第12話 皇女との閑話休題
「明日は決闘なんですね」
いつものように放課後の特訓が終わり、コウとィリーリアはいつもの場所で二人揃ってベッドに腰掛けていると、ぽつりとィリーリアが漏らした。
「はい。明日ですね」
カイルとの決闘は明日の放課後、訓練場で行われる予定になっている。実感が薄いわけではないが、負けないという自信と勝てないかもしれないという不安がないまぜになっている。この2日間でできる限りのことはやったと思う
ラナの武術、アーティの幻術、レムの魔法理論、そしてフゥの戦術。その全てが、明日という日を乗り越えるために己の血肉となっていく感覚があった。
「不安ですか?」
真っ直ぐなィリーリアの視線がコウの瞳を覗き込んでいた。嘘や強がりはいらない。本心を聞かせてほしいという思いが伝わってくる。
「…不安はあります」
言葉で嘘をつくことははばかれ、正直に打ち明ける。
やることはやった。でも相手はカイル=エストラン。ユリウスに次ぐ実力者だ。しかも獣人族のノアやレヴィンを見下す選民思想の持ち主でもある。コウの中に、勝たなくてはいけないというプレッシャーがいつの間にか生まれていたことに気付く。
視線を落とすと、知らずに握った拳は少し震えていた。それは不安か緊張か。隠すように自分の手で覆った。
「…大丈夫です」
柔らかい言葉と手が震えるコウの拳を包みこんでいた。
顔を上げると、至近距離にィリーリアのきれいな顔。彼女のきれいなアメジスト色の瞳の中に自分が写っていた。
「私の騎士をわたしは信じています」
ィリーリアに握られた手が持ち上げられる。ィリーリアがぱっとほころぶように微笑む。
ドキッと心臓が大きく脈をうった。
——ああ、なんてきれいなんだろう。
純真である。可憐でもある。そして芯もある。彼女はただひたむきに信じているのだ。
向き合って座ったベッドがわずかに軋む。彼女から漂う花の香りが、部屋の空気を浄化していくようだった。
「僕は、その…初めてだし。みなに注目されて、恥をかかないか、心配です」
自分が恥をかくだけならいい。けど自分が負けることで、無様な試合をすることでノアたちが笑われることが嫌だ。なによりラナたちやィリーリアに失望されることが怖い。
決心はついている。やるからには負けるつもりはない。
「怖い…?」
コウは言葉に詰まる。怖くない、と言えば嘘になる。小さなプライドが言うのを憚れる。そして少しの逡巡し、「…はい」と絞り出すように答えた。
「……僕が負けることで、ノアさんたちが、もっと辛い思いをするかもしれない。僕が……彼の正しさを証明してしまうことになってしまうのが、怖いです」
コウの独白にィリーリアの瞳が、どこか遠くを見つめているように揺れている。エンゲージの繋がりが、彼女の心のさざ波をコウに伝えていた。それは、心配という名の、温かで繊細な痛みだった。
「それならコウくんは、大丈夫です」
「え……?」
「カイル=エストランは強いのでしょう。ラナやフゥが褒めるくらいです。でも、コウくんは彼が決してもっていないものがあります」
ィリーリアの瞳に、強い光が宿る。それは、数多の民を導く女帝の光だった。
「それは、弱さを知る心です。誰かの痛みを我がことのように感じ、守るために立ち上がれる優しさだ。それは、いかなる剣技や魔法にも勝る、真の強さなのだと、わたしは信じています」
彼女の言葉が、温かな光となってコウの胸に染み込んでいく。
「忘れないで、コウくん。あなたは私の騎士です。ィリーリア=E=ローウェルの運命に選ばれた、たった一人の騎士なのです。あなたは一人じゃない。わたしとずっとつながっているのです」
包み込む手のひらに、きゅっと力がこもる。
「でも、約束してください。……決して、無茶はしないで。あなたの身に何かあれば、わ、私は悲しいです」
最後は、かき消えそうなほどか細い声だった。女帝の仮面の下にある、年相応の少女の素顔。自分を心から案じてくれるその想いが、何よりもコウの力になった。
心の奥底に沈んでいた不安の澱が、すうっと溶けていくのが分かった。代わりに、澄み切った覚悟が満ちてくる。手の震えは止まっていた。
「……はい、ィリーリア様」
コウは力強く頷いた。包まれた己の右手を、もう片方の手で上からそっと重ねる。
「必ず、勝ちます。あなたの騎士の名に、恥じぬ戦いを」
見つめ合う二人の間に、言葉はもう必要なかった。エンゲージの繋がりが、互いの決意と信頼を、何よりも雄弁に伝え合っていたからだ。
「…そろそろ戻らないと」
名残惜しそうに手を離し、ィリーリアは静かに立ち上がる。ひらりと愛らしい寝間着を翻し、扉を開く。扉から彼女の姿が消えるその瞬間まで、彼女は優しい眼差しでコウを見守っていた。
一人残された部屋で、コウは己の右の拳を強く握りしめた。 もう恐怖はない。あるのは、守るべき者たちの顔と、自分を信じてくれる唯一人の姫君への、熱い誓いだけだった。




