第2話 竜姫の抱擁と
それはまるで鐘のように。どこか遠くで、そして近くで、コウの体を駆け巡り、確かにつながった。
それは甘い痺れ。コウの中に流れるように星のきらめきが満ちていくようにコウの体を髪の先から足の先まで駆け巡り反響した。
それは【姫さま】も同じだったのか。瞬きにも満たないほんのひと時、二人きりになったようにコウは感じ、何かを理解しかけ、しかし―
「―あ」
それは【姫さま】の浅い呼吸とともに、すぐに切れた。
「姫さま?」
アーティと呼ばれた女性が一瞬動きを止めた【姫さま】の異変を察したのか心配そうに声をかけるが、【姫さま】は手で制した。
「大丈夫。それよりも鍵を」
「こちらに」
手を出しながら【姫さま】が言うと、青の女性―アーティは淀みのない動作で【姫さま】が差し出した手に鍵を乗せる。
鍵を受け取ると淀みない動作で、牢を解錠すると重い音を響かせながら牢の扉を開き、臆することなく牢の中に入り、コウの眼の前まで来た。
ふわりと、花の香りがコウの鼻腔をかすめる。
それは懐かしく感じられる匂いだった。かつて外にいた頃、春先に野原に咲く白い百合のようを彷彿とさせた。
近くにきた【姫さま】はコウの顔をまじまじと見つめ、顔の造形を観察するように眺める。
【姫さま】とコウの視線が再び絡む。
ビリと、再び背筋を何かが駆け抜けていくのをコウは感じた。
【姫さま】もそうだったのか、戸惑いの表情に目を見開き、「あなたは…」と口の中で呟いたのが聞こえた。しかし次の瞬間には顔から感情が消えていた。目を合わせてなければ気のせいだとおもうほど一瞬の表情だった。
「フゥ、鎖を断って」
凛とした声で【姫さま】が不意に命じた。
「はっ」
返事がするや否や、牢の外にいたはずの黒い老人―フゥの姿が霞むように消え、次の瞬間にはキンという硬い音がすると、コウの腕が不意に軽くなった。
ガシャン―床に落ちた手枷の音で、コウは自由になったことを知った。
顔を上げると先ほどと同じ位置にフゥは何事もなかったかのように立っている。落ちた手枷を見ると手枷は半ばからきれいに切られている。
おそらく彼がなにかして自分の鎖を切ったのだろうとコウは思った。
「立ちなさい」
短く静かに【姫さま】はコウに声を掛けると、手を差し伸べた。
それはコウがみた中でも、とても綺麗で繊細で、高貴な人の手だった。コウは怖くて差し出された手をとることができなかった。
もう随分と体を拭いていない。ずっと幽閉されていたのだ。自分の手はとても汚れていて、その手に触れてしまったら、何か神聖なものを汚してしまうのではないかと恐れたのだ。
「た、たちます」
コウは弱々しい声を上げるのが精一杯だった。
地面に手をつき自力で立ち上がるが―
「あ…」
立ち上がろうとしてよろめいた。
それは当然だった。長年動くこともなく這いずるように暮らしていたコウは、自身が思っているよりもずっと痩せ細り、足腰も弱っていたのだから当然、立てるわけもなかった。
倒れる、と思った直後、柔らかなものがコウを包んだ。
白百合の香りが鼻腔をくすぐる。
それは【姫さま】だった。
彼女は倒れそうになったコウにためらうことなく手を差し出し、抱きとめたのだ。
その様子に、控えていた四人が殺気を立てて乗り出そうとする。後ろで「てめぇ!」と聞こえ、コウはとっさに手を突き出し、
「ご、ごめんなさ―」
慌てて離れようとするが、【姫さま】はコウを離さなかった。さらに飛び出そうとした四人に【姫さま】は「大丈夫」と一言声をかけて静止していた。
後ろに控えている四人もその行動に息を飲み、驚き困惑した気配が伝わってくる。【姫さま】の行動はその場にいる全員にとって予想外だった。
「安心して。あなたを害することはしない。それに穢れているとは思っていないわ」
優しい声だった。どうしてそんなに優しい声をだせるのか。自分は罪人だというのに。困惑するコウをよそに【姫さま】はまるで気にしていないようだった。
「ラナ。彼は足が弱っているようだから、運んで貰える?」
「お、おう?」
声をかけられたラナは明らかに動揺している。なんだろう。ビリっとした感覚がしたあとから、なんだか【姫さま】の対応が和らいでいる気がした。
「姫さま、どうしちまったんだ?」
怪訝な表情をしてラナが問う。訝しんでるのは彼だけではない他の3人も何か言いたそうな表情をしていた。
緊張感が漂う沈黙に肌がピリピリとひりつく。
そんな中、【姫さま】はゆっくりと見渡し、
「彼を保護したいの」
明日の天気でも告げるように、淡々と言った。
「保護ですと?」
目を見開いて驚いたのはフゥだった。それはコウも同じだった。罪人を引き取りに来たのだろうと思っていたのだ。保護するとはどういうことなのか。
「それは何故ですか?」
そんな疑問を代弁するかのようにすかさず問いただすアーティ。言葉尻とその表情は非常に険しい。怒りと困惑の半々だろうか。怒りの深さたるや、自身に向けられたわけでもないのに、コウは背筋に氷を突き刺したような寒さを感じるほどだった。
しかし【姫さま】はそんな様子のアーティに対し臆することなく、悩む様子をみせる。
「…エンゲージしたの」
少し時間をかけたその言葉は、秘密を無理やり話すときの、絞り出すような声だった。
【姫さま】が呟いた言葉に全員が息を飲む。「なんとっ」「そんな…」「まじか」「そうきましたか」などそれぞれにリアクションを取るが皆一様に驚く。引きつく空気が弾け、かわりに困惑のざわめきが訪れる。
エンゲージとはなんだろう。コウは頭の片隅で疑問に思ったが、いち早く動いたのはラナだった。
彼は「ああ、仕方ねぇなぁ」と頭をガシガシかきながら、牢に入ってきた。
「ほら、坊主。姫さんからのお願いだ。ちょっと失礼するぜ」
【姫さま】と入れ替わるようにラナがコウの体を支えるや、膝裏に腕を差し込むと同時に、コウはふわっと浮遊感を感じる。そして次の瞬間には、すっぽりとラナの腕に抱えられていた。
「軽いな!飯ちゃんと食えてねぇからそんなもんか」
お姫様だっこと呼ばれる体勢で抱えられたコウは目を白黒させながらただただラナを見上げる。コウを抱えているラナの表情は穏やかで、つい先程の動揺や、最初の警戒心はどこへ幻想だったのかと思うほどの変りようで、頭が追いつかない。
もはや汚れるとか、自分の匂いがどうのとか、展開が急すぎてコウの処理能力を超えていた。
「そんな顔するのもわかるがよ。まあ、なんだ。もう安心しろってことよ」
様子の表情を読み取ったのか、ラナはバツが悪そうな顔で言った。
「ちょいと下ろすぞ」
荷物を運ぶように肩に担がれたコウが雑に降ろされたのは光の眩しさに目を細めているところだった。
とても久しぶりに見た外の光景に感動することもなくドサリと地面に放り投げられる。
衰弱して立てない自分が悪いのは悪いがもう少し丁寧におろしてほしい。
「大丈夫?」
そう声をかけてきたのは【姫さま】だった。こちら覗き見る夜明け色をした瞳には気遣う色が見て取れた。
まだうまく声を出せないので、コクリと頷いて見せる。背後から青の女性(アーティと言われていたか)が【姫さま】の肩を掴んで離れるように促している。
【姫さま】は何事かいいたげに口を開くが、我慢するようにアーティさんに促されるまま下がっていった。
仕方のないことだ。自分のような下賤な出のものがおいそれと声をかけられていい方ではないのだから。
自分はそういうものだということを再認識させられ、ちくりと胸に痛みが走った。
「よし、このあたりでいいか」
少し離れた場所で赤い人―ラナがそういったかとおもうと、彼の体が光った。
「っ!?」
思わずコウは息を飲んだ。次の瞬間にはラナは光そのものとなり、輪郭を失い大きく膨らんでいく。輝きはどんどん強まり、風が巻き起こり砂が舞い上がる。光は更に強くなり、直視するのが難しいと思ったところで、それはある形をとると、急激に光は力を失い、完全に光が収まると。それがいた。
それはおとぎ話のようなモノ。
英雄譚で倒されたり、あるいは勇者の力になったり、あるいは賢者として導くもの。
翼をもち、何も通さぬ鱗を備え、強力な力を備えた尻尾に、様々なブレスを吐く顎。
見上げるほどの体躯は決して人では敵わぬと思わせる力を秘めた最強種。
すなわちドラゴン。
真っ赤な鱗をもったドラゴンがそこにはいた。
「あっ、、あっ、あっ」
コウは馬鹿みたいに口を開けうわ言のように繰り返す。畏敬や恐怖、驚愕すべてがないまぜになって心がパニックになっている。
「失礼しました、お伝えしておりませんでしたが、我々は竜人族です」
【姫さま】をコウから護るように立ちはだかってるアーティが感情のない口調でいった。
竜人族。
孤児院で聞かせれたことがある。世界を守護する竜に連なる一族。人族の数十倍の寿命と人を凌駕する力と魔力を有する空の支配者にして調停者。
世界を巡る浮遊島を居住とし、そらをたゆたう天上人。
物語でも主人公の迷いを払う助言者であったり、国家存亡の危機に手を差し伸べる救済者であったり、魔物の軍勢から人々を護る守護者であったり、様々な描かれ方をしている。そんな伝説がいままさにコウの前にいる人たちだった。
「この程度で、驚くとは継承者としても情けないのぅ」
すぐ横からからかうような口調で言われた。いつのまにか転がされたコウの頭の近くに白髪の老人が立っていた。確かフゥさんと呼ばれていた人だ。
隣に控えるようにいる緑色の人は確か、レムと呼ばれていたはずだ。
レムさんはコウと目線が合うと柔和に微笑んで見せた。もっとも温かみは何も感じない薄ら寒い微笑みだったが。
「あまりからかっては酷ですよ。フゥ様。人間にとっては珍しいものでしょう。我々が竜の姿になる瞬間というのは」
レムさんの言葉にコウはやはり驚く。
竜の姿になる?
その言葉の意味するところは竜人族は竜の姿と人の姿をとれるということ。眼の前の光景は嘘偽りなく、ラナが竜の姿になったということだった。
竜の姿になったラナはどこか人間くさい所作で何かを探すように見回し、何かをみつけると歩み寄った。見上げるほどの巨体が動くたびに地面に振動を感じる。
竜のラナは目的は砦の隅におかれた大きな籠のようなものだった。黄金色のそれは豪華な装飾がつけられており、馬車のようにも見えるが、馬車とは違い車輪がないかわりに、革紐のようなものがある。
竜のラナは車輪のない馬車に近づくと器用に身を捩ってそれを背中に背負ってみせた。
コウは知らないが、この世には竜の背にのせる馬車—竜車というものが存在する。最も眼の前のそれは皇族専用の竜車なのだが、これもコウは知るよしもない。
『さあ、乗れ』
どこからともなくラナの声が聞こえた。それは直接頭に響くような伝わり方だった。思わずキョロキョロと見回してしまうがラナの姿は当然のごとくない。
「テレパシーと呼ばれるものですわ」
こちらを見ずにレムがコウに説明するが、コウにはそのテレパシーという言葉自体がわからなかった。
「ふぅ、人間族の教育のたかが知れますね」
呆れたようにため息をついたのはアーティだった。なんだかコウは申し訳ない気持ちになった。
【姫さま】がすっと何気ない動作でコウの傍に近寄ってきた。
「心に直接、語りかける魔法よ」
ボソリとコウにだけ聞こえるような声量で【姫さま】が説明してくれなければ、コウはずっとテレパシーについて考えていたに違いない。
竜車に乗りやすいようにラナが伏せの姿勢を取っている。
いつのまにか竜車の扉が開き、乗りやすいように階段が掛けられている。
「ぼさっとせんで立つんじゃよ」
ぐいっと引っ張られ、コウは無理やり立たさられる。
「支えてやるから、はよ歩けぃ」
強引に腕をとられ歩かされながら、コウは竜車に乗り込まされた。
この状況に戸惑うだけで精一杯のコウは、これから自分の運命が大きく動くことをまだ知らない。