第一章 Ⅲ
「姫様、そろそろ王国のアイザック殿下がいらっしゃるそうです。」
その言葉が耳に入ってノクターンは顔を上げた。
どんな人なんだろうか。期待を胸にひそめ読んでいた本から顔を上げる。
扉を開けると重いスカートの裾を持ち上げて階段を駆け降りはじめた。
静かな見た目とは対照的に元来活発な性格のノクターンは我慢ができなかった。
「姫様、お待ちくださいませ!はしたない!」
今の彼女にとって侍女の言葉は戯言でしかなく、は右から左へと流れていく。
そのまま最後の三段のあたりで階段を飛び降りて、少しバランスを崩した。
慌てて持ち直すと顔を上げる。
来るなら庭園にいるだろう、見当をつけて歩き出す。
ノクターンが扉の前までつくとその場にいた騎士が慌てて扉を開けた。
「ありがとう」
それだけ言うと、庭園へと足を進める。
庭園に入ると、ルナイトの妖気を孕んだ空気と混ざり合った濃密な薔薇の香りがほのかに漂っていた。その香りは華やかさと共に魔物の国と呼ばれる帝国を象徴しているような、艶やかな香りだった。
さらに歩き進め、庭園の真ん中あたりで男の姿が目に入る。
ノクターンは男に声をかけた。
「お兄様!サンスーンの王子様はもういらっしゃいました?」
「ああ、ノクターンか。丁度今いらっしゃったところだ。」
「どこにございますの?」
「そちらの馬車に乗っておられるそうだぞ」
それだけ聞くと、彼女は走り出した。
慣れきった彼女の兄はもはや侍女の様に「はしたない」と声をかける気にもなれなかった。
馬車の前で立ち止まった彼女の息は上がっていた。
その姿を見た馬車から降りていた従者は驚いたように目を見開いた。
「あの、ノクターン王女殿下でお間違い無いでしょうか?」
その言葉に頷くと、深く息を吸って呼吸を整えた。
口に入った空気はいつもよりも美味しいような気がした。
そして、しばらくしてノクターンは口を開いた。
「ええ、お初にお目にかかります。わたくしがルナイト帝国第一皇女、ノクターン・セルニでございますわ」
馬車の中にもその声が聞こえたのだろうか。
キィィィと重い音をたて、真鍮の蝶番が軋んだ。馬車の研ぎらがゆっくりと開く。
その扉の向こうから現れた男の姿にノクターンは思わず息を呑んだ。
彼は戸を掴んだまま一瞬、光の中に静止したように見えた。
その姿があまりに御伽話の挿絵にあった太陽王に似ていたからかもしれない。
思考を現実に戻したノクターンは再び男に目を向ける。
陽の光を受け金色に光る髪を微かに揺らしながらも、凛と此方を見つめる蒼い瞳に吸い込まれそうになりながら言葉を続けた。
「サンスーン王国のアイザック・ソール殿下でお間違いありませんか?」
「ええ、お初にお目にかかります。アイザック・ソールと申します。」
「お迎えに出向けなかったこと、大変申し訳ございません」
「いえ、此方こそ王女殿下自らこの様な場まで来ていただいたこと、大変光栄でございます」
「いえ、婿入りがこの様な時期になってしまったのです。これくらいさせていただいて当然でございますわ」
申し訳なさそうに顔を歪ませるノクターンにアイザックは彼女が何についていっているのかおおよそ見当をつけた。
「休戦協定のことですか?」
「ええ、協定期限切れ一年前が婿入りになってしまったこと大変申し訳なく思いますわ」
「いいえ、お気になさらず」
ノクターンが熱心に話している間、から返事をしつつもアイザックの頭の中は目の前のこの女性が、さっきまで全力疾走していたとは信じられない。一体どんな教育を受けてきたんだ?そんな疑問が支配していた。
最初に彼女を見たとき、アイザックはその碧色の髪を見てサンスーンの教典に描かれていた荘厳な月の魔女の肖像を思い出した。
しかし、全力疾走をしている王女を見て、そんな気持ちはすぐに散っていき、頭の中に浮かんだその肖像は砂のように崩れていった。
ただ、ノクターンはそんなことは全く知らない。
急に喋らなくなったアイザックを気遣わしげに眺めると近侍に向けて口を開いた。
「そちらの方、そこのお荷物はもうすぐうちの侍従が此方へ参りますので、その方々にお任せくださいな」
「よろしいのですか?」
ノクターンがやってきた侍従に声をかけている。
それを横目に見ながら、アイザックはあたりの景色を見渡した。
今、自分のいるルナイト帝国王城の庭園を。
薔薇の咲く庭園は、自分のいた王国では考えられない静かな場所だった。
芸楽の都と言われていたサンスーンの帝都との雰囲気の違いに少し戸惑った。
「アイザック殿下?どうかなさいましたか?」
「いえ、うちの国に比べてあまりに静かなので」
「我が国はサンスーンほど娯楽は発展していませんが、良いところもたくさんございます」
「今日からここが我が家となるのですもの、たくさん知って、わが国をお好きになってくださいませ」
今日から、ここが我が家。ノクターンの言葉でハッとしたアイザックは顔を上げ王城を見た。
今日から、ここが夫婦の家。
その言葉が少し暖かく感じた。




