世迷い事
どこまでも高い空に刷毛で一振り、雲がかかっていた。初秋だった。
澄んだ風が私の頬をくすぐった。私はエンジンフードの下から顔をあげ、肩で汗を拭いた。手は煤と油で汚れていた。
「どうだね、直りそうかね」
助手席に座る男は本から目をそらさずに言った。
「お手上げだ。単なるオーバーヒートかと思ったら、どうやらそうではないらしい」
「それは困ったことになったな」
男は興味のない様子で言った。
「このままでは夕方のクイズ番組には間に合いそうにないな」
少し意地悪な気持ちになった私は言った。
「それでは困る。一週間の楽しみなんだ。なんとしても直してくれ」
車の横からひょっこりと顔を出し男は言った。
「すでに修理は呼んである。私たちができるのは待つだけだ。そう慌てるな」
私は笑いながら言った。
道端の砂で手をこすりタオルで手を拭いた。運転席に戻り一息つくと、水筒のコーヒーを飲んだ。
「それにしても偉いことになったな」男は言った。「まさか単なるドライブでこんな目にあうとは。誰だね、車を走らせに行こうなんて言ったやつは」
「大げさだね。車のトラブルはドライブにつきものさ。それに今日の提案をしたのは君だぜ? 人間、家に籠ってばかりは駄目さ、たまには自然と戯れないとってさ」
「そうだったか?」
「とぼけたって駄目だ」
「気まぐれなんて口にするもんじゃないな」
「でも、今日一日悪くはなかっただろ?」
「悪くはないね」
男はまんざらでもない顔で言った。
「ならトラブルも楽しもうじゃないか」
「君みたいに単純な人間だったらどれほど人生楽だったか」
「悪かったね」
「いいや、褒めているんだ」
「そうとは思えないが」
「残念なことに、私自身も褒めていたようには聞こえないんだ。口は禍の元だ。言わぬが花とはよくいったもんだ。すまなかった、謝るよ」
「今日はすいぶんと素直だね。こちらが気持ち悪くなるよ」
「そういう日だってある。ましてこれほど自然と触れ合えば、素直な自分と向き合わざるを得ない。いい一日を有難う。そしてトラブルを有難う」
「まだ言うか。だから故障は私の責任じゃないぞ。たまたま今回こうなっちまっただけだ。こいつだって、普段はよく走ってくれるんだ。今日は運が悪かっただけさ」
「それはつまり、普段の手入が行き届いていなかったってだけじゃないかな」
「こちらだって車の神様ってわけにはいかないんだ。十全に対処しろってのは無理がある」
「それなら……おっと、気を抜くと嫌味ばかり言いたくなって自分でも嫌になるよ。修理の人間が来るまで待てばいいんだ。それで満足すべきだ」
「そういうことだ」
私は席を倒し頭の後ろで手を組んだ。何か口笛でも吹いてやろうと思ったがなにも浮かばなかった。それでも適当に口をすぼめているといつのまにかダニーボーイを吹いていた。
男は本の続きを読んでいた。無駄に長いだけの流行りものの小説だ。珍しいものを読んでいるな、と私は思った。
「面白いかい、それ」
「まあまあかな。考えさせられるところもある」
「へえ、例えばどういうところかな」
「選択の自由、いや自由意思による選択。個人の任意性について」
「そんなもの考える必要があるのか? 私たちは奴隷時代に生きているわけじゃない。好きなものを食べ、好きな酒を飲み、たまにはこうして好きなだけ日の光を浴びる。現代様様だ」
「それが自由意志だとでも?」
「当り前じゃないか。そうじゃなきゃ君とこうしてドライブなんてしないよ」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。私にもコーヒーを飲ませてくれないかな。君の自由意思で判断して」
私は水筒を渡してやった。
「ありがとう。喉が渇いてしまってね。つまり、コーヒーが飲みたいという私の欲求は、自由意志とは関係のない必然というわけだ」
「好きな時にのどが渇いて好きな時に排尿するってわけにはいかない。私たちは生きているのだから」
「生物という理に縛られているわけだ」
「で、いつまで続けるのかな? この話を」
「端書きみたいなものだ。考えをまとめるために適当に喋っている。終わりどころを聞かんでくれ。もしかしたらこれで終わりかもしれないし、もう少しだけ続くかもしれない。それは私にも分からない」
「それも必然かな?」
「多分な。例えば、手をあげてみてくれ」
やれやれ、と私は右手をあげた。
「これでいいかい」
「なんだ。まだ油で汚れているじゃないか」
「仕方がないだろ。近くに水道なんてないのだから。それともそのコーヒーで洗うかい?」
男はかぶりを振った。
「まあよろしい。どうして右手をあげたのかな? 左手では駄目だったのかな? それは任意かな?」
「君にあげろと言われたからあげたまでだ。右手だったのは特に深い意味はないよ。まあ任意と言われれば任意かな」
「それは違う。君の左手にはドアがあり狭い。そこで広い私側のスペースを利用したのさ、無意識にね」
「つまり必然だと」
「そうだ」
「トルストイがそんな話を書いていたな。クトゥーゾフがやたらと持ち上げられているやつ」
「優れた作家は、優れた文筆家であると同時に優れた観測者でもある。私たちは何百年、下手をすれば何千年も前から同じところで足踏みをしているだけなのかもしれない」
「仕方がなかろう。私たち凡人が出来ることは、先駆者の言葉を借りて何か知った気になるだけだ」
「まあ、悲観的になってても何にもならい。話を戻そう。私たちはつねに他者との関係性で成り立っているのであり、一見自由意志だと思われる選択も、その実は違う。見えないところであらゆる要素が絡まりあい、そうせざるを得ない、というわけだ」
「簡単な構造主義かな」
「私はあそこまで物事を単純化できないと考えている。形而上学とは、記号的世間話にすぎない。市場の偶像を少しだけ改善しただけの話だ。私としては東洋思想に近いかもしれない。異教徒として唯識論ほど過激なことはいわないが、しかしそれに近いことを考えている」
「そんなこと言うと、俺たちの神様が泣くぞ」
「大丈夫、神は心が広い。私みたいな者にもそのうち改心の機会を与えてくださるはずだ」
「それも必然か」
「ああ」
私は体を起こすとハンドルにもたれてフロントガラス越しに空を見た。鳥が一羽、大きく円を描いて舞っていた。
「選択には自由意志など介在せず、それが必然だとするならば、ある可能性が存在しないかな」
「なにかな」
「他者の意思の存在」
「アジテーションか」
「古くから善悪二元論で使い古されてきた。善とはなんだ? 悪とはなんだ? それを決めてきたのは、誰だ?」
「罰当たりだぞ」
「フランス革命は金持ちの思惑であり、ナポレオンはその御旗だ。アメリカはイギリスから独立してどうなった? 迷宮の将軍たるシモン・ボリバルはスペイン人の手から母国を解放し、最後はどうなった? ロマノフ王朝を打倒したソ連は? ヴィルヘルム二世を追い出したドイツは?」
「すまないが歴史に詳しくないのでね。知らんよ」
「結果はすべて同じだ。新たな支配者の都合でしかなかった。そのさいに使用したのが選択という名の幻想だ。世間に選ばせるんだ。少なくとも自分から選んだと思わせてやるんだ」
「どうやって?」
「言っただろ、二元論だと。右と左に分かれて台本ありきの争いをさせるんだ。誰もかれもが頭がいいとは限らない。自分の考えを言葉にするのだって難しいんだ。そこで代弁者を立ててやる。彼らに自分の主張を叫んでもらうんだ。そして左右の代弁者には一見相反する主張をしているようで、その実まったく同じことを言わせる。ある一定の方向に圧力をかけるんだ。すると思い通りに世論を誘導できるって寸法だ」
「そんな一人芝居のおまま事が上手くいくかな」
「上手くいったから革命というイベントがあったのではないかな。私はそう考えている」
「なんにしても、私には関係のない話だな。自由か必然かなんて私には分からないが、いまこうして自由を謳歌しているのは事実だ。たまの休日には君とドライブに出かけ、トラブルに見舞われる。これも君に言わせれば必然なのかもしれないが、私にとっては自由だ。ほら、ああして修理屋が車を直しに来てくれた。喜べ、夕方の番組に間に合うぞ」
私は運転席から降りると、修理屋の名前の入ったトラックに手を振った。
男は助手席で本の続きを読んでいた。