「第一話」流れ着く希望、招かれざる悪夢
洗濯物の入った籠を抱きかかえながら、私は風のそよぐ丘を下っていく。
ふぁさふぁさと歩くたびに音を立てる草木、ところどころに群れて咲いている名も知らない花。……その中に混じる、地面に埋もれている朽ち果てた巨大な”鉄鬼”の残骸。
ここには”鉄鬼”の残骸がいくつもある。これは私たち人類にとっての貴重な金属資源であり、機械技術の宝庫であり……なにより、私達の祖先が命懸けでこの地を拓き、守り続けてきたことの証でもある。
おばあちゃんの話によると、この世界は一度大きな戦いによって滅んだ……らしい。
たくさんの熱と光がどうのこうのという話だったが、正直よく覚えていないし信じてもいない。だが少なくとも、おばあちゃんが子供の頃には既に人類と”鉄鬼”の戦いは終わっており、その証拠に私たちは生き続け、”鉄鬼”たちは例外なくその機能を停止した。
そんな事を考えているうちに、私は丘の下を流れる川へと辿り着いた。
今日も水が澄んでいる。黒く長い髪、琥珀色の目をした自分の顔がしっかりと映り込んでいた。
籠を傍らに置き、しゃがみながら袖をまくり、洗濯物を掴んで川の中に。
「うわっ、ちべたいっ」
思わず声を出してしまうほどに川の水は冷たかった。まるで氷水だ、これは早く片付けなければ私の手がどうにかなってしまう。
私はせっせと籠の中の衣服をごしごしと擦り、汚れを落としていった。洗わなければならないものが自分一人分しか無かったため、手の感覚がまだちゃんとしているうちに洗濯を終えることができた。
「ヒャ〜っ! 冷たいよぅ……早く帰って暖炉で温ま……あれ?」
気づく。川が少し、赤黒く濁っていることに。
いつもは底が見えるくらい澄んでいるこの川が、濁っている。昨日の時点で雨はなかったから土砂で汚れたわけじゃないだろうし、なにより土でこんな色の汚れは出ない。
私は汚れが流れてきた上流の方に視線を向ける。
そこには、プカプカと浮くなにかがあった。それを中心に広く、色濃く赤黒い汚れが漂っていて、徐々に近づいてくるそれが……力無く水の上に浮いている人間だということに、少し遅れて気づいた。
「──あ、ああっ!」
思わず私は川に飛び込んでいた。冷たいとかそういう考えは吹っ飛んでいたし、そんな事を気にしている場合ではなかった。今もなお血を川に流し続ける若い男性を担ぎ、ひとまず陸に上がる。
「ぷはぁ……はぁ、はぁ」
男を陸に寝かす。逆立った白髪を纏めるように額に巻かれた赤いハチマキに、赤黒い血の色が染み込んでいる……着ている白シャツごと腹が抉れており、出血が止まらない。
「っ、しっかり! ねぇ、しっかりして!」
「……」
揺さぶる、反応がない。すごい出血量だ、顔も青ざめているし息をしていない。
「はぁっ、はぁっ……どうしよう、どうしょう……」
「……かはっ」
息をした、水を吹き出した。私は安堵する暇もなく震えるその人の背中を擦り、着ていた上着を被せて小走りで丘の上の小屋へと向かう。
「さむ……さむい」
冷たかった。人間の体とは思えないほど、冷え切っていた。
「……大丈夫。大丈夫だから、頑張って!」
死なせない。死なせたくない。
ただ、それだけで手足を動かしていた。
◇
暖炉の火をできるだけ強くして、毛布で冷え切った身体を覆って。
傷口を消毒して、包帯とかで止血して。
とりあえず息はしている。してくれているのだが、全然目を覚ます気配がない。
「……」
やれるだけのことはやった。
やりきった私にできることといえば、大人しく目覚めを待つことだけだ。……私は今日の夕食であるヤギのシチューを匙ですくい、口元に運んだ。
「腹減った」
「え?」
自分以外の人間の声、しかも男性の声が聞こえて私は思わず視線をそちらに向けた。
布団の中で眠そうに瞼を擦っていた……ちゃんと”生きている”人間として、そこに寝そべっていた。
「なぁ……なんか、食いもんねぇかな? 無いなら……そこら辺の草、突っ込んでくれればありがたいんだが……」
「……あっ、えっと。これ食べて!」
私は思わず御椀と匙を差し出していた。それを見た彼はぐいっと起き上がると同時にそれらを奪い取り、狂ったようにシチューを啜り始めた。匙を使ったのは最初の二、三回のみで、その後は一気に飲み干してしまった。
「……うめー! 腹いっぱいだ、ご馳走さん!」
「お、お粗末様でした」
そう言って彼は空になった御椀を私に返してきた。私は包帯にくるまれていたその屈強な体格に見惚れていたものの、すぐにそれが死にかけの病人の身体であることを思い出した。
「サンキュー。俺はトウテツ、あんたの名前は?」
「り、リアです。あの、身体の方は大丈夫なんですか……?」
「ん? ああ、ありがとな介抱してくれて。おかげで命拾いしたよ」
「いやそうじゃなくって、その」
動けるような傷じゃなかったと思う。
川で見つけた時には、なんで生きているのか……というかなんで”私”が”生きていると思えてしまった”のかがわからないほどに酷く、ぐちゃぐちゃな傷口だった……はずだったのに。
どうしてトウテツさんは、平気な顔で起き上がれているんだろうか。
「まぁなんだろうな、治った」
「は? えっ、治ったって、え?」
「疑うよなーそりゃ。ほら」
「きゃあっ!」
急に血塗れの包帯をほどいて傷口を見せびらかしてくる。
……そう思っていたのだが、血の滲んだ包帯の向こう側は綺麗な肌だった。
「あれ、あれ? なんで?」
「気になるなら触ってもいいぞ。バッチリ治ってるから安心してくれ」
手品とか錯覚とかそういうものじゃないと、思う。
多分触っても血が出てくるなんてことはないと思うし、疑うのが失礼なぐらい綺麗で、たくましい……腹筋だった。ゴリゴリしてて、多分触ったらすごい硬そうな。
「なぁ、顔赤いけど大丈夫か? この部屋ちょっと熱すぎるんじゃねぇの?」
「えっ!? いや、そんなこと無いですっ!」
「ほーん、そっか。んじゃあ……そろそろお暇するわ」
そう言ってトウテツさんは布団から元気に起き上がり、私がぐるぐる巻きにしていた包帯を一気に解いた。やっぱり、血は信じられないぐらい滲んではいるが、傷口は綺麗にサッパリ消えている。
彼は干していた白いシャツを羽織り、同じく干していた赤いハチマキを額に巻き……だらんとしていた白髪を掻き上げた。黒い手袋を両手に嵌めた後、腰に巻き付けていた赤い工具ベルトをぱんぱんと叩いた。
「うっし! ありがとな、なんか困ったことがあったら呼んでくれ!」
「あっ、ちょっ。どこに行くんですか!?」
「どこって、そりゃあ……」
玄関を開け、振り向きざまに彼は。
「鬼ヶ島、かな?」
そう言って、私が呼び止める暇もなく玄関から出て行ってしまった。追いかけようと思ったが、怪我も治っていたので特に追わなければならない理由も見つからず、膝立ちのままその場で呆然としていた。
「……変な人だったなぁ」
まぁ、助けることができてよかった。
とりあえずこの血塗れの部屋を片付けなければ。私はゆっくりと立ち上がり、トウテツさんが寝ていた布団を洗濯するべく手に取り、気づく。
ゴロッゴン、と。
布団と毛布の間から重い音を立てて転がり落ちてきたのは、工具……赤いグリップのドライバーのようなものだった。私はすぐにそれが、あの赤い工具ベルトの中に入っていたものであり、彼の落とし物だということに気づいた。
「──トウテツさん!」
起き上がり、玄関を開ける。
だが私の視界が及ぶ範囲には、既に彼と思わしき男性の姿は見えなかった。
「あ、あれ?」
私は思わず瞼を擦った。家を出てからまだ一分ぐらいしか経っていないのに、彼の姿がどこにも見えない。……まさか、この数秒間でそんなに遠くへ行ったのか?
いやいや、そんな事あるわけがないだろ。
多分疲れているんだ、私。とりあえずゆっくり休もうと、頭を抱えながらドアの取っ手に手を触れようとした。
──遠方。鼓膜を叩く轟音。
「!?」
振り返った視線の先、丘の下のさらに下に広がる街……その中心にて黒煙が上がっていた。さらには立て続けに轟音、上がり立ち昇る黒煙。
理解を拒んだ。あり得ない、こんな事はあってはならない。
しかし私は状況を理解するより先に、迫りくる確実な危機を察してしまった。
「──おばあちゃんっ……!!」
走る。
間に合わないのは分かっている、無力だということも分かっている。
それでも、私は走らずにはいられなかった。
役目を終えたはずの ”鉄鬼”の襲撃を知らせる警報が木霊するように鳴り響く。それは私を焦らせ、何より最悪の事実を……かつて英雄によって倒されたはずの”鉄鬼神の復活”を突きつけてきた。