用を負担することになります」
「契約書にも、その条件は記載されていた」
「はい」
「新しい担当者は、価格だけを見ていたようだ。倉庫の無償貸与が、その価格を成立させるための条件だとは認識していなかった」
なるほど。それなら価格が上がった理由は明白だった。
「小麦については、こちらの引継ぎ不足ですな」
宰相閣下が言った。
「倉庫を戻すか、新しい条件で契約し直せばよい。問題は――」
宰相閣下が、もう一枚の書類を手に取った。
「こちらです」
王家御用の織物商会だった。
「先方は、これまで認めていた納入条件を次回から変更したいと申し出ている。しかし契約書を確認しても、従来の条件を変更する理由が見当たらぬ」
私は少し考えた。
「元々、あの商会は現在より短い納入期限を希望していました」
「では、なぜ今まで認めていた?」
「私がお願いしたからです」
王太子殿下が眉をひそめる。
「頼んだだけで、商会が譲ったというのか?」
「はい」
「なぜだ」
「三年間、お付き合いがございましたので」
謁見の間が静かになった。
「最初から聞き入れていただけたわけではございません。こちらが無理をお願いしたときは、別の取引で譲歩しました。先方が困っているときには、王家に不利益が出ない範囲で協力いたしました。こちらが約束したことは守りました。私が間違えたときは謝罪いたしました」
「それだけか?」
「はい。それだけです」
特別なことをしたつもりはない。ただ三年間、同じ人たちと話し続けた。
すると、いつの頃からか、
『イリナ様がおっしゃるなら』
そう言ってもらえることが増えた。
「しかし」
王太子殿下が口を挟んだ。
「担当者が変わっただけだろう。王家との取引であることには変わりない」
「……殿下」
宰相閣下が、ひどく疲れた声を出した。
「何だ」
「彼らが信用していたのは、イリナ嬢個人だけではございません」
「ならば何だ?」
「王家です」
殿下が黙った。私も宰相閣下を見る。
「正確には、王家がイリナ嬢を王太子妃として迎えるという約束です」
「婚約と商取引に何の関係がある」
「大いにございます。イリナ嬢は三年間、将来の王太子妃として交渉の場に立っておりました。つまり相手方から見れば、一時的な担当者ではない。十年後、二十年後にも王家と関わり続ける可能性の高い人物です」
私は、そこで初めて気づいた。
確かに。私自身はそんなことを意識していなかった。けれど相手から見れば、そうだったのだ。
「今日こちらが一つ譲れば、いつかこちらが困ったとき、イリナ嬢なら話を聞いてくれる。そう考えた者もいたでしょう。目先では多少不利な条件でも、長期的な関係を考えて受け入れた者もいたはずです」
「ならば、なおさらおかしい」
王太子殿下が言った。
「婚約がなくなっただけで、なぜ王家への条件まで変える?」
今度は、国王陛下が口を開いた。
「お前はまだ分からぬのか」
「父上?」
「彼らが見ているのは、イリナ嬢がいなくなったことだけではない。王家が一度決めたことを、どれほど守るのかを見ている」
殿下の表情が止まった。
「三年間、王太子の婚約者として公に扱ってきた女性との婚約が、ある日突然なくなった。それを見た者たちはどう考える」
「それは……婚約と契約は別です」
「我々にとってはな」
宰相閣下が答えた。
「しかし信用という点では同じです。王家が将来を見据えて決めたことが、どの程度確かなものなのか。それを疑われております」
私は胸の奥が少し冷たくなった。そこまで大きな話になっているとは思わなかった。
「ですが、陛下。皆様が王家との取引そのものを停止したわけではございません」
「その通りだ。だからこそ厄介なのだ」
「と、申しますと?」
「誰も我が国を敵視しておらぬ。誰も契約を破っておらぬ。ただ、これまで与えていた好条件をやめただけだ」
ようやく私にも分かった。
怒っているのではない。復讐しているのでもない。ただ、以前より少し慎重になったのだ。
王家との将来の関係を期待して、今の利益を譲ることをやめた。それだけ。
「だったら簡単ではありませんか」
王太子殿下の声が響いた。
「イリナを担当に戻せばいい。今までイリナが交渉していたのなら、これからもそうさせればいい。必要なら正式な役職を与える」
「殿下。それは私がお答えできることではございません」
「なぜだ」
「私は王家の官吏ではございません。どのような役職を置き、誰を任命するかは、陛下と宰相閣下がお決めになることです」
「ならば父上――」
「その前に確認したい」
陛下が遮り、私を見る。
「イリナ嬢。そなたが担当していた案件について、引継ぎはどうした?」
「しておりません」
宰相閣下が眉を上げた。
「していない?」
「はい。婚約を解消された際、殿下に引継ぎが必要か確認いたしました。書類があれば官僚が分かるので必要ない、と」
謁見の間が静まり返った。
陛下がゆっくりと王太子殿下を見る。
「……間違いないか?」
「それは……」
「聞いている。間違いないか」
「……はい」
宰相閣下が額に手を当てた。
「交渉中の案件もあったのだな?」
「はい。先方の希望や、これまでの交渉経緯については、私からご説明するつもりでございました」
「それを不要と?」
「殿下から、そのように」
宰相閣下はしばらく黙り込んだ後、私を見る。
「イリナ嬢。今からでも引継ぎを頼めるだろうか」
「もちろんでございます」
「助かる。交渉中の案件について、これまでの経緯と先方の要望をまとめてもらいたい」
「承知いたしました」
王太子殿下が、ほっとしたように息を吐いた。
「ならば、それで済むではないか」
「済みません」
宰相閣下が即座に答えた。
「なぜだ?」
「引継ぎで戻せるのは情報だけです。小麦の件のように、どの条件とどの条件が結びついているのか。それは引き継げます」
宰相閣下は、織物商会の書類を持ち上げた。
「ですが、信用までは引き継げません」
王太子殿下が黙った。
「新しい担当者には、また一から先方との関係を築いてもらいます。それには時間が必要です」
「だったら、やはりイリナを担当に戻せばいいだろう」
「それについては、余が認めぬ」
国王陛下だった。
「なぜですか、父上」
「婚約を一方的に解消した三日後、取引条件が悪化したから元婚約者を呼び戻す。それを見た者たちはどう思う?」
「ですが、必要だから戻すだけです」
「そうか」
陛下はしばらく殿下を見つめた。
「では聞こう。お前は、余が婚約の解消を認めぬと考えていたのではないか?」
王太子殿下の顔が、わずかに強張った。
「……何のお話でしょうか」
「とぼけるな。王太子の婚姻は、お前一人の問題ではない。本来ならば、余と宰相に諮るべきことだ」
「ですが、イリナも承諾しました」
「順番が逆だ」
陛下の声は大きくなかった。それなのに、先ほどまでよりずっと重く響いた。
「余に諮れば止められる。だから先にイリナ嬢本人へ婚約破棄を告げた。そして、その日の夜会で貴族たちにも公表した」
私は殿下を見る。殿下は何も言わなかった。
「そこまで既成事実を作ってしまえば、余も簡単には撤回できまい。そう考えたのではないか?」
「……私は」
「違うのか?」
長い沈黙があった。
やがて殿下が、小さく答えた。
「父上は、イリナとの婚約を高く評価しておられました。ですから、先に相談すれば認めていただけないと思いました」
やはり、そうだったのか。
「私はもう成人しています。自分の妃くらい、自分で選びたいと思っただけです」
「ゆえに、先に婚約破棄を既成事実にした」
「……はい」
陛下は目を閉じた。
「そこまでしてしまえば、余も撤回できぬと」
「はい」
しばらく誰も話さなかった。
やがて陛下が目を開いた。
「安心しろ。お前の思惑どおり、余にも撤回できぬ」
一瞬だけ、殿下の表情が緩んだ。
「ただし、お前が考えていたより、遥かに重い理由でな」
殿下の表情が消えた。
「どういう意味ですか」
「お前は、余が婚約破棄を撤回すれば、お前の面目が潰れると考えたのであろう」
「……はい」
「その程度の話ではない」
陛下は、並べられた書類を見た。
「王太子が公の場で婚約破棄を告げ、相手もそれを受諾した。それを三日後、王家の取引条件が悪化したから元に戻す。そんなことをすれば、我が王家の言葉には三日の価値すらないと、自ら宣言することになる」
殿下は何も言わなかった。
「お前は自分の意思を通すため、余が婚約を戻せぬよう退路を塞いだ。見事だ。確かに余にも戻せぬ」
褒めているのではない。それは私にも分かった。
「そして同時に、お前は王家がこの問題を修復するための退路まで塞いだのだ」
王太子殿下が青ざめた。
「ですが……ならば、なおさらイリナを担当に戻せば」
「まだ分からぬか」
宰相閣下が言った。
「仮にイリナ嬢へ正式な役職を与えたとして、それで以前の条件に戻る保証はございません」
「なぜだ! イリナが戻るのだろう!」
私は殿下を見た。ここだけは、私にも答えられる。
「殿下。皆様は、私が将来もここにいると思ってくださっていました」
「……」
「私は王太子妃になる予定でした。ですから五年後も、十年後も、この国と関わっている。その前提がございました」
「ならば、正式な役職を与えれば――」
「役職は、殿下のお考え一つで失われませんか?」
殿下が止まった。
言ってから、少し強すぎただろうかと思った。けれど陛下も宰相閣下も、私を咎めなかった。
「三年間続いた婚約でさえ、三日前にはなくなると誰も知りませんでした。ならば新しくいただいた役職が、十年続くと皆様に信じていただくには、どうすればよいのでしょう」
私には答えが分からない。殿下にも分からないようだった。
「では」
殿下が絞り出すように言った。
「もう一度、婚約すればいい」
静まり返った謁見の間で、国王陛下はしばらく息子を見つめていた。
「お前は、本当に何も分かっておらぬのだな」
「父上?」
「一度破った約束を、もう一度結べば元通りになるのなら、この世に信用などという言葉は必要ない」
殿下が言葉を失った。
陛下はしばらくその顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ようやく分かった」
「何が、ですか」
「お前がなぜ、このような愚かなことを平気でできたのかだ」
陛下の声には、怒りよりも疲れが滲んでいた。
「お前にとって信用とは、何をしても、あって当然のものなのだな」
「……」
「王家だから信用される。王太子だから信用される。一度失っても、元に戻せばまた信用される。そう思っている」
「私は、そのような――」
「思っていなければ、三年間積み上げたものを、これほど簡単に壊せるものか」
殿下は答えなかった。
陛下は私を見る。
「イリナ嬢」
「はい」
「王命をもって、そなたに再び王家のために働くよう命じることはできる。だが、命じぬ。婚約を一方的に解消した女性を、都合が悪くなった途端に王命で働かせたとなれば、我々はさらに多くの信用を失う」
陛下は一度言葉を切った。
「この件は王家の責任だ。そなたが負うものではない」
「ありがたきお言葉にございます」
「そなたには迷惑をかけた」
「もったいなきお言葉です」
「下がってよい」
「はい」
私は深く頭を下げ、そのまま謁見の間を後にした。
◇
その後、私は約束した引継ぎを行った。
交渉中の案件について、これまでの経緯、先方の希望、こちらが提示した条件、相手が譲ってくれた条件。
書類にできるものは、すべて書いた。
新しい担当者から質問があれば、それにも答えた。
それが終わると、本当に私と王家を結ぶ仕事はなくなった。
それから一月ほど経った頃。
「イリナ」
朝食の席で、父がいつになく硬い声で私を呼んだ。
「はい?」
「王太子殿下がお亡くなりになったそうだ」
「……殿下が?」
思わず聞き返した。
「ああ。北部へ視察に向かう途中、山道で馬車が崖から転落したらしい」
「そんな……」
「同行していた側近たちも亡くなったそうだ」
私は言葉を失った。
三年前から何度も顔を合わせてきた人たちだった。
最後に見た殿下の姿は、あの日の謁見の間だった。
「事故なのですか?」
「ああ」
父は手元の知らせを見た。
「不幸な事故だったそうだ」
「……そうですか」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
王太子殿下の葬儀は、国を挙げて執り行われた。
将来の国王となるはずだった方だ。当然のことだった。
やがて王家では、新たな王位継承者についての話し合いが始まった。
父は、その知らせを読みながら呟いた。
「これで、新しい王太子を立てることになるな」
「そうですね」
「先代の王太子が王家を代表して行ったことを否定せずにな」
「お父様?」
「いや。何でもない」
父は知らせを畳んだ。
私も、それ以上は聞かなかった。
◇
「イリナ様。本当にこちらの条件でよろしいのですか?」
「ええ」
私は目の前の契約書に署名した。
王家のものではない。
父の領地で新しく始める、小さな事業の契約だった。
王都の商会から商品を仕入れ、領内で販売する。それだけの、ごく普通の取引だ。
相手の商人が契約書を確認し、笑った。
「では、これからよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
握手を交わす。
それで終わりだった。
王家の名もない。
王太子妃という肩書もない。
だから今度は、本当に私自身が積み上げていくしかない。
けれど、それでいいと思った。
帰りの馬車へ乗る前、商人が私を呼び止めた。
「イリナ様」
「はい?」
「今回は初めてのお取引ですので、この条件でお願いいたします。ただ――」
商人は少し笑った。
「何年かお付き合いして、お互いに信用できると分かりましたら、また条件について相談しましょう」
私は少しだけ驚いて、それから笑った。
「はい。よろしくお願いいたします」
信用は、最初からあるものではない。
少しずつ積み上げるものだ。
私はそれを知っている。
だから、また最初から始めればいい。




