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神隠しの森に落ちる火球と蔦の家  作者: 雷紋 ライト
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9. メトロノームの地獄

幼い姉妹の行方不明事件や殺人犯変死が発生した神隠しの森に、ある夜火球が落ちた。その夜以降、周辺の家々にツタが異常発生する。父の稔に見てほしいものがあると実家に呼ばれたいずみは、実家全体がツタに覆われているのに驚く。稔の言う「見てほしいもの」は別にあるらしいのだが、それが何なのか中々教えてくれない。やがて激しい雷雨がやってきて、鳴らないはずの風鈴が鳴りだすと、母えり子にそっくりな女が現れた。えり子は数か月前に交通事故で死んでいた。いずみは死んだ母が生き返ったことに困惑する。死んではいるが元気のいいえり子に比べて、どんどん具合が悪くなっていく稔。いずみはこのままだとえり子に精気を吸い取られて稔の命が危ういと心配する。そんな時裏庭にいずみの恋人の啓吾が忽然と現れた。なぜ実家に来たのかを尋ねるのだが要領を得ず……。

 サルスベリの花が積乱雲のすこし残る夏空の深い青に負けじと鮮やかに咲き(こぼ)れていたが、強烈な日差しを浴びた樹体はその根元にどこか(うつ)ろな影を広げていた。なぜ啓吾が裏庭にいるのかいずみは理解に苦しんだが、台所で冷蔵庫のしまる音がしてハッとした。

 えり子と啓吾が顔を突き合せたら厄介なことになるに違いない。以前二人は電話ごしにいずみのことでもめたことがあったし、それに死んだえり子の復活について啓吾になんと説明していいのか分からない。


 結構伸びた啓吾の前髪が風になびいて、たった今夢から覚めたような表情が見えた。いずみは視界に入った赤色に引っ張られて啓吾の足元をみると、ナイキの赤いスニーカーが泥だらけだった。啓吾は丸メガネを外すと黒のロングパーカーの裾でガラスを拭いた。拭き終わったメガネを掛け直すと青空を見上げて眩しそうに顔をしかめた。そしてふとサルスベリの枝の間に何かを見つけたようで、少しかがみながら一歩二歩近づいた。


 いずみはしずかにガラス戸を開けてサンダルをつっかけた。突如周囲にもやが立ち込めてきてうまく遠くを見通せない、啓吾はそんな目をした。


「こんなところで、なにしてるの」といずみは抑えた声で聞いた。

「見てる」と啓吾はけだるそうな声で答えた。

「ん?」


 近づいてみると、どうやらサルスベリの枝の間に張られたクモの巣を見ているらしかった。巣の網目にひときわまるまると宿っている雨のひとつぶがしずかに光っていた。その雨つぶは下に落ちまいとしてみずからの重さをこらえているようにも見えたが、表面張力の結界がいよいよ破れて形を失うと網目の交差にとろけてそのまま緑に翳った地面へと落ちていった。その反動で巣全体が夜の海面みたいに揺れた。余韻の波紋がたゆたう巣の中央で、黄色い斑点模様のクモが複数の長い足を器用に操って、巣にかかった小さな虫を極細の糸でぐるぐるとがんじがらめにしていた。クモの足が止まると、そのうっすらと黄みどり色に透けたぐるぐる巻きがちょっとだけ震えた。そしてすぐに動かなくなった。


「えっと、そういうことじゃなくて。どうしてここにいるのって意味で聞いたの」

 いずみがあらためて聞くと、啓吾はメガネ越しに不安げな目を何度も瞬かせた。 


「ここどこ? 俺、なんでここにいる?」

 啓吾は記憶をなくした人みたいに言った。

「それはわたしの質問なんだけどなぁ」

 いずみは啓吾の物言いに戸惑いながらも、えり子に見つからないように庇の端の陰へと移動した。

「わたしのスマホに入れたGPSアプリを辿ってここまで来たの?」

 さっきスマホの緑ランプはついていなかったはず、といずみは思い返した。GPSアプリが作動しているとスマホの緑ランプが点灯すると会社の同僚が言っていたのだった。

「それか、今日もあとをつけてきたの?」

 啓吾は人差し指であご先をいじりながら考え込んでいた。

「さあ……気がついたらここにいたんだ」

「どういうこと?」

「……記憶が……はっきりしないんだ。なんで俺、ここにいるんだろ。いずみはここでなにしてるの」

 啓吾は風にあおられて両目にかかった髪を手で押さえた。

「ここ、わたしの実家なの。来たことなかったよね?」といずみは家屋を指さした。

「実家? ここが?」

 啓吾は大ぶりなツタの葉がウロコみたいに覆っている居間の外壁を「なんかすごいな」と言いながら屋根の方まで見上げた。絶え間ないツタの葉擦れが密やかな呪文のつぶやきのようにも聞こえた。


 いずみには啓吾がウソをついているようには見えなかった。勝手に人のスマホに追跡アプリを入れたりするような頭のおかしいところはあるけれど変な小芝居をしたりはしない。啓吾はパーカーのポケットに手を突っ込むとヘアゴムを取り出して、「あっつ…」と呟きながら髪をハーフアップみたいに結んでパーカーを脱いだ。もしかしたら啓吾は熱中症で意識がもうろうとしているのかもしれないと思い至った。

「冷たい水持ってくるからちょっとだけ待ってて」といずみが言うと、「あっ、思い出した」と啓吾は目を見開いた。

「なんか、ものすごくうるさい所にいたわ。うん、なんか思い出してきたぞ」

 啓吾は不意に覚醒したようだった。


「どこだかわかんないけど、なんにも置いていない殺風景な部屋にいたんだ。そしたら突然バチッて音がして電気が切れてさ。真っ暗な部屋の隅の方からメトロノームが鳴り出したのよ。それも一台じゃなくて、何十台、いやもっとかな。ものすごい数のメトロノームが最初はそれぞれバラバラに時を刻み散らしていたんだけど、そのうちリズムが同期していってさ。無数のメトロノームの金属音がだんだんと一つのリズムに集約されていって、最後には全体主義の足踏みのようになったんだ。それでその画一的なリズムに合わせて、体全体がスピーカーのコーンみたいに振動するんだよ、ドゥヴン、ドゥヴン、ドゥヴンって、延々に。そのうち腹とか背中とか体のあちこちが差し込むようにキリキリ痛くなってきたんだ。骨の髄に響くほどの硬い痛さでさ。音と振動の拷問に苛まれているようだった。苦しすぎてこのまま発狂するかもしれないとおそろしかった。だからもう目を閉じて耳を塞いでその場にうずくまって痛みに耐えてた。そこから逃げようにも、あまりに真っ暗でとても動けなかったし、そもそも動こうとする気力すら奪われるような闇の深さと痛みだったんだ。どのくらいそこにいたかわからないけど、出し抜けにまぶたの後ろが真っ白にひかってさ。世界がひかりに照らし出されたのよ。そのうち体が窯の中のピザかってくらいあつくなっていって……気がついたらここに立ってたんだ」


 玄関のチャイムが鳴った。外にいるいずみにもそれが聞こえてきて、「やば!」と声をあげた。

 死んだえり子が他人と接触したら大変なことになる! 焦ったいずみはえり子を止めようと台所の曇りガラスを外から開けようとしたが、鍵がかかっていて開かなかった。再びチャイムが鳴った。

「だめ、出ちゃだめ!」といずみは声をあげたが、「はーい」とえり子がチャイムに応えるのが聞こえた。おそらく稔はまだマツモトから帰ってきていないのだ。いずみは目の前が暗くなった。えり子のよみがえりが周囲にバレたらどうなるのだろう。具体的なことはまったく予測がつかなかったが、とにかく非常にマズいことになりそうな気がした。


「ここにいて!」といずみは啓吾に言い残すと、サンダルのままダッシュで玄関に向かった。外壁に立てかけてある畑用の消石灰の大袋をよけながら角を曲がると、玄関のドアの前に杖をついたおじいさんが立っているのが見えた。その直後、玄関のドアが内側から開いた。


「あら~おひさしぶりです! お元気でしたか~」

 えり子の快活な声が辺りに響いた。


 間に合わなかった……いずみの下唇がけいれんするように震えた。愕然とした稔が門扉を開けた姿勢のままで玄関の二人を見ていた。死んでいるえり子以上に顔が真っ白だった。

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