ちょっと有言実行しただけでしてよ、何か問題ありまして?
「こっの……馬鹿娘ぇぇぇぇぇえええええええ!!」
学園の中庭で怒声が響き渡る。
そうして次にごちん! と重たく鈍い音。
普通に考えて学園内では決して耳にする事のないような罵声と、脳天への拳骨という行為。
周囲がなんだなんだとざわめいて注目するのは当然だった。
コニア・ベラ。
本来貴族しか使うことができないとされている魔法の力に目覚めた平民である。
平民といっても家名持ちであるので、何代か遡ればもしかしたら貴族がいた可能性はある。
魔法の力を暴走させないようにある程度成長してから魔法の扱い方などを学ぶべく、貴族たちが通う学園に特例として通う事を許された少女。
先祖に一代だけの爵位を持っていた者がいた、だとか身分を捨て出奔した貴族が平民と結ばれ子を、なんて事で平民の中から魔法を使うことができる者が現れるのは何も珍しい話ではない。
事実学園にはコニアの他にも平民の生徒は数名いる。
学園で学ぶ事を許されたとはいえ、それでも彼ら彼女らは平民である。
学ぶ事に関して身分で妨害されたり学びたいことを制限されるような事はなるべく避けるべきとされているけれど、最低限の礼儀は必要であるのは言うまでもない。
魔法を扱える力があるのなら、将来的にそれらを活かした職に就くことも考えれば、平民たちからすれば学園は自分を売り込む場でもあるし、貴族からしても優秀な人材を得るチャンスである。
魔法が使える、といっても人が使える魔法は限られている。本来求めている能力が自分に発現しなかったけれど、平民の中にそれを使える者が、なんて事になればなるべく自分の陣営に引き込みたいと思うのは当然の話で。
基本的に一人に対して一つの属性魔法と、使えるものは限られている。
だからこそ、希少な魔法を使えるのであれば引く手数多になりかねない。
とはいえ、魔法の力は何もしないままだと特に成長もしないのでそうなるといくら希少なものだろうと、なんだその程度か……と失望されたりする。
折角使える力を得ても、それを成長させることができなければ必要とされる事もない。使い方もよくわからないまま使い続ければいずれは暴発して、という可能性だってある。自己流でどうにかしようにも、その場合制御を失敗して大惨事を引き起こす可能性もある。
折角魔法の力に目覚めた平民からすれば死活問題である。
魔法を使う職業というのは限られている。魔法を使える者が主に貴族でそういった意味で限られているというのもあるが、基本は高給取りである。
平民からすれば普通にそこらで働くよりもよほど破格の給金が得られる。
今までよりも間違いなく豊かな暮らしを得る事ができる……となれば特例での入学を許された平民生徒からすればより一層努力しようというものだ。
そして、そういった平民たちの姿を見て自分たちも貴族だからと魔法が使えるのが当たり前と胡坐をかいてはいられないと貴族の生徒たちもまた上を目指す。
そういった意味ではお互いに良い影響を与え合っていたのだが。
コニアだけは違った。
彼女の魔法は光属性の癒し魔法。怪我を治す事のできるものだといえば、理解できない者はいないだろう。
とはいえ、その力はまだ弱く、ちょっとした擦り傷を治すのがやっとだ。けれども学園で学び、その力を成長させていけばいずれは瀕死の重傷であっても治せるようになるかもしれない。
間違いなく将来くいっぱぐれる事のない職を得る事ができる。
だがしかし、彼女は真面目に勉学に励むでもなくとある貴族の令息に擦り寄るのに夢中であった。
ランディ・ノートルウェル。
侯爵家の次期跡取りである。
コニアの一つ上の学年で先輩にあたるとはいえ、本来であれば接点などあるはずもなかった。同じ国の同じ学園に通っているだけでは、必ずしも知り合いになれるとは限らないのだ。
だがしかし、コニアは入学式の日にあまりの物珍しさにきょろきょろと周囲を見回しているうちに、気付けば一緒に歩いていた他の平民の生徒たちとはぐれ、間抜けにも迷子になった。
他の生徒たちと同じように会話に交じっていればまだしも、彼女は周囲のあれこれが気になりすぎて誰とも話をしないまま、あれは何かしら、あっちは? と注意を他に向けていた事ではぐれた事に気付くのが遅れて気付けば一人ぽつんと取り残されたのである。
入学式に参加すべく大講堂へ移動していた他の平民の生徒たちは、大講堂に辿り着いてそこでコニアがいない事に気が付いた。
一体いつから……!? となって、思わず近くにいた教師に一人いなくなりました! と報告する。
平民の生徒が入学する時にはたまにある事だったので、教師としても慌てる事なく手が空いている者に探しにいかせますねと生徒たちを安心させるように言って、貴方たちはあちらの席に、と誘導した。
実際コニアがやってくるまでは気が気じゃなかった生徒たちの心情などまるっと無視するように、その頃のコニアはランディと遭遇したのである。
といっても、入学式当日は他の学年の生徒の授業もほとんどない。ランディも入学式の準備を軽く手伝った後は図書館で本を借りてから戻るつもりであった。
そこで、迷子になっている生徒をみつけ、声をかけた。
どう見ても初めての場所で迷子になって不安になっているようにしか見えなかったし、新入生が物珍しさにあちこち見ているうちにうっかり迷子になるというのはよくある話だとランディの先輩も話していたので特に何を思うでもなく、彼としては親切心からの行動だった。
実際迷子だったので、そろそろ式も始まる頃だなと思ったランディはコニアを大講堂まで案内した。
ただ、それだけだったのだが。
その後ランディはことあるごとにコニアに纏わりつかれる事になったのである。
コニアにとってランディの存在は運命の出会いであった。
気付けばひとりぼっちで途方に暮れていた所に颯爽と現れて自分を助けてくれた人。
見た目も声も素敵で、一目でぽぅっとなってしまった。
間違いなくコニアはこの時点で恋に落ちたのだ。彼女が正しく自覚していたかどうかはさておき。
困っていた所を助けてくれた素敵な人。
しかもあんなにかっこよくて、まるで王子様みたいで。
今まで物語に出るような王子みたいな人なんて現実にいるわけないじゃない、とか思っていたコニアはしかしランディに一目惚れをして一転して恋愛脳へとなってしまったのだ。
同じ学年であったならまだしも、ランディは一つ上の学年で普通に学園生活を送っていれば出会う事はそう滅多にない。けれどもコニアはそこで終わらせるつもりはなかった。
ある種の執念をもって、ランディと遭遇する機会を増やし、そうして徐々にその距離を詰めていこうとしたのである。
とはいえ、ランディには婚約者がいた。
同じ学園に通い、同じクラスの生徒でもあるリゼット・コルネリオ子爵令嬢である。
学園のクラスは身分ではなく成績で分けられている。それ故にクラスの中は様々な身分の生徒がいるのだ。ランディのクラスにも特例入学してきた平民の生徒が三名ほどいるし、なんだったら公爵家の令息もいる。
昼休みに学園の食堂でランディとリゼットが食事をしようとすればそこに乱入するコニア。
放課後の図書館にランディが足を運べばそこで遭遇するコニア。
それ以外でもちょっとした時によく遭遇するようになった。
ランディからすれば何故ここまで彼女が自分のところに現れるのか、不思議でならなかった。
困っていた時に助けてもらったから、刷り込みみたいな感じで懐いたのだろうか……なんて考えた。
それにしたって、それ以外は特に何もしていない。
一緒にお昼ご飯食べませんか? なんて言われた時はリゼットがいたので断ったし、それ以外でも――例えば勉強に関する事だとかの質問であれば答えるつもりはあったけれど、一緒に遊びにいきませんかだとかの誘いは断った。何故って可愛い可愛い婚約者がいるのに、何故それを蔑ろにするような真似をしなければならないのか。
ランディは最初に迷子になっていたのを案内して以降、コニアに対して別段優しく応対した記憶はない。
だというのに、コニアはめげずにせっせと通ってくるのである。
周囲はそれとなく、同じ平民であるならば「流石に迷惑だろうし失礼だからやめたほうが……」と止めようとしたし、貴族である生徒もまた諫めたりもしていた。
特に親しい間柄というわけでもないのにあれは失礼だからやめておきたまえ、だとか、いくらなんでも目に余りますわ、だとか。
魔法を使えるようになった平民は、将来的にそれを活かした職に就く事が多い。その分貴族と関わる事も増える。だからこそ学園で平民が学ぶのは魔法の扱い方だけではなく、貴族たちとの付き合い方も含まれているのだがコニアの態度は誰がどう見たって色々と問題しかないのである。
けれどもコニアにとって周囲の言葉はどこ吹く風状態であった。
運命の出会いをしたと思っているコニアには、周囲の忠告や助言は全て自分と彼を引き離そうとする嫌がらせに変換されていたので。
むしろ障害があればあるだけ燃え上がるものよね、なんて思ってすらいたくらいだ。
実際ランディにこれっぽっちも相手にされていなかったというのに。
そんな状況を良く思わない最たる人物と言えば、当事者のランディ以外だと勿論ランディの婚約者であるリゼットである。
貴族の結婚は愛のない政略結婚も多くあるけれど、家同士の繋がりや利益を考えれば愛以上に優先される事は当然の話である。けれども、最初に愛がなくともいずれ芽生える事もあるし、全てが全て冷え切った関係というものでもない。
ランディとリゼットは二人の年齢がまだ一桁だった時に結ばれた婚約であったけれど、その頃から交流を続け、お互いの事を知り、そうしてゆっくりとではあるが愛と呼ぶに相応しいものが育ちつつあったのである。
燃え上がるような恋という感情はなくとも、この先もずっと二人で歩んでいける――そう思えるだけのものは確かに存在していた。
仮に、もし。
ランディがコニアとの出会いに稲妻のような衝撃を受けて、恋に落ちたとしても。
最終的にリゼットが彼の妻となるのであれば愛人にしようとどうしようと構わないとも思っていた。
だがそれは、相手が分を弁えているというのが前提条件の話であった。
ランディを見れば嬉しそうに駆け寄ってくるコニアであるが、その隣にリゼットがいてもお構いなし。
恋人――まぁ婚約者だがこの場合は恋人と称するのが適切だろう――との語らいをしている最中だろうと何だろうとお構いなしにやってきて、ランディに話しかけるのだ。
そもそもの話。
学園での身分は一応平等である、とは言われているがそれはあくまでも学問に対してのみである。
貴族が平民生徒に身分を理由に彼らをしもべのように扱い平民生徒の学業の邪魔をするような事があってはならない、という意味での平等である。
いずれ学園を卒業して社会に出るのであれば、その時は相応の態度をとらなければならないが、学園内ではいちいち平民生徒も貴族の生徒に畏まる必要はない。
だからといって無礼な態度をとっていい理由にはならないのは言うまでもないだろう。
実際学園で知り合い、思いのほか意気投合して親友と呼ぶまでになった平民と貴族の生徒はそれなりに存在している。貴族が平民を友としてはいけないという法はないし、その逆も然りである。
ただ、それでも何故かそういった部分を都合の良いように曲解する者も中には出てくるのだ。
コニアは、言ってしまえばそれだった。
確かに、平民の生徒が己の有能さを見せて将来そちらの家で働けたら、なんていう打算でもって近づく事もままあるのだ。
コニアもそういうものであればまだ目こぼしされていたかもしれない。多少、売り込みが強引であるとは言われたとしても。
けれどもコニアの目的はそういった、そちらの家にお仕えしたいとかではなく、愛人ですらなく、明らかに本妻狙いである。
過去、貴族相手に平民が嫁ぐ事はなかったわけじゃない。
そういった玉の輿ストーリーは平民からすればまさしく夢物語なのだろう。憧れを持つ者もいるのはリゼットも知っていた。
とはいえ、貴族になったらなったで今まで平民だった分相応の苦労が待ち受けているので、何もしなくても周囲が勝手に傅いてくれるだとか、ちやほやしてくれるだとか、ありとあらゆる贅沢ができるだとか、そんな事は決してないのだが、結婚後の話などそもそも平民の間に広まりようがない。だからこそ余計に夢物語として憧れが募るのだろう。
折角二人で楽しく会話をしている中に無遠慮に入り込んでくるコニアの事を、リゼットが好意的に見る事などあるはずもない。
一度目や二度目あたりでは、まぁ困ってた時に助けてくれたのもあって頼りになる人だと思ったのでしょうね、なんて思っていた。だからこそ大目に見ていた。
だが、婚約者の女性が隣にいるにも関わらず、コニアはそんなものなどいないのだと言わんばかりにランディに話しかけ、そうして更には一緒に遊びに行きませんかなんて誘ったりしているのだ。
今日の放課後、とか突発的な誘いから、次の授業のお休みの日に、だとか。
当日の誘いに関してはランディも今日は予定があるから、の一言でバッサリ断ったのでだからこそ次の休日に、という風になったのかもしれないが、何をどうしたところでランディがコニアと二人きりで出かけるだとかあるはずがないのだ。
だというのにコニアはまるでめげなかったし諦めなかった。
一体その執念はどこからきているのだろうか、とすら思う。
だが、その熱意とか情熱だとか執着だとか、果たしてどう呼ぶべきかわからないものをリゼットはいつまでも許容するつもりはなかったので。
「コニアさん、でしたか? 今わたくしとランディ様がお話をしていたのですけれど、貴方には見えていなかったのかしら? どうしても急ぎの用があるというのならまだしも、そうでないのなら会話に割り込むのはあまり良い事ではありませんよ」
そんな風にやんわりと最低限の礼儀を払えと伝えたものの。
コニアはやはり周囲が私とランディ様を引き離そうとしてくるのね、なんて頭のねじが外れたような理解をしてリゼットの言葉も意地悪な悪役が何か言ってるくらいにしか思わなかったのである。
故にコニアはめげる事なくランディを見かければ話しかけに来たし、その隣にリゼットがいてもお構いなしだったし、それどころかコニアの目にはリゼットは意図的に入っていないのではないかというくらいいない扱いをしていたくらいだ。
ランディもいい加減にしてほしいなと言わんばかりの態度で、今リゼットと話をしているところなんだけど、だとか大した用じゃないならもういいだろう? だとか大分突き放すような事を言うようになっていたのにそれでもコニアには通じている様子がない。
リゼットはこの目障りな平民をいっそ物理的に処分してやろうかしら、くらいに思い始めていたが、その手間すらも面倒になっていた。もしかして常識がないのかしら、とも思って念の為婚約者のいる異性にむやみやたらと近づくものではない、というある種の常識も教えたのだけれど。
「でもまだ結婚していないのだから、未来なんてどうなるかわからないでしょう?」
と言ってのけたのである。
この時咄嗟に手にしていた扇子でコニアの頬でもひっ叩いておけば良かったわ……とは、その日の夜寝る前にふと思い出してからの後悔であった。
言葉で言っても理解できない、というのはどうすればよいのだろう。
騎士団などでは肉体言語でお話し合い、なんてのも耳にするけれど、いっそそういう風にするべきだったのかもしれないわ、やっぱ扇子であれ何であれ打ち据えておけば良かったかもしれない……と本気で思う程であった。
コニアが本気でランディの事を慕っているのは理解できる。
あれだけ冷たくされてもめげないしょげない諦めないのはいっそ凄いとも思っている。
けれど、リゼットがいるのだからその上で愛人あたりのポジションを希望していればまだしも、彼女は本気で彼の妻という座を狙っていると言ったも同然なのだ。
婚約したとはいえまだ正式に結婚して名実ともに夫婦となったわけではないのは確かにそう。
未来がどうなるかわからない、なんてのも確かにそう。
けれど、もし二人の結婚がなかったことになるのであれば、それは例えばどちらかが儚くなるか、はたまた王家から国のためにどうしてもと頼まれて他の相手との結婚を命じられた時だ。
ランディとリゼットの結婚はお互いの家に利益があるのは勿論、そうなればゆくゆくは国にとっても益となる。だからこそ、本当に余程の事がない限りは婚約を白紙化して他の相手と、などと言われる事はまずないと言ってもいい。
コニアがそういった意味で言ったのであれば、まだ「そうですわね」なんて受け流す事もできた。
けれど、コニアの言い方は間違いなく、自分が彼の妻になる未来があるかもしれないのだから、という意味でしか受け取れなかったのだ。
ランディが彼女を選ぶなどどう考えてもあり得ないのだけれど。
確かに、見目は悪くないと思う。平民にしては、という言葉がつくが。愛玩動物のような愛らしさというか愛嬌とか、そういう感じがないわけではないと思う。
けれども愛玩動物は動物であるからこそ可愛らしいのであって、人間だと時として礼儀がなってなさすぎて愛せない事もあるのだ。
考えてもみてほしい。
これが例えば犬や猫であったとして。家の中で育てていたがふとした時にうっかり粗相をしたとしよう。
まだ生まれてろくに目も見えてない頃なら仕方がないなと思えるし、そこそこ大きくなってしたのであれば、病気の可能性を疑う事もある。トイレに何か不満があって、という可能性もある。そこら辺が解消されればそれ以降問題がないのであれば、室内を汚されたことに関してもまぁそういう事もあるわね、でリゼットだって特に怒ったりするようなものではないのだが。
これが、人間であった場合を考えてみよう。
赤ちゃんは仕方がない。自力でトイレにいけないもの。
幼児はどうかしら。まだ一人でおトイレ上手にできないのね、次は頑張れ、でまぁそこまで怒らないとは思う。
ある程度大きくなった人であれば、例えば怪我をしていて、だとか体調不良でいつもならトイレにたどり着けたのにその時はちょっと遅かった、だとかであれば仕方がないと思うし、あまり気にしないようにとこちらも気遣うだろう。
ある程度年老いた者であっても、若い頃より自由に動かせなくなって間に合わなかった、だとかであればまぁいずれは誰しもそうなるものだし、一方的に責めるような事もないとは思う。
けれども、それなりに若くて身体の自由がきかないなんて事もなく、怪我も病気も何もしていない健康な状態の人が突然室内で粗相をした場合はどうだろう。
トイレに自力で行けるけど面倒だったから、とかいう理由で突然垂れ流されたら、流石にドン引きする。
それが相手の自宅であるならまぁ、その家の方針なのだろうなと思ってリゼットとしては早々にお暇してその人物との関係はさくっと切るだろうと思う。
もしこちらの自宅に招いた時にそんな事されたのであれば、その時は穏便に帰りを見送って、その後二度と家には招かないだろう。やんわりと関係を薄れさせて、その後のご縁はなかったことに、となるだろう。
衛生についての価値観があまりに異なりすぎて流石に受け入れられないし、万一自分の家でそんな事をやった挙句平然とされていたら正直同じ人間として扱う事すら躊躇ってしまう。
例えばそれが、別の国の出身でそっちの国ではそれが当たり前、というのであれば内心で「うわぁ」と思ってそれとなく距離をとるくらいで済んだだろう。
けれどコニアは生まれも育ちもこの国である。
あまりにもランディにちょっかいをかけてきて鬱陶しいのでリゼットもそれはもう遠慮も何もなく色々と常識について説いたものの、コニアはいずれ自分がランディと結ばれてリゼットは捨てられると本気で信じているからか、リゼットの言葉などこれっぽっちも気に留めていないようであった。
あまりにもあんまりすぎて、リゼットは「常識ってご存じ?」とド直球ストレートな言葉を吐いてしまった程だ。こんな礼儀も何もあったもんじゃない平民、リゼットの人生で初めてだったのだ。
それに対するコニアの返答は、
「私平民だから貴族の常識ってよくわからなくってぇ」
である。
ちなみにこの発言は、たまたまランディがいないところでリゼットがコニアを見つけたから一応聞いてみただけに過ぎない。リゼットとしては貴族の常識ではなく人としての常識を問うたつもりだったのだが、もしかしたら違ったのかもしれない……そう思ってその場は引いた。
ついでに近くにいた平民の生徒に声をかけ、平民の常識ってどうなの? とコニアとのやりとりを軽く説明した上で聞いてみたが、その生徒は顔を真っ青にさせて「ありえません。流石にそれは常識を疑います」と答えてくれた。別にこちらが貴族であるから、という理由でこちらの機嫌を取るべくそう答えたというわけではなさそうだったが、念の為他の平民の生徒にも確認してみたが大半の生徒たちは、皆良識と常識を持ち合わせた返答であった。
つまり、コニアのあれは平民の常識というわけではない。
「……となると、育った環境かしら。親の教育……? どんな風に育てたらあぁなるのかしら。親の顔が見てみたいわ」
リゼットは授業を終えて平民の生徒たちに色々と確認した後自宅へと戻って来たわけだけど、一日を思い返してコニアの非常識っぷりをよりしっかり実感しただけだった。
あまりの非常識っぷりに危うく今日教わった授業内容まですっ飛んでいきそうだったが、コニアのせいでそんな事になったらそれはそれで腹立たしいので意地でも授業内容まで忘却しないように復習もしておく。
そうして授業内容を思い返して一通り問題ないなと一安心したところで。
「……そうよね、見に行けば良いのだわ」
復習をする前に自分で呟いた言葉に、なんだかとっても納得してしまったのである。
思い立ったなら早速行動に移るべし。
そんな即断即決と言えば聞こえはいいが、要は思い付きで。
リゼットは軽率にコニアの親の顔を見に行く事にしたのである。
――翌日。
いかんせん前日の夜に思い立ったため、朝起きてすぐさま学園に連絡を入れた。
今日の授業は私事で申し訳ございませんが昼から出ます。場合によっては欠席いたします――とリゼットは自分付きのメイド一人に伝えるように言って、ついでにランディにもそれと同じ連絡をしておくようにとも言いつけた。
そうして自分は平民たちの中に紛れてもそこまで目立たない程度のお忍びスタイル――とはいえ間違いなく平民だとは思われずどこぞの良家の者だとわかるだろう――でもって早速コニアの親の元へ行く事にしたのだ。
実のところ、コニアの家だとかは既に把握していた。
あまりにも目に余るような事になればいっそ秘密裏に処分してしまおうかという考えも浮かんでいたからだ。とはいえそれは本当にもう我慢の限界ですわ一秒でも視界に入れたくありません!! となるまではと我慢していた。
恐らくランディもとっくにそこら辺の情報は掴んでいるだろう。
リゼットが手を下すような指示を出さなかったのは、そうする事でコニアが消えた場合ランディも誰が何をやったかすぐに理解するだろうし、もしそうなったなら自分のせいでと思われる可能性を考えてだ。
ランディなら自分のせいでリゼットの手を汚してしまったと思って悔やむかもしれない、と思ったからこそ我慢の限界に至るまではと実行しなかっただけに過ぎない。
とはいえ、自分じゃなかったらやったのはランディ様でしょうね、とリゼットも思っただろう。その場合は、きっとどうしてもっと早く自分がやらなかったのかと思うかもしれない。
優しい彼の手を汚すような事をさせてしまった、ときっと二人して同じような事を思って少しだけ心を痛めるのだろう。
ずっと一緒にいたのだ。それくらいは簡単に想像できてしまった。
親の態度次第では、コニアさんには本当に学園から消えてもらう事になりそうね……なんて思いながらも、リゼットはコニアの母親が働いている店へと向かった。
パン屋である。
パン屋の朝は早く、店は既に開いている。
そこそこ繁盛しているらしく、店の中は数名客の姿があった。
混雑しているほどでもない。
パンの種類もそう多くはないが、食卓で食べるならそう困るほどでもない程度の品ぞろえ。
たしか、とリゼットはコニアの事を調べた時の事を思い返す。
たしかコニアさんは幼い頃にお父様が事故で亡くなられて、今はお母様と二人で生活していたのだったわね……魔法の力が発現しなければいずれはお母様の後を継いでパン屋をやっていたか、もしくは誰か他の人と結婚していたかもしれない。
学園に程近いところに住んでいたため、コニアは自宅から学園に通っている。
学園から遠く、毎日の通学に時間がかかる平民の生徒は学生寮があるのでそちらに住んでいるが、コニアは毎日自宅からの通学だ。とはいえコニアは既に家を出ている。そうじゃなかったら遅刻確定である。
「いらっしゃい!」
店のドアを開けて中に入ると、コニアにそこはかとなく似た――数年後のコニアと言われればまぁ大半が納得しそうな顔立ちである――女性がそれはもう輝くような笑みでもって迎えてくれた。
パン屋というのはそれなりに多く存在しているが、この店は店内に陳列して好きな商品を客が選んでレジへもっていくのではなく、大抵はレジの後ろの棚に陳列されているところから注文したのを紙袋に入れてもらうものだった。レジ前のショーケースには数量限定で日替わりパンが並べられているが、既に半分以上が売れたらしく残りは少ない。
入口からレジまでの場所にパンがあるわけではないので、常連客らしき数名が和やかに談笑していた。
「そちらの食パンを一つ、お願いできるかしら」
「ありがとう。……見ない顔だけど、新しくこっちに来た子かい?」
「いえ、今日はその、一つ、聞きたいことがあったので」
普段ご近所さんしかこないような店である以上、リゼットは見知らぬ客だ。ここが観光地であるならそういった客も珍しくはないかもしれないが、そうではない。新しく引っ越してきた子? とわからない事があるなら何でも聞いて、とばかりに声をかけてきてくれたのには申し訳ないが、なんとなく確信する。
親の教育が悪いわけではなさそうね……と。
「突然こんな事を聞くのはどうかと思ったのですが……あ、申し遅れました。わたくし、コニアさんと同じ学園に通っている者です」
「えっ、それじゃ」
「あ、いえ大丈夫ですそう畏まらないでください」
コニアの母は学園の生徒と聞いてリゼットが貴族であると即座に思い至ったらしく、その場でさっと頭を下げそうになったがリゼットはすぐさまそれを止めた。
ちらりと視線を少し動かせば、見慣れないお嬢さんが来たなぁ、といった感じでこちらを見ていた常連客たちもちょっとだけぎょっとした表情をして同じように礼をしようとしていたが、そちらも止めておく。
まぁ、普段貴族と関わらない平民なら、下手に不興を買わないようにとそういった事をするでしょうね。とリゼットは特に驚く事もない。
「そ、それでそのぅ、聞きたいこと、というのは一体……?」
相手が貴族である以上、平民にわざわざ何を聞きに来たというのか。
コニアの母は平静を装ってはいたが、それでも声は最初に迎えた時と比べて強張っていたし、頭を下げなくて良いと言われたもののその視線はどこに向けるべきなのだろうか……とばかりに若干彷徨っている。
まぁ、酷い貴族になると平民なんてそこらの石ころみたいな気持ちで気に食わないだけで殺したりする者もいる、っていう話は平民の間で広まっているでしょうから、最悪の事態を考えればそうなっても仕方ありませんわね、とリゼットは内心で思う。
……そう考えるとコニアさんってとても命知らずな方なのかしら……? と同時に少しだけ困惑した。
「その、コニアさんの事についてなのですが」
いっそ親もコニアくらい太々しくいてくれたなら、こちらも切り出すのにそう困らなかっただろうに。
とはいえ、このままだとリゼットかランディのどちらかがコニアを排除するべく動き出さないとも限らない。
どのみちここまで来て何も話さないで戻るというわけにもいかないので、リゼットはコニアについての一連の出来事について話をする事にした。
――結論から言えば。
コニアの母は話を聞き終えてとんでもなく顔を真っ青にしていたし、しかしすぐさま真っ赤にさせていた。
「そんな、うちの娘が……なんって事……!」
うちの娘はそんな事しません、と断言されてしまえば、それなら早速今からでも学園で確認しましょうとでも言って連れ出すつもりでいたのだけれど、コニアの母はその場で床にでもこすりつけるんじゃないか、というくらい頭を下げた。
「あの、頭を上げてくださいませ。わたくし、ちょっと確認に来ただけなので咎めるとかそういうつもりではなかったのです」
確認した事は言うまでもない。
貴族としての常識では婚約者がいるなら異性と二人きりにならないし、ましてや自分ではない婚約者のいる異性に言い寄るような事はしない、というのをコニアに教えた時の事だ。
「貴族としての常識なんて平民だから知らないと言われてしまったので、てっきり平民の間では結婚の約束をしている相手がいようとも、自分が欲しければどんな手段を使ってでも奪い取れ、という常識がまかり通っているのではないか……と思ったのですが」
「滅相も無い!」
「えぇ、他の平民の方々にも確認してみましたが皆さまそのような反応で……コニアさんだけが一人そういった考えをお持ちのようでしたので、わたくしてっきり親がそういった教育をしているのではないかしら、と思いまして」
「断じてそのような事は!!」
「えぇ、それは今目の前で貴方の態度を見る限り嘘ではないのだとわかるのですが」
コニアの母――リドナはこんな気持ちになったのはいつ以来だろうと思っていた。
若い頃は色んな事に心を動かしていたけれど、それでも昔に比べれば大分落ち着いてきたと思っていたのだ。色んな感情が渦巻いて言葉に言い表せないようなぐちゃぐちゃな気持ちになるなんて、ないと思っていた。
旦那が事故で死んだ時以来だ。
それから先は一人でコニアを立派に育てなければと思っていたし、今までは二人でやっていたパン屋を一人でやらなきゃいけなくなって、忙しさで目まぐるしい思いはあったけれど、それでもそれはまだ自分の中で言葉にできる範囲でのものだ。
母親一人で子育てをするにしても限度があったし、コニアには寂しい思いをさせる事もあったと思っている。
けれど、生きていく上で稼がないと日々の暮らしもままならなくなる。パンを売っているけれど、パンだけで生きていけるはずもない。飢えをしのげても必要な栄養はどう考えても足りない。
近所の人の好意でコニアの面倒を見てもらうこともあった。
コニアを蔑ろにしたつもりは決してないけれど、それでも幼いうちはきっとそう思われていたかもしれない。
けれど、だからこそリドナはコニアと関わる時は目一杯の愛情を注いできたつもりだ。
あそこの親はロクに子育てしてないから、なんて陰で嗤われるような事にならないよう、人と関わる上での常識はきちんと教えてきたし、コニアだってそれをわかってくれた。
リドナはあまり学のあるタイプではなかったので、勉強については本当に簡単な読み書きしかできなかったが、覚えておいて損のないものはコニアに時間が許す限り教えた。
将来パン屋を継げば一応生活できなくもないとは思うけれど、もしコニアがどこかの家にお嫁にいくような事になるのならそれでいいと思っていた。
少なくともリドナと接していたコニアは、早くに父を亡くしてもそこでふさぎ込まず人を思いやれる優しく周囲を笑顔にしてくれる、そんな素敵な娘だったはずなのだ。
魔法の力が発現して、コニアは特例で学園に通う事を許された。
パン屋以外の道が拓けた。貴族と関わるのは下手をするととても危険な事だけれど、それでももし認められたならパン屋としてやっていくよりも生活は楽になる。
もし、貴族に見初められたなら、少なくとも食べる事には困らない。
同じ学園に通う生徒とはいえ、貴族様に失礼な事はしちゃいけないよ、と学園に入学する前にリドナはしつこいくらい言い聞かせていた。
将来自分の雇い主になるかもしれないし、そうでなくとも敵に回すような事をするのは得策ではない。その気になれば大抵の貴族は自分たちのような平民など簡単にいなかった事にできるのだから。
リドナの家系には何代か前に貴族だった人がいる。それもあって短くはあるが家名を名乗る事が許されていた。いつか、もしかしたら子供に魔法の力が宿るかもしれない可能性もあるし、その時のための目印のようなものだ。
とはいえ、先祖に元貴族がいるからとて、今の貴族を敵に回して勝ち目なんてあるはずがない。
だから、本当にしつこいと言われるくらいにしっかりと言い聞かせたのに。
少なくとも家に帰ってきたコニアの話から、学園では楽しくやっているようだった。
親切にしてくれた人がいるの、とか、その人がとても素敵な人で、だとか。
成績はどうなのだろうか、と思ったけれど、流石に難しいわ、なんて言われてしまえばリドナはそういうものかと思ってしまった。
リドナが若い頃に通っていた学校はあくまでも平民たちに簡単な読み書きだとかを教えてくれるところであって、貴族が通うようなところで学ぶようなことがどんなものかなんて知るはずもなかったのだ。
だから、自分が通っていた学校に比べれば覚える事は色々あるだろうしその分大変なんだろうな、と納得してしまった。
だが実際はどうだろう。
親切にしてくれた人とやらが貴族で、素敵だと言っていたけれど実際は婚約者がいる男性。しかもコニアは彼が婚約者と一緒にいてもお構いなしに関わってきた挙句、婚約者の女性――リゼットだ――を無視してランディにあれこれと話しかけている。
実のところそうやって頻繁にランディ様のところに来ているせいで平民の生徒も貴族の生徒もコニアの事はあまりいい印象を持っていない、と言われてリドナは色んな意味でどうにかなりそうだった。
そりゃあそうだろう。
同じ平民の生徒は下手に貴族を敵に回すような事はしたくないし、貴族の生徒は人の話を聞き入れない理解力しか持たない平民と関わるのはストレスでしかない。
常識知らずの猿を放置しておくのは些か問題があるが、まとわりついているのは自分にではないから軽く注意こそすれど、あとは遠巻きにされているに過ぎない。
ランディの友人だとかはある程度ランディを連れてコニアと関わらないようにしようとしてくれているらしいが、それでもコニアは気付けばランディにまとわりついている。
授業と授業の間の短い休憩時間の時ですらいる時があるのだ。
授業中は流石に教室に居座ったりしていないけれど、マトモに授業を受けているかも疑わしい。
あれほどよそ様に迷惑をかけてはいけないと言ったのに……!
それと、いくら特例で授業料だとかが免除されてるとはいえ、それでも折角学園に通える事になったならしっかりと学ぶんだよとも言ったのに……!
将来的にパン屋以外の道があるなら選択肢は多い方がいいだろうと思っていたのに、蓋を開けてみればコニアは恋に落ちて駄目な方向に突き進んでしまっている。
しかも婚約者相手に喧嘩売るような事まで言ってるではないか。
というか、コニアが惚れた相手は間違いなくアンタに何の興味も持っていないよと話を聞いているリドナですらよくわかるのにコニアはそれに全く気付いていないようなのだ。
恋は盲目とは言うけれど。
盲目のまま突っ走れば道を誤るのは言うまでもない。
何てことしてるんだろうという気持ち。
学園の授業難しくて、とか言ってたけど実際は全く勉強してない事が発覚して怒りたくなる気持ち。大体学園は本来貴族たちが通う場所であって、平民は通おうと思っても本来通えるところではないのだ。通いたいから、で気軽に行ける場所でない事だけは確か。
きちんとやってる、という言葉を何の疑いもせずに信じてしまったという後悔のような気持ち。
とはいえこれは、自分の娘は今まできちんと聞き分けていたから、信じた事が悪いとまでは思っていない。
しかしそれでも、もしかしたらどこかで気付けたのではないか、と思う気持ち。
怒りとか悲しみとか後悔とか恥ずかしいだとか居た堪れないだとか……
まぁともなく色んな気持ちがそれはもうぐちゃぐちゃだった。
何が問題なくやってる、よ。問題大ありじゃない! と叫びたい気持ちにもなった。
店の中で一連の様子を見守っていた常連客も、とても居た堪れない表情をしている。
コニアちゃんが学園に通う事になるなんて思ってなかったよ、目覚めた魔法の力を上手く使いこなせるようになったら、少なくともパン屋で働くより稼げるだろうし、リドナさんも少しは楽ができるかね。なんて微笑ましく言ってた人たちの表情。
それもあって余計にリドナは穴でも掘ってそこに埋まりたい気持ちになってしまっていた。
魔法の力が上手く使いこなせなかったとしても、あまり役に立たない力でしかなかったとしても。
それでも誰かがコニアの事を好きになって、そこで恋愛に発展して将来的にお嫁さんに、なんて言われたなら、まぁ今の生活よりはマシな未来があるだろうから……とは確かにリドナだって考えた。
とはいえ、今まで平民として暮らしてきたのに貴族として生きていくとなれば覚えなきゃいけない事だって沢山あるだろうから、暮らしに困る事はなくても苦労はするだろうと思っていたから。
だからせめて、コニアが一番幸せになれると思った道を選びなさい。
そう言って学園に送り出したのに。
婚約者のいる相手を奪い取ろうとするのがアンタが一番幸せになれる道なのかい……!?
そんなわけないだろう!!
と、リドナはそれはもう叫びたい気持ちだった。
なんって子に育っちまったんだろう。
育て方を間違えたとは思ってないのに、それでもこうしてリゼットの話を聞けば間違ってるという現状。
わざわざ嘘を言いに足を運んだりはしないだろうとリドナは思っている。
そんな事をしなくてもリゼットならコニアを排除する方法なんてそれこそいくらでもあるだろう、とリドナは貴族の恐ろしさを理解していたからこそあえて嘘を伝えにくるなどとは思っていない。
うちの娘はそんな風に育てた覚えはないよ、と啖呵を切りたかったけれどしかしやらかしているようなので。
信じたい気持ちはある。
あるのだけれど、これが例えば同じ平民であったなら、もしかしたらうちの娘を陥れようとしているかもしれないとか疑ったと思うが、相手は貴族だ。
わざわざ陥れるためにここに足を運ぶ理由が全くない。
陥れようと思うのならば、それこそ適当に高価な私物をコニアの鞄の中だとかに紛れ込ませて盗んだ疑惑を持たせるだけでも充分だろう。
実際の真実は違えども、状況証拠で疑わしく思えるなんて事態に事を運ぶくらいやろうと思えばできるのではないか。周囲が結託して一人を追い詰めようと思えばそれはもっと容易にできてしまう。
故に、わざわざこうしてリゼットが一人でここに来る必要などない。
「それで、今の時間帯だとそろそろお昼になる頃なので、ランディ様にまた纏わりついていると思うのですよね。どうしましょう? 確認に行かれますか?」
自分がついているなら貴方を学園の中に入れるのもそこまで問題にならないと思います、と言われてしまえば。
リドナが行かないという選択肢はなかったのである。
店から少し離れた場所に馬車を用意してあったので、学園へはそう時間もかからず到着した。
リゼットが伝言を頼んだメイドは優秀であったので、お昼に来れるようなら中庭にてお待ちした方がよろしいかと、と伝えてあると知らされたのでリゼットはランディがどこにいるかを探す事もなく中庭へと歩き出した。その後ろにすっかり疲れ果てた様子のリドナを連れて。
見知らぬ成人女性を連れて歩いているリゼットは周囲から注目されていたけれど。
しかしリゼットへの注目はあっという間に消えた。
何故って、中庭の一画でランディにしつこく付きまとっているコニアの姿を見てしまったリドナが行動に移ったので。
リドナの目から見て、ランディはとてもうんざりしていた。
確かに顔はハンサムである。
あの顔なら惚れても仕方ない。死んだ旦那にちょっとだけ雰囲気が似ている。親子で好みは似るともいうし、しかもそんな相手に困っていた時に親切にされたというのであれば、そりゃあ娘が惚れたとしてもわからないでもない。
だがしかし相手は明らかに迷惑しているのだ。
露骨に顔に出してはいないけれど、雰囲気がそれを物語っている。
「いいじゃありませんか、今日はどうやらいつもいるあの人もいませんし」
ずんずんと近づくにつれて、娘の声が聞こえてくる。
何を話していたかは知らないが、それでも今聞こえてきた言葉で大体察した。
「コニア!!」
「なに、えっ!? おかあさん……!?」
婚約者がいる男性にコナかけてるのもどうかと思うけど、相手が迷惑してんのに延々付きまとってんじゃない! という気持ちを込めて腹の底から声を出せば、まさか母親がここにきているとは思いもしなかったのだろう。うんざりした顔で呼ばれた方を向いたけれど、怒りのあまり目を吊り上げた母を見てなんでここに!? とばかりに困惑する。
その間にもリドナはずんずんと距離を詰めて。
「こっの……馬鹿娘ぇぇぇぇぇえええええええ!!」
――そうして話は冒頭に戻るのである。
凄まじい、音だった。
誰が聞いてもうわ痛そう、と言うような凄い音がコニアの脳天から響いた。
そもそもこの学園のほとんどの生徒は貴族であるが、彼ら彼女らは拳骨なんてされた覚えがない。
勿論躾の問題で手の甲に鞭を打たれる、という事はあったという者はいるけれど、脳天に拳を思い切り落とされるなんて事は体験したことがなかったのだ。
見知らぬ成人女性が学園にいる、という噂を聞きつけて遠巻きに眺めていた生徒たちのほとんどが「いたたたた」みたいな顔をして首を竦めている。
気に食わない相手と喧嘩して平手打ちをしたことがあるご令嬢も、流石に脳天に拳骨は未知の代物だった。ひっ、ととても小さな悲鳴が知らずそこかしこで上がっている。
ちょっとやんちゃが過ぎて親父に殴られた、なんて令息もいたけれど、歯が折れない程度には加減されていた。だがしかしあれはどうだろう。
手加減は果たしてされているのだろうか、と見ている側がとても心配してしまうくらいに一切の遠慮がなかったのである。
やられたコニアは今現在頭を抱えてうずくまっているし、声にならない悲鳴をあげているようだし、なんなら顔は下を向いているので見えないがきっと涙を浮かべていても何もおかしくはない。
あまりのインパクトに一体何をしたらそんな事になるんだろう、と思った面々ではあるが、すぐさま思い直す。
そうだった、今の衝撃シーンで忘れてたけど、そういやあの子、婚約者の目の前でノートルウェル令息に言い寄ってたんだった……とそれぞれが思い至った。
その光景を目撃していた全員が、というわけではないが、そこそこコニアと関わりがあった――主に同じクラスの生徒や、少々目に余るが故に注意した生徒などはじゃあむしろあれで済んで良かったのかなぁ……と思い始める。
一応まだ生きているわけだし。
いくら目に余る行為をし続けたからといって、連座でお前の一族郎党殺さない代わりにお前が親である責任を果たして娘を処分なさい、とか言い出したわけじゃないだろう……流石にコルネリオ子爵令嬢とてそこまではしないはずだ、と周囲は早々に目の前で私刑が行われるわけではなさそうだなと判断した。
いや、ある意味で公開処刑にも等しいのだが。
まさか学園に親連れてやってくるとか思ってなかったので。
というかだ。確かにやらかしていたコニアが悪いとはいえ、もし自分があんな風に学園に親が乗り込んできて周囲に人がいる中であんな風に鉄拳制裁を受けたなら。
正直、次の日からどんな顔をして学園に通えというのか。
ただの勉強なら家庭教師に泣きつくという手段があるけれど、魔法に関してはそういうわけにもいかない。
魔法に関しての個人授業を行う家庭教師を雇うとなると、それこそ馬鹿みたいに金がかかるのである。
将来的にその分稼ぐから、と言ったとして果たしてそれを許してくれる貴族家庭がどれだけある事か……
むしろ学園で恥を晒してなおそれらを払拭できるほどの事ができると思われるような有用性を示さないと難しいだろうけれど、学園に通えなくなるような恥を晒した時点で社交に出てもその噂がついて回るだろうし、そうなれば正直お先はあまり明るくない。むしろ真っ暗。
貴族としての社会生命が終了してもおかしくはないのである。
コニアは言うまでもなく平民なので家庭教師なんて夢のまた夢だろう。
たとえ、彼女の愛らしさに惚れて彼女を妻に、だとか愛人に、なんて思う相手がいたとしても。
家の財政傾ける勢いで魔法専門の家庭教師を雇うまではいかないかもしれない。
コニアの魔法は治癒なので、鍛えればいずれはとても有用なのだけれどかけた資金を元が取れたと言えるまでになるには……といったところなので。
なにせコニアは学園に入ってから今の今までランディへの恋心に現を抜かし、叶うはずもない恋のために邁進し、学業もだいぶ疎かになってしまっている。
他の平民生徒たちの魔法が少しずつ成長していく中で、コニアだけなのだ。入学当初からほとんど成長していないのは。
なので余計にもし家庭教師を、なんて事になったとしても、なんというか割に合わないのだ。学園で多少なりともその力を伸ばしているならともかく、学園に入った時と全く変わらぬとなれば教える事もその分多くなる。既に優秀ではない、と思われているのもあって一人前になれた、という判定が下るまで教えるとなれば費用はきっと思った以上にかかるだろう。
下手をすればそれだけで家が傾くかもしれない。
流石に自分の家を傾けてまで彼女のために、と思う者はいないと思われる。
そんなコニアは母親からとっても痛そうな拳骨をくらった後、母親からお説教をされている真っ最中であった。
とはいえ、言ってる事は何も間違っちゃいない事ばかりである。
人様に迷惑かけちゃいけませんだとか、人の話はきちんと聞きなさいだとか、失礼な態度を取ったりしないだとか。ましてや婚約者のいる相手を好きになったからって奪い取ろうとするような真似は言語道断だとか。
それは貴族の常識に限るというわけでもなく、平民だってそうなんだとそれはもうハキハキした声で言われているので周囲にとてもよく響いた。
ぐうの音も出ないくらいの正論ラッシュである。
むしろ平民だろうと結婚の約束してる相手がいるのに言い寄ったら、相手からぶん殴られたって文句言えないよ! と言われてしまえば、あぁやっぱりアレが平民の当たり前ではなかったのね……と周囲も安心したくらいだ。一応他の平民たちは違いますあれが普通じゃないんですと言っていたけれど、一人強烈なのがいるともしかして……と思いたくなる気持ちもあったので。
「大体ね! そんな風に周囲に迷惑かける形で自分だけが幸せになったつもりになったって、そんなのそのうちどっかで壊れるに決まってるんだ。自分の人生で一番困るような事になった時に、だぁれも手助けなんてしてくれなくなるし、そうなったらあとは不幸にまっしぐらだよ。
そうなった時にお母さんがまだ生きてるなら多少手助けはできるかもしれないけどね、もしアタシが死んだ後だったらあんたどうするんだい!?
ひとりぼっちで全部頑張らなきゃいけなくなるんだよ。その時にコニア、あんたどうすんの。他に助けてくれる人がいるならいいよ。でもいなかったら、どれだけ辛くても苦しくても全部ひとりでやらないといけないんだよ?」
「でも、だって私ヒロ」
「まずは迷惑かけた人にごめんなさいでしょう!」
怒られた事に納得のいかない様子のコニアは小さな声で何かを言おうとしたのだが、しかしそれに被せるように母親の声が響く。
拳骨一発じゃ足りなかったかい!? とまで言われてしまえば、コニアはびくりと身体を跳ねさせてそれから助けを求めるように周囲に視線を動かした。
面白い見世物だな、といった視線で見ている者はいないが、まぁなんていうかむしろそういう目で見られていた方がマシだったかもしれない。大勢の前でお母さんに叱られるという色んな意味で居た堪れない状況にコニアはこんな場所で叱らなくても……とまだ内心納得していなかった。
大体なんでお母さんが学園に来てるの。
おかしいでしょ、という思いがどうしたってあった。
学園に親が来るなんて、何かがないとまずない事態だ。
連れてきたのがリゼットであった、というのを思い出して、コニアは思わずリゼットを恨みがましく見た。
リゼットはその視線に込められた意味に勿論気付いたが、しかし平然としていた。
「コニアさんには何をどう言っても通じなかったので。しかもまるで貴方が平民代表で自分は非常識ではない、といった態度でしたので思わずこう思ってしまったのです。
――親の顔が見てみたい、と。
なので、見に行ったついでに色々とお話させていただきましたわ」
「親にチクったの……!? サイテー」
「あら、言われたら困るような事、何かしてましたの? でもおかしいですわね。コニアさん自分で何も悪い事なんてしてないって以前言ったじゃないですか。だったら、何も問題なんてないでしょう?」
問題があるからこうなったのだが、リゼットの態度は飄々としたものだ。わかった上で言っているのをコニアも理解しているので、思わずぎりっと奥歯を噛みしめた。
「これ以上目に余るようならわたくしかランディ様が貴方の事処分していたと思うのですけれど、でもほら、そんな事で手を汚すのもなんていうか、ねぇ? そんな事に手間をかけたくありませんし」
さらっと言われた事にコニアは思わず目を見開いていた。
聞き間違いじゃなければ処分と言った。学園での、とかではないだろう。ではそれが意味する事はつまり――
え、私殺されるところだったの……?
なんて恐ろしい女。こんな人が大勢いる前でそんな事を言うなんて。
助けてお母さん、とばかりに母を見れば、母ははぁ、ととても重たい溜息をついたところだった。
「そうなる前にアタシに知らされて良かったよ。ご近所さんにも知られたのは恥ずかしいけど、でもまだお互い生きてるんだからね」
目の前にいるとても恐ろしい女に人の心はないのか、とでも言ってくれるかと思った母は、しかし本当にすいませんね、とリゼットに頭を下げている。リゼットもいえいえ、なんて軽く言っていて、コニアはどんどん場の状況に置いていかれるのを感じていた。
っていうか、今ご近所さんにも知られたって言った……? え……?
どうしよう。どうしたらこの状況から逃れられるのだろうか。
救いを求めるように視線は母からランディに移動する。
縋るような目を向けて「たすけて」と言う前に。
「あの日、君を助けなければこうならなかった、と知っていたなら声をかける事もなかったと思っているよ。
困っていたから助けた事に関してはともかく、その後の事は全部迷惑だったからね」
逆にどうしようもない生き物を見るような目を向けられてランディにまでそう言われ。
なんでぇ……? と情けない声がコニアから漏れ出たのである。
――その後に関してはこれといって何があったわけでもない。
周囲にご迷惑をおかけしましたと母が深々頭を下げて、コニアの頭もぐいっと力尽くで下げさせて、そうして騒ぎにしてしまった事を様子を見に来ていた教師にも謝罪して。
やらかしていたのはお昼休みの時間帯だったので、授業を妨害したとかではないためにそこまで大きな問題にはならなかった。
ただ、問題にならなかったけれどそれなりに大きな騒ぎになったのは言うまでもない。
コニアは学園を退学になったりはしなかった。ただ、本当にランディからも自分の存在が迷惑だと思われている事をようやく理解して、遅ればせながらも真面目に授業を受けるようになったのだとか。
使い方もマトモに覚えず下手に魔法の力を暴走させてもコニアの魔法は治癒なので、そこまで大きな被害を周囲にもたらす事はないだろうと思われているが、それでもその力が反転して周囲に怪我をさせないとも限らないのでどれだけ醜聞が広まって醜態晒された状態だろうとも、学園の授業には出るしかなかったのだ。
けれども魔法の力をある程度コントロールできるようになったなら、その後は。
学園を退学するかどうかはコニアの意思にゆだねられた。
正直コントロールできるようになった時点でやめるくらいなら最後までいた方がマシではあるのだけれど、それが学園側が譲歩できる限界だったと言うべきだろうか。
とはいえ、将来的な意味で見ると良い職場には就けるかどうかは微妙なところだ。それについてはこれからの努力と結果次第である。
流石にあまりにも憐れが過ぎたのか、平民の生徒たちやクラスメイトが気遣って声をかけたりしてはいるけれど、やはり大勢の前でお母さんに怒られたのがよっぽど効いたのか、コニアはすっかり大人しくなったし真面目に授業も受けるようになったので、これからの頑張り次第では当初夢見ていたような高給取りで生活安泰、とまではいかなくてもまぁそれなりに稼げる職には就けるかもしれない。城で専門医の手伝いだとかは無理でも民間のそこそこ大きなところに口利きされるかどうか、といったところか。もっと夢見ていた見初めてもらって幸せ結婚生活はバッサリ断たれてしまったけれど、相手を貴族に限定しなければいずれは誰か――今回のコニアにとって黒歴史になりそうな出来事も気にしない男性だって現れるだろう。
広がるはずだった選択肢はそこそこ狭まってしまったけれど、それでもコニアの未来は完全に閉ざされたわけではなかったのである。
「でもまさか、親の顔が見てみたい、を本当に実行するとは思わなかったな」
「有言実行しただけですわ。でも、わたくしたちにとっては穏便に終わりましたわね」
「親が親なら、って事にならなくて良かったよ、本当に」
「えぇ、そうだったら、一つのパン屋が潰れる事になっていたかもしれませんものね。そうなったらあのお店の常連の方々にご迷惑をかけるところでした」
「パン屋なんて他にもあるから、案外どうにかなるだろうとは思うけどね。でもお気に入りの店がなくなったらしばらく困る、っていう心情は理解できるからそうならなくて良かったというのもわかるよ」
すっかり事態が落ち着いた後、ランディとリゼットはようやくゆっくりと二人になれるようになった。
もう周囲に邪魔が入る事もない。
勿論たまに他の生徒に声をかけられる事はあるけれど、そういうのは授業に関してのお知らせだとか教師が呼んでるとかの連絡事項なので、コニアのように邪魔だなぁなんて思う事もない。
「そういう案外行動的なところ、実はかなり好きなんだよね」
「あら、てっきりお転婆だと言われるかと思いました」
「お転婆なリゼットも嫌いじゃないよ。だってどんなリゼットもリゼットだからね」
「まぁ、どうしましょう。嬉しすぎてどうにかなってしまいそう。ランディ様はわたくしをどうしたいのです」
「やだなぁ、どうもしないさ。むしろいつもどうにかされてしまいそうなのは自分だと思っているよ」
「まぁ、ふふ、そうでしたか」
「そうだとも」
穏やかに微笑む光景は、周囲から見る分にはとても和やかなものではあるのだけれど。
まぁだからといってそこに割り込むような者は当然のことながらいなかったのである。
――ここから先は蛇足的な話ではあるのだが。
今更だがコニアは転生者であった。
自分が知っているゲームの世界にヒロインとして転生したという事に気付いたコニアは、そのゲームが面倒なものじゃなかった事にホッとしたくらいだ。
ゲームそのものは嫌いじゃなかったけれど、あまり複雑なシステムや操作があるものは得意ではなかった。
アクションだとかは苦手だったし、格闘ゲームなんかはコンボがどうこう言われてもマトモに技を繰り出せた試しがないし、フレームがどうのこうのと言われてもさっぱり理解できなかったくらいだ。
前世のコニアが遊んでいたゲームはとりあえずレベルさえ上げておけばクリア可能なRPGだとか、選択肢を選んでいってテキストを読むだけのサウンドノベルやアドベンチャー系のもの、あとは落ちモノと呼ばれるパズルゲームや育成もの。
昔のゲームは難易度が理不尽とよく聞いていたし、難易度を途中で変更できるタイプのゲームだとかもなかったらしい。
前世のコニアは綺麗なイラストや素敵な声の声優さんがいるゲームはそれなりに好んでいたし、だからこそ乙女ゲームと呼ばれるジャンルに辿り着くのもある意味で当然の流れだったのかもしれない。
ヒロインのステータスを上げたりして好きな相手と結ばれる。ものによってはそのステータスを上げたりするのが大変なものもあったりするけれど、複雑な操作は必要とされていないのでそれなりに根気よくプレイしていれば必要なフラグも回収できるしエンディングへと辿り着ける。
のめり込むのは、必然だったのかもしれない。
そんな中親戚に昔のゲームだけど、と勧められたのがコニアが転生した世界を舞台にした作品である。
昔のゲームは難しいって聞いてるからちょっと……と遠慮したが、これは難しくないから大丈夫と言われてとりあえずでプレイした。絵柄はまぁ、昔のゲームの割にそこまで古くさくなく見られるものだったし、声優陣も当初はまだ新人だったのかもしれないが、今やすっかり大御所、ベテランと言われるような人たちだ。そんな声優陣のまだ若かりし頃の初々しさすら感じられる声はなんだかとても新鮮だった。
そして勧められたとおり、難しいわけではなかった。
ステータスを上げる必要もなく、攻略対象に話しかけるだけで好感度が上がっていく。好感度はステータス画面で確認ができて、数値で表示されていて今誰が一番仲良しなのかもわかりやすい。
ただ、会話内容によっては好感度が下がるものもあるのでそこは注意が必要だが、それさえ気をつければ何も問題はなかったくらいだ。
なんだったら挨拶しただけでもちょっとずつ好感度が上がる。まぁ、挨拶だけで好感度を最大まで上げようとすればそれなりに日数が経過するのでやはり休み時間や放課後に会いに行って会話をするべきなのだけれど。
そうやってある程度話をしていく事で、イベントが起きる。
学園ものだからてっきり卒業式の日までやらないとエンディングにはいけないのかな、と思っていたが条件さえそろえば途中でエンディングに入るので、それさえわかればサクサクと他のキャラのエンディングにも辿り着けた。
というか、卒業式までに誰とも結ばれないとノーマルエンドである。一応卒業式イベントもあるので、卒業式までゲームを進める事にメリットが全く無いわけでもなかったけれど。
好感度が大体八割超えていれば、エンディングに突入できる条件はそろっているといってもいい。
この時点で告白が可能である。とはいえ、告白に失敗する事もあるし、告白をした場合とされた場合でのエンディングに特に違いはなかったのでコニアは基本的に相手からの告白待ちでエンディングにいっていたが。
他の攻略対象とも仲良くなっておく事でメリットはあったけれど、一人に狙いを絞って最速で攻略した場合、大体三か月以内でエンディングに辿り着く。
そうなると相手のお嫁さんになるので、学園の成績だとかそういったものがどれだけ低かろうとも何も問題はなかったのだ。そもそもゲームでは成績は攻略対象との仲の良さで何となく決まる感じだった。大勢と仲良くなれば成績上位に。そうでなくても一人の好感度が高ければそれなりに。
そんな、ある意味とても単純なゲームが舞台であった世界に転生したと気づいたコニアは、ずっとお勉強するのも面倒だし早いとこ誰かとくっついてエンディング迎えた方が絶対楽、という理由だけで。
そして最初の入学式の時点で道に迷ったヒロインが遭遇するのはランダムであったけれど、その相手が初期好感度も高い状態で攻略がしやすいという理由だけで。
ランディに狙いを定めたのである。
ゲームといくら似通った部分があろうとも、ここは彼女にとって現実となったのだという事実にすら気付かないまま……
ランディに婚約者がいるのは知っていた。ゲームでもそうだったので。
けれど、ゲームでは別に隣にその婚約者がいたとしてもランディは普通にヒロインと会話をしてくれたし、遊びに誘えばある程度親密になれば誘いに乗ってくれた。
けれど、ゲームと違ってランディはいつまでたってもそっけないし、なんだったら周囲のモブが文句を言ってくる。
確かこれは……ゲームの中だと周囲の好感度の低い人が多いとなる現象だったっけ、と思って一応他の人とも挨拶程度に声をかけたりしていけば、そのうち誰も何もいわなくなってきた。
ただこれは好感度がどうのこうのというよりは、この頃にはコニアの態度に見切りをつけて距離を置かれ始めただけの話だったのだけれど、コニアはそれに気付けなかったのである。
お勉強に関してももうちょっと頑張りなさいと教師に言われたけれど、でもそれだってランディとくっつけば何の問題もなくなると信じて疑っていなかった。
ゲームはエンディングに入ればその先もヒロインはきっと幸せに暮らしたんだろうなと思えるような雰囲気だったけれど、現実はそうではないという事実に一切目を向けなかった。現実でのエンディングとはなんぞや? と問われればまぁ、死んだ時だろう。寿命でか事故や病気事件に巻き込まれるなどの違いはあれど。
だがゲームの中ではそこまで描かれていない。
コニアは仮にランディと結ばれたとしてもそこで終わると思っていて、その先を何も想像していなかった。
ランディの隣にいた女が段々口煩くなってきたなと思ってきたのはその頃だ。
どうせ最終的に自分がランディとくっつけばこの女は誰か別の人と結婚するのだろうと思っていたし、貴族同士の婚約の意味などゲームではそこまで深堀されてもいなかった。だからこれっぽっちも気にしていなかったのだ。
どうせそのうち消えるんだから、さっさと諦めて自分にランディを譲ってくれればいいのに。
なんて、コニアはとても軽く考えていた。
ステータス画面なんてものは生憎存在していなかったけれど、それでも話しかけた回数だとかで大体の好感度は割り出せる。だから、ランディがどれだけそっけなくてデートに出かけた事が一度もなかったとしても、そろそろイベントが起きて先に進むんだろうなと思っていたくらいだ。
イベントは、コニアの想定しない形で訪れた。
学園にお母さん来訪である。
目の前で火花でも散ったのかと思うくらいに痛い拳骨。そこから言われるお説教の数々。
なんで? と思う間もほとんどなかった。
しかも、どう聞いても自分が悪者になっているのだ。
どうして。ゲームじゃこんな展開なかったはず。
確か最初のランディのイベントは街にデートに出かけて、そこで……なんて思い返す間もないままに、お母さんのお説教はどんどん膨れ上がっていく。
しかも周囲に人が沢山いる中でだ。
流石にこれは恥ずかしかった。
酷い。こんな所で大声で言わなくたって……
そう思ってふくれっ面をしそうになったが、母親の言葉が何一つ理解できないわけじゃない。
ご丁寧に今までの事を言われ、客観的な視点含めて言われたそれらは、確かにどうしようもないくらいコニアが悪かったのだ。
親の顔が見てみたい、という言葉は前世でも存在していた。
けれどそれはあくまでも、嫌味の一つみたいなものであって本当に顔を見に行くような人がいるとは思わなかった。
しかもコニアの態度があのまま改まる事もないままだったなら、自分は殺されていたかもしれないと暗に言われて。
嘘だ。有り得ない。ゲームじゃヒロインはそんな危険な目に遭う事もなかった。
そんな否定をしたかったけれど、母は自分の言葉を言い訳する前に謝りなさいと聞いてくれなかったし――後になって考えるとこれは言わなくて正解だったと思っている――そっけなかったけれどそれでも好感度が上がっているはずと信じて疑っていなかったランディに、助けなきゃよかったなんて言われて。
ゲームと違いすぎる事ばかりで。
そこでようやく夢から覚めたみたいにここが現実だと認識したのである。
そうして現実である事を認めて受け入れてから改めて己の行動を思い返したら。
完全に自分がストーカーでしかなかった、という事実にも気づいてしまったのだ。
お母さんに散々怒られて家に連れ帰られて自分の部屋でぶすくれていたコニアは、そのあまりにもあまりな事実に思わず叫びそうになった。
今更とんでもない羞恥心に見舞われて、うわあああああ! と叫びたい衝動に駆られていた。
けれども前世以上に防音対策が完全な室内なんて事もない普通の家のため、叫べば確実にお母さんに聞こえるだろう。
コニアはベッドにうつ伏せになって枕に顔を埋めてどうにか声を漏らさないように叫ぶのでやっとだった。
だって気付いてしまった。
確かにゲームのヒロインとして考えれば可愛いし、そんな可愛い女の子が好意的に近づいているのだからそりゃ相手も話しかけられるだけでちょっとずつ仲良くなるよなぁ、と思っていたけれど。
現実として考えると何の興味もない相手が言い寄ってくるのだ。それも関わりたくないからそっけなくしているのにしつこくしぶとく。
でも決定的な言葉は言われていないから、下手な事言うと自分の方が勘違いしていると思われかねないし、そうなると被害者だったはずの立場が逆転しかねない。
ただ困ってそうだったから親切にしただけで付きまとわれるとか、前世で例えるならバイトで営業スマイルしただけなのに自分に気があると思って付きまとってくる自分の父親以上に年の離れたおっさん並みの迷惑だろう。
もしくはただ同じクラスってだけで名前とかちゃんと覚えてないくらい存在の遠いクラスメイトにいきなりお前俺の事好きなんだろ? 付き合ってやってもいいぜ? とか上から目線で言われるような。
実際にそういう話を聞いて、前世では友人たちとヤダ何それキモ~イ、なんて笑い話にしながらも本気で気持ち悪いと思っていたが、その本気で気持ち悪いと思うような事を自分は生まれ変わった先でやらかしていたのだ。それも無自覚に。
きっと前世のそういった人たちも意識してやってたわけじゃないのだろう。本気でそう思っていたからこそ、無自覚にやらかしてそうして周囲から嫌われた。
性別が男か女かの違いだけで、コニアはそれくらいのやらかしをしてしまったのだ。
前世で中二病患って怪我もしてないのに眼帯と包帯して学校に通ってた挙句自分はミステリアスな美少女だと思い込んでそういったキャラ付けしていたことまで思い出して、コニアはあまりの恥ずかしさに憤死しそうだった。
そもそもランディとくっつけばもう勉強とかどうでもいいしな、と思ってたから最初からロクに勉強もしてなかったせいで成績も低い。
こんなんじゃいくら学園に通っていましたという経歴があっても将来マトモに雇ってくれるところもないだろう。
学校の成績は低いし勘違いで痛々しい行動とってしかも大勢に周知されてるし、どう見ても勘違いして自分は陽キャだと思い込んだ陰キャの痛々しさ列伝である。友達がそこそこいるならまだしも、考えてみれば自分はすっかりぼっち。
とても非情な現実に気が付いてしまった。
ぶっちゃけ見た目は美少女で前世より勝ち組だけど、それ以外の部分を見ると前世の方がまだマトモに人間やってたレベルである。
前世は成績が悪くてもお友達がいて、毎日バカ騒ぎして楽しい日々だった。けれど今はそんな風に笑いあえる友達すらいないのだ。しかも今から作ろうにも入学してからかなり経過している。すっかりグループが出来上がってしまっているのだ。挙句自分はやらかしたので、今更他のグループにいーれーて、なんて言っても受け入れてくれる可能性がとても低い。
他のグループと仲たがいして、とかならまだしも、初っ端からぼっちしてた痛々しい勘違い女をグループにいれるとか、自分が逆の立場なら今のグループの空気も悪くなりそうだし反対するだろう。
かといってもう学園に行きたくない、は通用しそうにない。
前世ならそのままずる休みだとかで引きこもりコースに入れるかもしれないが、魔法の力を使いこなせなければもしかしたらもっと酷い事になるのではないか、それ以前にお母さんが許してくれるはずもない。学園には毎日何が何でも通わされるだろう。学園に行く振りをしてサボる、というのも考えたが、それがお母さんにバレたら今度は間違いなく拳骨だけで済まない。
幸いな点は、ランディ一人に狙いを定めて速攻でエンディングを目指そうとしたからまだ学園に在籍できる期間があるという事。今から真面目に勉強すれば、他の皆に遅れはしても一応どうにかなるんじゃないかな、と思えなくもない。これが卒業間近でこの状態なら完全に詰んでいた。
まぁその幸いな点は学園に在籍する期間がまだそれなりにあるから、周囲の目がそれなりに白いのは継続されるという事でもあるのだが。
今更何をどう言ったところでコニアの学園での周囲の目が簡単に変わる事はない。
それもわかってしまったからこそ、コニアは残りの期間をどうにか真面目にやり過ごそうと決めたのである。
すっかり大人しくなったコニアに対する周囲の反応は、まぁ可もなく不可もなくといったところだった。
若干気を使って話しかけてくれる人もいた。ちょっとよそよそしい部分もあるけれど、それはもう仕方がない。やらかした自分が悪いのだから。
最初からいないみたいに皆から無視されるよりはきっとマシなのだろう。そう思って、今までのやらかしに発狂しそうになりながらもどうにか平静を装って、学園生活を過ごしていた。
わからない部分があったから授業が終わって先生に質問に行って、そうこうしているうちにすっかり誰もいなくなった放課後、ふと教室の窓の外を見ればそこには二人寄り添うようにしているのが見えた。
ランディとリゼットである。
何を話しているのかまでは聞こえるはずもないのだけれど、それでも二人の表情は見えた。
幸せそうに笑っている。
弾けるような笑顔というわけではないけれど、穏やかに、まるでユリカゴにでも揺られているような気持ちになれそうなくらい穏やかな笑みだった。
リゼットも、ランディも。
「あ……」
そこでようやく。
自分が本当に好かれてなどいなかったのだと思い知る。
ランディは自分に一度だってあんな表情見せた事がなかった。ゲームでも、あんな風に笑ったりしていなかったように思う。もし、もしもの話だけれど、ゲームでエンディングを迎えた後、彼はきっとヒロインに向けてあんな風に微笑む事はあったかもしれない。けれど、エンディングのその先なんてコニアは知らないのでそれは所詮想像でしかない。
温かいような冷たいような不思議な感覚が頬を伝う。
「あれ……?」
気付けば涙が出ていた。
ランディに声をかけたのは、入学式の日に最初に出会う人が好感度が高い分攻略がしやすいから。そんな理由からだ。サクッと攻略してさっさとゲームのエンディングを迎えて、そしたらそこから先はずっと幸せになれると信じて疑っていなかったからだ。正直に言って、ランディじゃなきゃ駄目だとか、そういうわけじゃなかったはずなのだ。
もしあの日、最初に出会ったのがランディじゃなければ自分はそちらを攻略しようとしただろう。
そう思っているはずなのに。
幸せそうに寄り添う二人を見て、何故だかコニアの胸は苦しさを覚えて、どうしてだか涙は止まらなかった。
ゲームの攻略対象キャラ、くらいにしか見ていなかったはずだけど、知らないうちに本当に恋をしていたのだ、と気付いた時には。
――何もかもが遅かった。