第4話 異心伝心
転移の光が収束すると、そこには見慣れた寮の自室があった。
コウは熱っぽい吐息をひとつ漏らすと、泥のようにベッドへ身を投げ出した。
シーツのひやりとした感触が、火照った体に心地よい。
(……今日は、疲れたな)
けれど、胸の奥は温かかった。
握られた手のひらに、ィリーリアの体温がまだ残っている気がする。彼女の笑顔と、信頼してくれた言葉を反芻するだけで、四王による「お祝い」という名の過酷なしごきの痛みさえ、誇らしい勲章のように思えた。
瞼が重い。
思考の輪郭が、睡魔に溶かされていく。意識が微睡みの底へ落ちていこうとした、その時だった。
――甘い、香りがした。
それは花のような、あるいは熟れすぎた果実のような。
どこか懐かしく、それでいて脳の芯を痺れさせるような異質な芳香。
違和感が、警鐘となってコウの意識を無理やり引き戻す。
この部屋には、レムが施した厳重な警備結界があるはずだ。虫一匹通さないその鉄壁が、なぜこの匂いを通している?
(……結界が、消えてる?)
いや、違う。
破壊された気配はない。まるで『鍵を持った味方』が、内側から招き入れたかのように、音もなく解かれているのだ。
カチャリ。
静寂の中で、窓とドアの鍵が同時に外れる音が、やけに大きく響いた。
「――っ!?」
何事かと上体を跳ね起こそうとした瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
天井が床に、床が壁に。平衡感覚が根こそぎ奪われる。
手足に力が入らない。体中の筋肉が鉛に変わったかのように重く、指先ひとつ動かせない。
(まずい、体が……!)
ドサッ、と無様にベッドから転げ落ちる。
受け身も取れず、床に頬を打ち付けた。
霞む視界。薄れゆく意識の中で、床を軋ませて入ってくる複数の足音を聞いた。
黒いブーツ。軍靴の足音が近づいてくる。
抵抗しようと喉を震わせるが、声にならない掠れ音しか漏れない。
その足音の列の最後尾。
月明かりを背に、小柄な影が立っていた。
黒い集団とは違う、見慣れた制服のスカート。
揺れる栗色の髪。
そして、いつも秘密基地で嗅いでいた、あの優しいハーブの香り。
「……ごめんなさい」
震える声が、コウの耳に届いた。
それは、いつもコウを励まし、勉強を教えてくれた、優しく穏やかな少女の声だった。見上げた視線の先、彼女の手には、抜き身の短剣が握られていた。
月明かりに照らされたその瞳から、ひと筋の涙が伝い落ちるのが見えた。
(あ……み、リ……?)
名を呼ぼうとした唇は動かず、コウの意識はそこでプツリと途絶えた。
◇ ◇ ◇
コウが転移の光に包まれて消えた後も、ィリーリアはその場に立ち尽くしていた。
窓から差し込む月光が、彼が座っていた場所を静かに照らしている。
(……ふふ)
自然と笑みがこぼれる。
彼の手の温もりが、まだ指先に残っていた。
弱音を吐きながらも、決して折れない心。自分を守ろうとしてくれる、ひたむきな瞳。彼と過ごす時間は、女帝としての重圧を忘れさせてくれる、唯一の安らぎだった。
「おやすみなさい、コウくん」
誰に聞かせるでもなく、夜風にそっと呟く。
今日はゆっくり休んでほしい。四王のお祝い(シゴキ)で、体は悲鳴を上げているはずだから。
ィリーリアは余韻を断ち切るように、くるりと背を向け、コウと一緒にいた部屋をあとにする。
明日もまた、彼に会える。そう思うだけで、胸が温かくなり、自然と寒い廊下を進む足取りも軽くなる。
――ドクン。
不意に、心臓が嫌な音を立てた。
温かかった胸の奥が、急速に冷えていく。
「……え?」
足を止める。
何かがおかしい。
魂の奥底、コウと繋がっているはずの「パス」が、ざらりと震えた気がした。
それは、恐怖? 焦燥?
いや、違う。もっと、根源的な――。
プツン。
唐突に、糸が切れるような感覚。
今まで感じていた彼の気配が、温もりが、まるで深い闇に飲み込まれたかのように、ふっと消失した。
「……コウ、くん?」
呼んでも、返事はない。
繋がりから返ってくるのは、底知れぬ『絶望』と、急速に遠ざかる意識の残滓だけ。
「……ッ!」
悪寒が背筋を駆け上がる。
理屈ではない。本能が告げていた。
彼が、危ない。
私の騎士が、誰かに奪われようとしている。
「誰か! 誰かおらぬか!」
ィリーリアは叫んだ。
なりふり構わず、ドレスの裾を掴んで廊下を走る。近くの部屋にアーティがいたはずだ。
今すぐ行かなければ、取り返しのつかないことになる。
窓の外では、月が黒い雲に隠れようとしていた。
「姫さま!どうかされましたか!」
その声はドアを開け放つと同時にした。ィリーリアの尋常ならざる声をきいたアーティが慌てて扉を開けたのだ。
ィリーリアは駆け寄るとすがりつきながら必死に訴える。
「アーティ!コウくんが…っ!繋がりが途絶えてしまったの!」
「繋がりが!? 彼の身に何かが起きたのですね」
ィリーリアを抱きしめながらアーティがすぐさま状況を把握する。アーティはかがみ込み、ィリーリアと目線を合わせるとゆっくりと話し始める
「姫さま、彼に対する襲撃は想定していました。彼が戻った直後ですから、襲撃場所は寮内で間違いないはずです。このケースでしたら、ゼクトが初動調査を行い、ラナとフゥ殿が彼の救出に向かうことになっております。すぐに手配しますので、ご安心してください」
アーティの言い聞かせるような口調にィリーリアは徐々に冷静さを取り戻し始めた。
そうだ。彼の襲撃は想定していていくつも検討を重ねていたのだ。
一つ深呼吸をする。頭が急速に冷えていく。
「落ち着きましたか?」
「…はい。落ち着きました。ありがとうアーティ」
冷静にならなければならない。これから時間との勝負になる。 ィリーリアは深く息を吐き出し、震えていた指先を強く握りしめた。 すっと、瞳の色が変わる。 『わたし』から『私』に。
「アーティ。みなを集めて。くだらない奸計を練る帝国の膿をここで出し切らせましょう」
「仰せのままに」
今宵、私の騎士にくだらない罪禍の刻印を施した帝国の企てを完膚なきまでに潰すのだ。
2025.12.19
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